第5話 タチバナさんとの出会い

 さて、なんだかんだで学校をさぼることになった私は、いつもはいかない大型スーパーに向かっていた。結構遠いのであまり行きたくはないのだけれど、いつも利用している近場のスーパーは先日の一件で近寄れなくなったからしょうがない……。


 しかしながら収穫もあった。

「す、すごい。いつも使ってる洗剤が……大容量で三割引きだ!」

 大型スーパーならではのお得感が、私の主婦脳を大いに刺激した。カゴの中はすぐに一杯になり、今日の夕飯とは全く関係ないもので溢れていた。結果的に財布は痩せ細ってしまったので、本当にお得だったのか少し疑ったが、私は大満足だった。


 私は両手にぱんぱんに膨れ上がったエコバックを持って、事務所までの長い道のりを歩いた。普段なら体力の無い私は、こんな苦行を思い浮かべるだけで失神してしまうが、今日の私は一味違くそんなことはなかった。


 なんたって一週間分の買い物ができたのだから。しかもいつもよりお得に!

 もしも両手に荷物がなかったなら、すきっぷしているところである。


 ここまで陽気になってくると、財布の紐も更に緩み、タクシーを使いたい気分になってくる。普段はそんな勿体ないことはしないのだけれど、ここから事務所までワンメーターくらいなのでいいかなと思ってしまう。


 なので私は景気よく手を上げてタクシーを止めた。白い個人タクシーは私のそばで止まり、後部座席のドアが開いた。


 その瞬間、私の体は動かなくなってしまった。金縛りにあったかのように、自分の意志ではどうしても体を動かせなかった。


 一体なぜ、こうなってしまったのか。私の頭は混乱し、冷静な思考などは、まるでどこかに置いてきてしまったのかのように、一切機能しなかった。

 先生がこの場にいたなら「そんなものは元々君の脳髄にありはしないだろうさ」などと、憎まれ口を叩いてくれたのだろう。こんな時、先生のそんな言葉が欲しくなる。


 私が怖気づいて進めないとき、あの人の言葉は私の心に響き、奮起させてくれるのだから。


 ああ、そうか、私は今怖がっているんだ。だから怖気づいている。ではなにに?なにを怖がっているというのか。


「乗らないのかい、お嬢さん」


 大人びた女性の声が聞こえた。私はその呼びかけで一瞬我に返り、とある臭いが鼻腔を刺激していることに気がついた。

 

 それは血の臭いだった。


 前述の通り、私は血の臭いには詳しく、そこから得られる情報の信憑性にはかなりの自信がある。

 そして今、私の鼻に届いた臭いは、この後部座席にはかつて死体が置かれていたことを伝えていた。


 それも一人や二人ではない。数えきれないほどの死体。私でも多すぎて把握できないほどの、おびただしい量の血が、たくさんの人の血が、この車の中で流れているのだ。


 けれど、私はそのことをしっかりと認識しながら、恐怖の根源はそこではないと思っていた。そんなものはきっかけに過ぎず、大いなる脅威は運転手にあった。


 運転席に座る女性からは、ただならぬ気配と臭気が漂っていた。


 この人は――人殺しだ。


 それも虐殺と言っていいほどの数を殺してきた人間だ。

 私はそんな人が目の前に現れ、人の好さそうなタクシー運転手に扮していることが、たまらなく恐ろしかったのだ。


 それが、生涯忘れることはないであろう、タチバナさんとの出会いだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る