第16話『本業開始』
深夜、それは主人が眠りについたあとのことだった。
「さてと――始めますか」
掃除を一通り終えたアルヴァは休憩がてら伸びをひとつすると、おもむろに床板に手を添えた。そこを
「
なにやら意味不明な綴りを並べているが、これはれっきとした魔術――もとい神聖術である。
曰く、掃除を終えたあとにすること。それは当然、敵陣地の占領だ。
青年本来の目的はあくまで兵器の奪取。今ある立場はあくまで隠れ蓑にすぎない。
アイラ嬢から聞いた話によれば、この屋敷はヴァンキーラの別邸。当主であり、アルヴァの上司でもあるロリババアは一度も訪れたことがないという。
そして屋敷のメイド及び従者はすべて罷免を出され、現状ここには青年と主人のふたりを除いて誰もいないことになる。
そんな良物件を彼が見逃すはずがない。
ここを自らの拠点として魔術的に作り替えれば、部下との交信が捗ってより効率的に捜索と調査を進められる。
床を伝って、魔力が屋敷全体を侵食する。見えない蔦状のそれは、決して触れることのできない領域を創る。
本来そこに二重に魔力を流すと、もとある結界が作動してしまい、アルヴァの偽装工作が露見されてしまう。
だが、そこを露見させないのが一流というもの。
結界の上書きではなく改変をほどこすことによって、術者本人でさえも気づかないほど緻密なニセモノを張り上げる。
やはり五大貴族の当主ともなると術の構成が複雑怪奇だ。
さすがの青年も体力と神経をすり減らせ、組み替えが終るころには街の明りは消え去っていた。
「……ふう、やっと終った」
そして――、庭に出てもう一仕事。打って変わった薄い結界を張る。これは侵入者を告げる単なるアラームで保険と思えばいい。
そのほか、遮音、空間固定、接続、などなど小結界をいくつか張っておく。
なぜわざわざ何重にもする必要があるかと言えば、隠蔽である。
地脈にマナを張るには多くの魔力が必要だ。そして多量のマナを使った痕跡は簡単には消すことができない。
まあ、青年にそんなへまをする器量はないのだが。僅かでも気づかれたらアウトだ。
魔術に秀でたものがそれを見つけ、存在が露見されれば、それはどういった趣旨で張られたものなのか特定され、そこでゲームオーバーだ。
だからわかりやすく何重にも張っておくことで一番重要なものを曖昧にしてしまう算段なのだ。
「ま、耐魔導士トレーニングの一環とか言っときゃなんとかあるだろ」
呑気に戯言を呟くアルヴァだったが、首を振る青年のうなじに突如、冷たい戦慄が走る―――。
屋敷に張っていた感知結界が作動したのだ。
さっき仕掛けたばかりだというのに、まさか初日から引っかかるとは……。
「ずいぶんと動きが早いな」
軍服を翻す。そういえばまだ風呂に入ってないと悪態吐いて、気配を遮断する。
隠蔽スキルなぞ一切使わなくても消える、アサシンの翳。
結界、その真価はいかに気付かれずに術中に嵌めるかだ。
侵入者が気づくより前に茂みに入り、景色と同化する。
足音を殺しながら近づくのは彼の専売特許だ。
相手に悟られず視覚情報を拡げ、獲物を待ち伏せする――
侵入者の気配が意識内に入る。爪先数ミリ触れたと同時、アサシンの口が弧を描く。
だが、影が接敵する寸前、足音がピタリと止んだ。
弾かれたように相見得ぬ影は後方へ飛び、そのまま去って行った。
気配が消えるのを確かめてにわかに、青年が選評した。
感づかれたのか――?
