第17話 別れ

 こうやって波の音を聞きながら朝を迎えると、家で過ごしていた日々を思い出す。まだ家を出て一ヶ月も経っていないのに、リンはもう何ヶ月も過ぎた様な郷愁の念を感じていた。

 眠れなかった。じっとしていられなかった。。昨夜のデメテルの会話の内容を、全て盗み聞きをしていた。罪悪感はあったが、自身の聴力はそんな気持ちとは裏腹に壁の向こうの話し声を拾ってしまう。

 電話の向こうにいる男はバアトとデメテルは呼んだ。今一声の質感ははっきりしなかったが自分達を探している事はわかった。そして間違いなく、ウインドを攫ったのもあの男の差し金だろう。

 そして間違いなく、近い内にここに調べに来る。自分達がいるかどうかを。根拠も証拠もない。ただの勘だが、万が一を想定して今日にでもデメテルに詳しい話しを聞き出て行った方がいいだろう。自分達の迷惑を、デメテルや子供達にかける訳にはいかない。

 だが、リンにはもう一つ気掛かりな事がある。最初に世界の歴史を説明された時に名前を聞いた時は初めて聞いたから違和感はなかった。だが電話の向こうから聞こえる声を聞いた時、その声には聞き覚えがある様な気がした。この曖昧な感じは、はっきりと聞いていないからだろう。それでも感じる。脚からまるで蟻が這い上がって来るような背筋が震える様な感じを。

 (・・・何だろう。ウインドを助けないといけない気持ちと、今すぐにでも逃げ出したい恐怖感がある。バアト・・・バアト・・・・・・名前を思うだけで、首筋をなぞられる様な不快感が湧き上がる・・・)

 身体の奥底から湧き上がるのは、嫌悪、憎悪、怒り、恨み、そして・・・会いたいと恋焦がれる想い。苦い汁と甘い汁を同時に飲んでいる様な気持ち悪さに、リンは大きく顔を歪めた。

 ふと、リンの鼻がある匂いを感じた。海から流れ吹く潮風に交じって漂うこの匂いは、おぼろげながらも確かにわかった。知っている。脳裏にその姿がよぎる。この匂いは紛れもなく、ウインドの体臭だった。

 リンはよく絞られた矢の様に勢いよく駆け出し、ウインドの匂いが漂って来る方向、匂いが濃い場所を探りつつ進んだ。

 レリフの家から西に十キロ程進むと、その匂いの正体が判明した。送風機から流れ出る風、あれからウインドの濃い匂いが漂って来る。近くには一台のトラックが止まっており、その周囲を防護服を着た人が計五人取り囲んでいた。

 (どう言う事?どうしてあの機械からウインドの匂いが流れ出てるの?一体何をしているの?)

 物陰から気づかれない様に様子を窺っているリンだが、防護服を着た最も大柄の人が声を高らかに上げた。

 「隠れていないで出てこい。この周囲にいる事はわかっている」

 完璧に物音を殺していたのにどうして気づかれたのか。おそらくは機械、探知機か発信機でも仕掛けてあるのだろう。最早リンは自然と浮かび上がる知らない記憶の内容をありのまま受け入れ始めて来た。

 姿を現すリンに、身構え警戒する防護服の人達。ある者は数歩後ろに下がり、ある者は銃をこちらに構える。

 「パリシ様・・・」

 「余計な真似はするな。お前達はトラックに乗れ」

 「えっ!?で、でも、しかし・・・」

 「不測の事態に、冷静さを欠いた行動をする者は破滅するだけだ。こんな麻酔銃、効果が表れる前に死人が出る。

 トラックに乗って退避しろ。一定時間後に連絡をする。私は彼女と話す事がある」

 「・・・わかりました」

 防護服の人達は手早く機材を片付けるとトラックに乗り込みその場を去った。後にはリンと、パリシと呼ばれていた大柄の防護服の人が残った。

 「怪我の功名か、はたまた禍を転じて福と為すか、こんな形であっても、あなたと会う事が出来てよかった」

 それは尊敬と敬意の念がこもった話し方だった。だが何処か、一歩身を引いた怯えた話し方に聞こえた。

 「・・・あのウインドの匂いは、何?あの匂いで私達をおびき寄せて捕まえようとしていたの?

