第6話 不純な職業選択理由
気がつくと私は車内だった。血の臭いがこびりついた密室に、私は自ら閉じこもったのだ。ハエよりも小さな心臓を持つ私のこの、自殺行為ともいえる行動に自ら疑問符を浮かべた。
「さて、どこに行きたい?」
銘柄がよく分からない外国製のタバコに火をつけながら、運転手は聞いた。
今時タクシー運転手が運転中にタバコを吸っていいのかと思ったが、個人タクシーなら構わないのかもしれない。
「え、えっと――」
私はたどたどしい物言いで事務所の住所を伝えた。
「なんだよ結構近いじゃねえか。若いんだから歩けよな」
運転手はタバコを咥えたまま器用に喋った。
乱暴な所作で、乱暴な口調で言われたのに、嫌な気はしなかった。
それはきっと、いわゆる一つの愛嬌を、その乱暴さの中に感じたからだろう。口の汚い頑固親父みたいな、そんな感じ。
しかし、そう思ってから、この人が人殺しであることを思い出し、運転手に好感のようなものを抱いている自分を愚かだと思った。
私は多分、人の生き死にというものに鈍感で、それを判断材料にすることを忘れてしまっている。
なのにさっきは恐怖した。恐れ、慄いた。
自分の感情の浮き沈みの激しさに、その曖昧性に私は溜息をついた。
「おやおや溜息とはお嬢さん、若いのにそんなことじゃいけないぜ」
アクセルペダルを勢いよく踏みながら、運転手は言った。
「あの、あなたはなぜタクシーの運転手をなさっているのですか?」
私は頭に浮かんだ疑問を、不用意にもそのまま口にしてしまった。私は時々、自分でも驚くほど肝の座った発言をすることがある。年の離れた大人に対しても、はっきりと物申すことがある。
それはきっと私の人生経験が凄惨なものだからだろう。あのできごとに比べればと、心の中で踏ん切りをつけている。
「人を殺しやすいから」
運転手は易々とそう答えた。
普通なら冗談だと捉えただろう。けれど、この臭いの中で言われたその言葉を、嘘だなんて思えなかった。
「ん?引くどころか笑いもしない、どころか、驚きもしないとはこりゃ驚きだな」
ルームミラーに写った運転手の顔は、不気味に笑っていた。
なぜだろう。その顔を見て私は――先生のことを思い出した。
「ほら、着いたぜ」
タクシーは事務所のあるビルの前で止まっていた。
「お前さんを殺すのは今度にしよう。なんだかすぐ殺すのは勿体ないと思っちまった」
私を――殺す?
その言葉に、私は惹かれた。今まで、こんなことを言ってくれた人がいただろうか。
「お名前を聞いてもよろしいですか?」
タクシーから降りた時、私は勇気を出して聞いてみた。名前を聞くのには勇気がいるとは、これいかに。
「あたしはタチバナという」
私はタチバナという苗字が、立花なのか橘なのか分からなかった。けれど、そんなことはどうでもよくて、後部座席では見えなかった彼女の容姿に見惚れていた。
彼女は澄んだ三白眼で私を見つめ、長い綺麗な黒髪をかき上げていた。
「ところでお嬢さん、今から時間あるかい?」
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