2018年8月30日

唐傘だったか番傘だったか名前を忘れてしまったが、太い軸を持った大きな傘はビーチパラソルを連想させた。


道路から直接入れるようになっている此処は境内の裏だと先生は言った。アスファルトを離れ、数段しかない階段を上がると土臭さが鼻を刺す。

辺りは薄暗く、大樹から伸びた根や苔で形と色が歪になってしまった地面は少しぬかるんでいた。曇り空のせいだろうか、昼間だというのに空気は少し肌寒かった。


鬱蒼とした雰囲気が非日常的で気分が高揚した私は、勢いに任せて辺りを散策し始めた。もちろん先生から離れない範囲での話だが。

此処は枝葉に遮られ、日光が届きにくいのだろう。湿気た土が異様な臭いを放っていた。段々とした土地で、墓石が点在している風景は何処か見たことがあったものだった。後に思い出したが、あれは棚田のようであった。


先生は「あまり遠くへ行かないように」と私に言いながら大きな傘を広げていた。私は先生から少し高い位置からそれを見ていた。

先生の前には今、私の近くにある墓石と似たようなものがあった。他の物と違って、それだけは木製の屋根で覆われていて、入り口を通って1番最初に目に付く所に置かれていた。

「はぁい」と私は返事をして先生の元へと戻った。


唐傘だったか番傘だったか名前を忘れてしまったが、太い軸を持った大きな傘はビーチパラソルを連想させた。

それを地面に突き刺せば、開いた傘の部分から白い靄のような霧のような、歌番組でよく見るスモークのような煙が落ちてくる。その様子を見て、以前、某教育番組で見た茸が胞子を飛ばす場面を思い出していた。


先生が「此処から離れないように」と言ったのでその場から不用意に歩き回らないことにした。先生は手際よく、花を備えたり石へ話しかけたりしていた。傘からは相変わらず煙が出続けていた。私はただそこに突っ立っているだけで、何か手伝ったほうがいいのだろうか、などと考えていた。


何か手伝いを申し出なければと焦る半面、先生の真剣な顔を見て、邪魔をしてはいけないと口を閉ざした。そんなことをぐるぐると考えていた時、人影が視えた。

私たちと同じく、墓参り(と言えるのかは別として)に来た人々だろうか。だんだん数は増えていき、そのうち数人は青緑色の服を身につけていた。


青緑色というか青にも緑にも見える色であった。傘から絶えず落ちてくる煙越しに視える、急に増えた人々は歩き回るでもなくゆらゆらと揺れては、すーっと移動していた。場所が場所なだけに気味が悪い、と思ったが、見てる分には面白いのでチラチラと横目で観察していたら、そのうちの1人と目が合った。


瞬間、腹の底から湧き上がるのは恐怖一色。心臓が1度だけ極限まで縮んだ次には不規則な鼓動を繰り返す。這い上がる吐き気と冷や汗に初めて“あれ”はみてはいけないものだといまさらおもいしった。

知らぬが仏とはよく言ったものだ。現実逃避の一種だろうか、脳内の隅で感心している私がいた。

目が合った人はこちらへ体を向ける。目を憑けられた、と感じた。


先ほどまで辺りを歩き回り、その非日常感に興奮さえしていたのに、一転、此処が怖いとしか思えなくなっていた。怖くて怖くて先生の背にしがみつく。先生も半歩後ろへ下がり、私は傘から落ちてくる煙の中に包まれた。煙は冷りとしていて髪を頬を滑り落ちていく。今思えば、あれはドライアイスのようだった。


先生の服を掴む手が力み、関節が白く浮き出る。


あ、あ、来る、来た。


青緑色の服を着た彼らが私たちに近づいて来るのがわかる。

先生は相変わらず黙ったままで、私はしがみついたままで、音すら無い数秒に少し気まずさを感じた私は先生の肩越しに前を見た。

“それ”は先生の傍らに立ち、私を見つめていた。ヒッと喉と胃が縮む。

彼らの目の中には眼球の類いは無く、黒い眼孔がこちらを覗き込んでいた。


あの黒い眼孔がこの上なく恐ろしくぎゅっと目を閉じた。上下の瞼が一体化してしまうほど力を込めて固く閉じた。

先生は此処に来た時から変わらない、いつもの穏やかな声で「動かないように」と言った。服越しに伝わる体温だけが私の正気を保たせた。傘から落ちる煙が背中を撫でる。足下で地面が微かに揺れた。


此処の土は所々、苔に覆われていて、湿っており、柔らかい。場所によってはぬかるんでいるとも言える。

近くで誰かが土を踏みしめている感触を、靴底が掴み取った。“あれ”だ。今の私は目を固く閉じ、先生の背に顔を押し付けているが、よくわかる。黒い眼孔を持った“あれ”が私の後ろを歩いている。


見られている。観られている。


【中略】


気づけば私は大きな傘を畳んでいた。いつの間にか合流していた先生の友人に畳み方を教わりながら、屋根付きの墓石の正面に小屋があることを知った。

何故、入ってくる時に気がつかなかったのだろう。木々雑草に囲まれ、蔦が這う木製の小屋は薄気味が悪いと思った。

先生は供えた花を片付けていた。


傘を畳み終えた私はする事が無くなってしまった。墓石を見ると、所々、煤けたように黒ずんでいるのに気づいた。先生の友人もそれを見つけたようで、声をひとつ荒上げ、服の袖で石を拭き始めた。先生は黙って石を拭いていた。私はただそれを見ていた。


やる事が無く、しゃがんでいるだけの私を見て先生が口を開いた。

「前に此処に来たことがあると言っていなかったかな」

「はい。あります、境内のほうですが」

「塔に入ったことはあるかな?」

「塔?」

「境内にある五重塔だよ」

「…七五三くらいでしか来たことはありませんし、その時は参拝だけで終わったかと思います」

確かに境内には五重塔がある。しかしあれは模型のようなものであって中には入れないはずだった。


私の答えに先生は「そうか」とだけ言って、また石を拭き始めた。私は持ち運びやすいように花を新聞紙にまとめて包んだ。

先生が先に道路へ出ているように、と言った。先生と先生の友人は墓石に水を掛けてから来るらしい。私は大きな傘と新聞紙に包まれた花を持って、不揃いな石で出来た階段を降りる。


アスファルトに足をつけ、その硬い感触に安心した。

降り注ぐ虫の声も今や湧き上がるものとなり、夏の終わりを実感する。車が横切った。歩道が無い細い道では歩行者の人権など無いも同然である。せめて邪魔にならないように、と垣根に背を近づけた。荷物の中で傘がいちばん重かった。


後ろに下がる時、傘の先がカツンと何かに当たった。近くに標識があったようで、それにぶつけてしまったらしい。それなりの高さを持つ標識は垣根との間に微妙な隙間を作り出している。


先生たちはまだ来ない。


荷物の重さに手が痺れてきた。少しくらい地面に降ろしても構わないだろう。人が来ない事を確認するために左右を見る。当然のように標識と垣根の隙間を見ることになる。そして、そのまま降ろそうとしていた荷物をそっと抱え直し、垣根から背を離した。


標識と垣根の微妙な隙間の向こうで、黒い眼孔がこちらを見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る