 どんな方法で捕まえるかはわからないけど、随分調べたのね。嗅覚が鋭い事も、きっと耳が良い事や驚異的な身体能力についてもわかっているんでしょう?ウインドを攫って、まだ家族に危害を加える気なの?」

 許せなかった。心の中で鬼が叫ぶ。「殺せ!」・「思い知らせろ!」・「受けた悲しみと痛みを何倍にでもしてやり返せ!」と。身体がわなわなと震える。強く握りしめた拳から血が流れ落ちる。

 同時に、理性が待ったをかける。殺すのは容易い、しかし本当にそれでいいのかと?更にこのパリシと言う名前、リンは初めて聞いたはずなのに聞いた事がある様に感じられた。それが心の奥で叫ぶ鬼を抑えていた。

 パリシは何も言わなかった。ただ黙って銃を捨てると、その場でいきなり土下座をした。これにはリンは面を喰らった。

 「すまない・・・!!許してくれと言わない。だが、せめて私の話しを聞いてほしい。私を殺すのは、その後にしてもらってほしい」

 謝るだけなら誰でも出来る。謝れば事が済むと考え、心の中で愚弄しているのかもしれない。しかし、パリシの言葉には真摯な謝罪の気持ちを伝える重みがあった。リンの怒りは静まり、血が出る程握りしめていた拳をゆっくりと弛緩させる。

 「・・・パリシ。私はその名前を初めて聞いたはずなのに、初めて聞いた気がしない。あなたは、私を知っているの?」

 「ああ・・・よく知っている。君の事も、君の姉弟についても」

 「昨日の夜、デメテルにバアトから連絡があった。バアトは私達は「彼女の遺産」と言い、「人類の栄えある未来と新人類誕生に必要」言っていた。

 私達が必要な理由はどうして?それもあの子供達を生み出した様に、放射能に汚染された大地に再び降り立つ為なの?」

 「ああ・・・そうだ」

 「どうして私達が必要なの?あなたは私達の何を知っているの?」

 パリシはゆっくりと立ち上がった。防護服を着ている事もあるが、ファミールと同じぐらいの体格はかなりの威圧感がある。最も、当人は威圧している気など毛頭なさそうだが。

 「彼女とは、君達の母親だ。君達は母親から産まれた・・・いや、作られたと言うべきか?」

 「ちょっと待って、私達にお母さんがいるの!?私達はガラスのカプセル、不透明な水の中から産まれたのよ!?」

 「・・・彼女は、優秀な科学者だった。人類の救世主たるバアト様に匹敵、あるいはそれ以上の才覚を秘めていた。

 だが、あの出来事がきっかけとなり、彼女は地上唯一の文明都市チコモストクから、二つある飛行機の内一つを奪取し、逃亡した。飛行機内では放射能から身を守れても、燃料が切れれば空気浄化装置が切れいずれは死ぬ。だが、それを覚悟で逃亡したんだろう。

 そして、あの島に不時着した。彼女が一体どの様にして君達を作り出したのか、私の様な愚者にはわかりかねる。だが、彼女はやり遂げたんだ。そして生み出した、君達と言う完成された新たな人類を」

 「私達が・・・新たな人類?」

 新たな人類、自分達がそれ程までに尊い存在だったと言うのか?確かに、普通の人が外で活動するには防護服が必要な様だし、放射能に適応したデメテル達は異形の姿をしている。

 だが、それは本当に尊い事なのだろうか?デメテルが言う様に、人間以外の動物はこの世界に適応している。

 「だがそれは、バアト様が目指す新たな人類とは異なっていた。だからこの五年間、バアト様は方々の地を探し続けた。そして、見つけてしまったんだ、君達を」

 「それでウインドを・・・今度は私達を・・・」

 「すまないとは思う・・・だが、逆らえないんだ。どうしょうもない、致し方なかった。あの国に暮らす以上、バアト様には、逆らえない・・・」

 歯切れが悪く、申し訳なさそうにしながらも、何処か言い訳がましい。

 「私がここに来たのも、君達を捕える為。しかし、君は如何なる偶然か罠が張り終える前に私の前に姿を現した。私は、これをただの偶然とは思いたくない。頼む、私と」

 「待って」

 意を決して何かを言おうとしたパリシをリンは遮った。何か鼻に臭う。異臭だ。それも、動物の体臭でも腐った草木の臭いでもない。これは、何かが焼ける匂いだ。

 鼻をひくつかせ、臭いのする方を確かめそちらを向くと、黒い煙が天高く上がっている。その方角は、リンがここに来た方角。即ちレリフの家がある方角!

