日記にもなりそこねて、小説への旅

円都ゴウイチ

第1話

「今や誰にでも小説は書けるのですね」


 そう言った人は、この小説の中にいない。

 

 おそらくこれを読んでいる誰もが人か少なくともそれを発することの出来る存在を想像したであろうに、これを告白するのは少し気が引けるが、現時点では登場人物すら決まっていないこの小説にその存在を受け入れる準備はまだ整っていない。


 とはいえ、想像させてしまったことに対して少なからず責任を感じていることをアピールするために、その何かしらの存在をどうにかしようとは思う。

 

 その責任を感じてどうにかしようとしている人物についてだが、言うまでもなく、と言いながら抗しがたい欲求のような何かに強引に突き動かされて結局は言うのだが、それは私だ。そう、今このサブボーカライゼーションを脳内で繰り広げているこの私である。


 この小説は誰に向けられているわけでもなく、私が私にしている内省的、いや、誰に向けているのでもないのだから発する私すら見当たらず、もちろんそれを受け取る私も非常に残念ながら消去していただいて、もはや現象として私の中に存在している何かを図々しくも小説と呼ぼうとしている。繰り返すが、その責任を引き受けるのはすべてこの私である。


 何を言っているのか理解に苦しむ人もいるだろう。気が狂って残念なことに頭が悪くなってしまったのではないかと疑う人もいるだろう。よろしい、世界ではおおよそ皆狂ったところをスマートフォンと一緒に日々持ち歩いているし、いつもなら理解できるはずのことがたまたまある瞬間だけ理解できないという気まぐれに少しばかりは頭を抱えているのだから。


 たとえば少女漫画の恋愛話で決まったように恋に落ちた少女が自問する。


「この気持ちは何だろう…」


 これを受けて、全世界の善良なる市民が「…いや、わかっているくせに」と出来るだけ誰にも悟られないよう清楚系を装いながらツッコミを入れているが、いざ現実で自身にその場面が降りかかると、飲酒後の顔の赤らみを飲まずして手に入れ、心臓の鼓動によって体が震度1くらいで揺り動かされながら、何年も引きこもったニートが久しぶりに他人と顔を合わせたときのような愛すべき不器用さで、この気持ちは何だろうと自問しているのもすべては世界の気まぐれによる。


 だから気に病む必要はないし、ましてや、トキメキを枠線いっぱいのお花で無駄に表現する必要もない。もし、どうしても解らないし、逆立ちしてでも解りたいというのであれば、次の一文を何回か気が向いたときに音読してみるのもいい。


「私は私だ。」


 つまり、そういうことなのだ。

 

 これは人生に行き詰ったときにも復唱するのが良いとされていて、現在、座右の銘としての指名数をトップに持ち上げ、№1の地位を手に入れるべく名言戦の対局に精を出している。


 英語教育の影響もあってか世界的に説明の簡潔さが求められる中、かつては四字熟語の領域で覇権を握っていた『十人十色』や『桜梅桃李』も、今やフェルマーの最終定理にも匹敵する難解さを保持しており、時代の要請に応えるため、よりシンプルな四字熟語の出現が望まれていた。


 そこで満を持してこの先行きの見通せない現代社会に登場したのが期待の新星『私は私だ』である。近々、総選挙にも出馬するという情報も出回っており、推しメンとして見守っていきたいという母性が日本社会を生温かく包み込んでいる。


「今や誰にでも小説は書けるのですね」


 そう言った人は、この小説にはいない。


 たぶん、この小説の横でコーヒーでも飲みながら、待っている。

 

 私が小説をわかるまでは。

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