ありえない。青年は完璧に気配を殺していたはずだ。
臨界点まで上げられた気配遮断スキルは人間の五感ではまず察知できない。
だが影の動きは、まさしく青年の動きに気づいたものだった。でなければ直前であのような芸当はできない。
確実に直前まで踏み込もうとしていた。反射的な撤退、本能による察知か? だとしても反応速度が速すぎる。人間にそんなことできるワケがない。
あと半歩で確実に仕留める位置にいた身体を引き戻すほどの身体能力。
「面倒なことになりそうだな……」
あちらにも侮れないのがいるようだ。
しかたなく踵を返すオレの足を、再び止める音がした。今度は結界など作動せず、裏庭から聞こえてくる草の葉がぶんっと凪に揺れる。
庭の裏、すこし開けたところで、可憐な乙女が自主練習に励んでいる。
「…まったく、たいしたものだ」
皮肉交じりに笑う目は、なにも抱かない。
トレーニングウェアに身を包む主人は、二刀の木剣を握ってしきりに技を空討ちしている。
「せいっ――――はぁッ!」
だが身に纏ったはずのマナはひどく弱く、少女の意に反した動きをする。おおきく振りかぶった剣の重みにバランスを崩すと、そのまま地面に倒れ伏せてしまう。
疲労でマナが充分に回復できていないせいだ。一度空っぽになったMPは休息以外に回復する方法はないはずだが。
「……くっ」
泥だらけになった着衣で顔を拭い、あきたらず立ち上がる。
「精が出ますね」
見かねた青年が木陰から姿を現した。アイラは青年には目もくれず、声だけがこちらを向く。
「……なによ、邪魔するなら消えて」
「身体を休めることも軍人の本懐ですよ。寝る子は育つという言葉もあるほどですから」
「私は子どもなんかじゃ――ッ」
キッと大きく目を開く表情は、昼間とは打って変わり覇気がない。
それどころか自嘲げに苦笑して、木剣を下げる始末だ。
「……いや、私はまだまだ未熟、未熟すぎる。こんなところで躓いてる場合じゃないのに――」
ぎりりっ歯を軋ませて、アイラが目を伏せる。
アイラ自身、きょうのことで任務の怖さをあらためて実感した。
自身の不注意で起きた失態。私がもっと上手くやっていれば、常時警戒を怠らなければ。こんな失態は犯さずに済んだ。
私はみんな命を預かっているのに。自身の無力さに怒りがこみ上げる。
拳を握り締めて押さえ込んでも、まだ足らない。
青年がたまたま居合わせていなければ、いまごろ何人が犠牲になっていたかわからない。
「皆の命を預かってるのに。自分のことしか考えてなくて…」
学生の間さんざん学んできたはずなのに、修剣道院を飛び級で卒業して、トントン拍子にものごとが進むようになってから、自分はおかしくなってしまった。
誰一人しなせずに帰還した安堵。そのことよりも、無事任務を達成できたことのほうが私には大きな歓びに感じられてしまう。
「私は弱い、そんなのじゃダメだ。もっと。もっと強くならなきゃ――」
少女の独白を聞いて、青年は再三訝しんだ。
わからない。なぜ彼女はこれほど自分を追い詰めるのか。
14才といううら若き少女に、荷が重い任務と責任。それを差し引いても相当なプレッシャーのなかでの日々だ。
彼女はヴァンキーラ。分家筋とはいえ嫡子――後継者としての立場は変わらない。
普通にしていれば何不自由なく過ごすことのできるお嬢様だ。
それなのになぜ。これほど胸を掻き立てているのか。
疑問に答えるように回答は彼女の口から漏れた。
「だって――じゃないとあたし……本当にヴァンキーラの子だって認めてくれないもの」
「それはいったい――?」
青年の声を聞いてか聞かずか、自嘲の混じった声音が空を仰ぐ。もうどうとでもなれという、投げやりの眼差し胸の奥が躊躇いを残した。
次に出た言葉の意味を、アルヴァはひどく後悔した。
「私ね――、十歳までの記憶がないの……」
「――っ!?」
叔母である現当主は謎多き人物だ。10年まえ先代が特殊な亡くなり方をしたせいで、家内事情は公の場から完全に消えた。
そのせいか、他の五大貴族でさえヴァンキーラの人間といえば現当主であるエリザードを除いて誰一人その身内を知らないのだ。
それが2年前、とつぜん当主エリザードが自身の後継者である、少女を連れてきたのだ。