 「家が燃えている・・・」

 「何!?・・・い、いや待ってくれ!私ではない!私は子供達の事を想いデメテルの事は殺さない事に決めたんだ!だから君達だけを誘き出す罠を実行したんだ!

 そもそも、レリフの家を燃やして何になる?何の意味がある!?何の罪もない者を殺す事も、君達を死なせてしまう可能性がある事を何故私がすると言うのだ!?」

 リンはまだ何も言ってはいない。それでもパリシは、必死に自分の弁解を始めた。それは、助かる為か、許しを得る為か、いずれにせよリンはパリシに対し怒りとも憐れみとも言い表せない感情を抱いた。

 「・・・今すぐ私の前から消えなさい。さもないと、私はきっとあなたを殺してしまう」

 パリシは狼狽え、落ち着きなく周囲に視線を巡らせた。何の意味もない行動は、冷静さを取り戻す為の儀式の様なものだ。

 「わかった・・・。だが、必ず君とはまた会う事になるだろう。その時に、また話そう、凛・・・!」

 最後に自分の名前を呼び、パリシは走り去った。その名前の呼び方に微妙な違和感を覚えつつも、リンはレリフの家に戻る為に走り出した。


                   *


 最初に異変に気付いたのはマーレだった。彼女はリンが家に戻らず外にいる事をずっと心配していたのだ。

 『少し考えたい事があるの。だから・・・皆は休んでて』

 考える事、それは間違いなくリンの記憶の事だろう。

 ファミールは素直に受け入れ、フルールも深く関与せずリンの答えが出るのを待つ事にした。だが、マーレは心配だった。それは、リンの事もあるが、もう一つは自身が持つあの白骨死体の顔写真とリンが瓜二つだった事だ。

 (・・・もしかしたら、と言うより確実的にリンと彼女は関係あるのかもしれない。もしリンに、この顔写真を見せたら、どうなる?ただ驚くだけか?それとも何かを思い出すか?

 ・・・もしかしたら、彼女は私達全員の大切な存在なのかもしれない。だとしたら、私だけが独占するのは・・・間違っている。甘えたかった、独り占めしたかった。でも今の私には、デメテルがいる。それに、大切な妹と弟もいる。

 教えよう、皆に。見せよう、皆に。私は・・・・・・甘えてもいいんだ)

 ベッドで横になりながら、そんな事を想い耽っていると、廊下から足音が聞こえた。デメテルだろうか?随分と朝早いが、もう起きたのだろうか?そのまま部屋に入り、静かになった。

 数分経ったが、何もなかった。だが、異様な違和感を感じる。はっきりしないが何処か気持ち悪い。マーレはベッドから降り、子供達を起こさない様に静かに部屋を出ようとした。その時、デメテルの部屋の扉が開く音がし、誰かが階段から降りていく。部屋を出ると、玄関の扉を開けて出ようとしていたのは、防護服を着た人間だった。

 「!貴様ッ・・・!?何をしていた!?」

 マーレの声に振り返りもせず防護服を着た人は家から早々に出て行った。追いかけるよりも、マーレはデメテルの安否が気掛かりだった。部屋に入りマーレが見たものは、暖かく可愛らしい寝巻を血で恐ろしく赤く染めたデメテルだった。

 「!!!・・・先生ッ!!!」

 静かな朝を打ち破るマーレの悲鳴がレリフの家に響いた。マーレはデメテルに抱き付いた。その身体が血で汚れる事も構わず、デメテルの胸に耳を当てる。心臓の鼓動音は聞こえない。呼吸もない。だが、マーレはその事実を受け入れられなかった。

 「嘘だ・・・こんな事・・・・・・先生、起きてくださいよ?服を洗わないと、そんな汚れた格好では子供達が心配しますよ?先生、疲れてるんですか?何か喋ってくださいよ。先生・・・今日の予定は一体どうするんですか・・・?」