彼女の亡くなった妹の娘であるとされたその少女がアイラだ。
だが、いままで公に出なかったことが仇となったか、その出生を疑う者も少なくない。
孤児を連れてきただけとか、陰口をたたかれることがままあった。
突然12の時に政界に連れられた身としては反論のひとつもしてやりたいところだが。それができないのが現状。
自身はヴァンキーラの正当な後継者ではない。そう揶揄されるのは慣れっこだった。
だから彼女に求められたのは常に実績だった。他者の追随を許さない、圧倒的実績と実力。それさえあれば、他人は押し黙る。
彼女に失敗は赦されなかった。自分が本当に大貴族の血を引いてるのかもわからない今、成果だけがそれを証明する唯一の証なのだ。
だから成功だけを足がかりに必死に前だけを見てきた。
でも、それさえ長くは続かない。聖央騎士団に入団して、一部隊を取り仕切るようになってから、体が思うように動かなくなっていた。
疑心暗鬼の目から逃れるために努力を惜しまなかったのに、いまでは高すぎる期待に応えるために努力を続けている。
「勝たなきゃ、成功しなくちゃダメなの。だって、だってそうしなくちゃ……」
本当はそんなもの望んでいない。私が欲しいのは――
「じゃないとあたし、本当にひとりになっちゃう」
はっとした。遅まきながら自分のバカさ加減に辟易する。
オレは何をやっている。目の前にいるのは、まだたった十四の少女だぞ。両親もいなければ、あまつさえ家族との記憶もないのだ。
そんな孤独をわずか十歳から続けている。
加えて、唯一の肉親であるはずの叔母の関心のなさは本人から直接きかなくても目に余る。
有無をいわせない強さを求めるのは、彼女が誰よりも寂しがり屋でひと恋しいからだ。
それ故の気丈な振る舞い。たぶん、それ以外に自己肯定を知らないからだろう。
本当はもっと褒めてほしい。家族として接してもらいたいはずだ。
当たり前の小さな温かみを求める、切実な望み。
それさえも叶わない願いならば、そんな世界は間違っている。
目に見えないものと戦うアイラを、青年は眩しく思えた。貴族という限定された世界での、苦闘の日々を、それは余人には想像できないほど辛く恋しかっただろう。
オレは、あわれみでも慈悲でもなく、ただ救ってやりたいと。せめて隣で居続けたいと思った。
気づけば、体は勝手に動いていて。いまにも崩れそうなガラスの四肢に手を添える。
「お嬢さま」
年上の、響くような声音が最大限少女をつつむ。
「それは違います。ええ、断じて違う」
え、と揺れる燐銅の瞳はほんとうに綺麗で。触れれば溶けてしまいそうな手に笑いかける。
「たとえ誰もがあなたを見捨てようとも――、オレは、少なくともオレだけは。あなたの味方であり続けます」
たった半日の1日にも満たない時間で、青年はまだなにも彼女のことを知らない。
偽善でもエゴでも、なんでもいい。拒まれようが誹られようが知るもんか。
そのたった数時間。ともすればこの一瞬でオレは――
「オレはあなたことが大事になってしまいましたから」
だから。にっこりと頬に手を添えてその涙を拭ってやる。
「オレにはせめて、あなたのことを聞かせてください」
隠していた涙の琴線は、ゆるりゆるりと解かれる。
うわぁぁんと、限界まで堰き止めていたダムが決壊し、涙が溢れる。
「…ひっく、ごわかった。辛かった…。みんなが死んじゃうがもしれないって弱い自分が許せなかっだ。だから必死に頑張って死にものぐるいで勉強して。藻掻いて。でもまだ至らなくて…っ」
それが本来の彼女なのだろう、泣きじゃくる形姿は年相応の乙女だった。自らの服が濡れることを構わず、そっと奮える頭を撫でてやる。今まで我慢していた反動が一気に押し寄せて、絶え間なく目頭を襲ってくる。呼吸さえ忘れて息を切らしながら、咳き込み、袖を濡らす。
青年は彼女が泣き止むまでずっとその手を握り続けた。
遮音された空間は、ほかの誰にも乙女の哀哭を聴く者はいない。自分の泣き声だけが耳に届く。
そのなかでひとつだけ自身と異なる別の体温が、泣き疲れた身体をふわりと運んでいった。
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