 涙を流し、乾いた笑い声を発しながらマーレは問いかける。非情にも、デメテルからの返答はない。

 「マーレ!一体どうしたの!?」

 「何があった!?」

 悲鳴を聞きつけたフルールとファミーユが部屋に入って来る。そして血で染まったデメテルとマーレの姿を見て言葉を失った。

 「フルール・・・ファミーユ・・・先生が目を覚まさないんだ・・・。起こすのを手伝ってくれないか・・・?」

 「マーレ・・・」

 フルールは泣くしか出来なかった。受け入れがたい。しかし誰がどう見てもデメテルは死んでいる。

 「先生・・・寝不足で疲れているんですか・・・?起きてくださいよ・・・笑って抱き締めてくださいよ・・・!」

 支えを失った橋は崩れる寸前、頼りない縄は程なく千切れる。だがその縄は、決して千切れる事はなかった。

 ファミーユは崩壊寸前のマーレに近寄ると突然平手打ちをした。それは強く「パンッ」と言う音が響く程に力のこもった一発だった。

 「何をうだうだと泣いてんだ?お前の悲しみも辛さも、充分重い!だがな、子供達はどうなるんだ?俺達よりもずっとデメテルと過ごして来た子供達の方がお前よりも遥かに悲しく辛い!そんな時、お前までそんなんでどうする?デメテルの事を想うのなら、子供達の支えになれ!それがデメテルを慕う本当の気持ちだろうが!

 それと、そんな風に現実から目を背けて泣いている暇があったら、一刻も早くデメテルを担いで家から逃げ出すべきだ!現実に戻れマーレ!猶予はもう余りないぞ!」

 その叱咤は本気でマーレの事を想った激だった。その叱咤に正気に戻ったマーレは気づいた。家の中に煙が充満している。これは・・・燃えているのだ!この家が!

 「子供達はどうした!?」

 正気に戻ったマーレは間髪入れずにそう聞いた。

 「もう俺とフルールが外に連れ出した。後はお前とデメテルだけだ」

 「マーレ、急ぎましょう!」

 マーレはデメテルを背負いあげると、机の上に置いてある封筒に目が行った。何の変哲もないが、何か強い存在感と言うか石の様なものを感じ、マーレは封筒を握りしめ部屋を出た。

 一体何時から火事になったのだろうか?既に一階部分は火に包まれ、二階に流れ込む熱気で肌が焼けそうだ。自分がデメテルの部屋に入ってから僅か数分の間に、これ程の炎がどうやって燃え盛ったのだろうか?

 これもまたあの時の防護服の人の仕業だと言うのだろうか?だとしたら、一体何故こんな事をする?自分達を狙うのならわかるが、こんな方法では自分達諸共焼死させかねない。そもそも、デメテルを先んじて殺す理由が全くわからない。

 外に出ると燃え盛るレリフの家がまざまざと見せつけられ、それを茫然と眺める子供達を見て、三人は強い喪失感に襲われた。

 自分達が今まで過ごしてきた思い出の家が失われた。だが、それだけだったらまだよかった。家は建て直せる。だが、失われたものはもう戻れない。

 家から出てきた三人に子供達は集まり、無事である事を喜んでくれた。その微かな喜びは、マーレがデメテルの遺体を横にした時に深い絶望と悲しみに移り変わった。

 子供達は泣いた。その泣き声が空に響く程に。ケイルは泣いた。何度となくデメテルの名を呼びながら泣いた。カッサンドラは泣いた。静かに唇を強く噛んで泣いた。フルールは泣いた。声を出さず静かに泣いていた。マーレは泣いた。初めて得た母を失った絶望は倒懸の如く苦痛を与え喉が裂け血を吹いていた。ファミーユは泣かなかった。ただ静かに皆が泣く姿を見守っていた。

 「何よこれ・・・一体何があったの!?」

 森の中から現れたリンが開口一番そうファミーユに聞いた。

 「・・・見ればわかるだろう。今は・・・ただ、何もするな・・・」

 余りにも小さな声でファミーユはそう言った。彼もまた泣いている。顔には出さないが、心の中で泣いていた。

 全てを焼き尽くす大火は灰塵を作り、それが新たな生命の苗床となる。喰らい喰らわれ、生命の糧となるのなら、自然の摂理として受け入れられたかもしれない。しかし、故意に、意図的に、無意味に人を殺し家を焼いた。これが、こんな理不尽を許せるだろうか?

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