『ウルフシェイム』①
高城誠はどうにも生活力から見放されていて、包丁一つまともに扱えない。
料理をしようとすれば手際が悪すぎて時間がかかり、食べられないほどではないが、食べるとストレスに襲われるような味の食事ができあがり、洗濯すると脱色やシワが酷くなったり、掃除すると何故か逆に汚れたりと、その家事下手エピソードの話題には事欠かない。
そんな彼を知る人間からは『一人で生活できない人格汚染でも抱えてるのか』などと言われるが、当人からすれば溜まったものではない。
深刻に言われるほど重大な問題でもなければ、茶化されるほど軽い問題でもないのだ。
「おいっ、起きろタコ助。お前、いつになったら一人で起きられるようになるんだっ」
だから目覚めてすぐ、頼りになる相棒であり、自分の生活を支えてくれる幼馴染に罵倒されながら目覚めることになっても、仕方のない事なのだ。
すでに薫は準備が完了しているらしく、水色のブラウスと、ひよこ色のワンピースという私服姿だった。
肩を揺らしていた薫が退くと、上半身を起こして、伸びをする誠。そこは、風早薫の家にある、誠の部屋である。
六畳間にベット、そこらに読み散らかした雑誌や漫画が転がっており、典型的な、高校生のちょっと汚い部屋、という感じの部屋だった。
「んーっ……。んだよ、薫。今日は学校もねえし、依頼だって……」
「依頼ならある。っていうか、誠が引っ張ってきたやつなのに、なんで忘れてんだコノヤロー」
寝ぼけてトロンと溶けたようなあやふやな目で、目の前を見つめて、記憶の紐を解いていく誠。たっぷり五秒ほど止まったかと思えば、ゆっくり頷いて、「あぁ……はずみの件か……」
「そう、二時に銀行強盗が来るってやつ。もう一二時だし、お昼準備したから、食べて、とっとと準備しなよ。バイクすっ飛ばせば、一〇分もかからないだろうし」
探偵は信用業、遅刻してはならない。
誠のプロ意識が、眠気を押しのけ、彼の身体を立ち上がらせることに成功した。あくびをしながら、部屋の隅に置かれたタンスから、服を取り出す。
黒いジャケットと、白いTシャツにジーパンを取り出して、着ていたタンクトップとスウェットを脱ぎ捨て、着替えはじめる。
「着替えたらリビングに来てよ」
そう言って、誠が脱ぎ捨てた寝巻きを持って、部屋を出ていく薫。
何度かブツリと途切れそうになる意識を支えながら着替えを終え、ベッドボードに置かれていた
新学期が始まってすぐ、五月も下旬くらいの季節。なんとも生温い風が頬を撫でた。
ここ、医療都市は、イデア患者達が脱出できないよう、詳しい場所が秘匿された人工浮島に存在している。だから、そこまで高い建物はなく、遠くには海が見えた。おそらく日本国内だろう、と誠は思っているが、それも怪しい物ではあった。
煙草を咥えると、誠はザ・キラーの症状で人差し指の先から、少しガスを出して、それに電気で着火。まるで、人差し指がライターになったように火を吹き、煙草に灯った。慣れた手付きである。
寝ぼけた頭にたっぷりとニコチンを吸収して、紫煙を吐く。
考えているのは、はずみの事だった。
未来がわかるイデア。小学校五年生からこの街で何人ものイデア患者に出会ってきたが、未来がわかり、ステージも四というイデア患者に会うのは初めてだった。そんな彼女から受けた、自分が殺される未来を回避させてほしい、という依頼。
思わず、誠はほくそ笑んだ。
彼が探偵をやっているのは、生活費を稼ぐだけが目的ではない。元来、好奇心旺盛な性格を満たす為でもあった。
イデア患者――入ってきたばかりのイデア患者には、その心の安定を目的として、読書が更生プログラムに組み込まれていて、誠も入院した当初は、興味の無い読書をさせられる羽目になった。
その読んでいた本の内、一つ、彼がずっと覚えているものがある。
レイモンド・チャンドラー著『さらば愛しき女よ』で、私立探偵である主人公のフィリップ・マーロウが言ったセリフ。
『探偵という仕事から好奇心を取ったら、何も残らない』
読んだばかりの頃は、探偵という仕事を始める前だったから、その言葉は彼の頭をするりと通り抜けて行ったが、始めてからしばらくして思い出し、納得できた。
こんな街で探偵をやっていれば、何度も命を削る羽目になる。それを考えると、高くはない報酬で危険に首を突っ込む。なのに何故、自分が探偵をやめられないのか。
それは、異常が蔓延るこの街で、何が起こるのか見たいからだ。
久しぶりにやりがいのある仕事。誠は、吸い終わった煙草を握りつぶし、ザ・キラーの症状で、完全に燃やして消し去ると、部屋の中へ戻った。
仕事の時間だ。
■
二人の足は、主に誠が運転するバイクである。ヤマハのセロー250。イデア患者を隔離する為の都市であろうと、それなりに広い割に、交通機関がバスかタクシーしかない医療都市ではなかなか重宝するので、取れる年齢になったら、すぐに免許を取ったのだ。そのバイクの後ろに薫乗せ、銀行へ向かった。
アスマ銀行には、二人が探偵で稼いだ金を貯蓄する為の口座を作りに足を運んだことがあったので、薫の想定通り、一〇分ほどで到着することができた。
「あっ、高城さーんっ、風早さーんっ」
銀行の前には、はずみがいて、二人を見つけると、子犬のように駆け寄ってきた。
桃色のカットソーと、深緑のクロップドパンツに、赤いスニーカーで、はずみのイメージにしては、少しばかり大人っぽいファッションだった。見た目が子供っぽいから、少しばかりファッションは大人ぶりたいのかもしれないと、誠は推測した。
「……あれ? なんではずみ、来てんだよ」
「へ?」
はずみは来ないと思っていた誠は、訝しげにはずみを見つめた。
「はずみちゃん、ここ、これから銀行強盗が起こるんだよ」
薫が優しげにそう言って、はずみの肩を叩いた。
一瞬、自分が何を言われているか、さっぱりわかっていなかったはずみ。段々と顔が青ざめてきて、やっとわかったかと、誠と薫は、同時にため息を吐いた。
遠くない未来に殺されると予言されている女が、鉄火場に来る愚かさを。
「な、なんで私、来ちゃったんだろ……!」
バカか、誠はそう言いたかったが、今言うとあまりに本気すぎて、これから信頼関係を作っていかなくてはいけない依頼人に向けていい言葉とは思えなかったので、言わなかった。このおっちょこちょいの所為で死ぬというのなら、少し納得した。
「はずみちゃん、バカなの」
「言うなバカ! 俺は遠慮したのにッ!」
いつもの様に、起伏の少ない表情で、淡々と言ってのける薫に、誠は思わず怒鳴ってしまった。
「わ、私、帰りますっ!」
慌てて踵を返し、走ろうとしていたはずみの肩を、誠が掴んで止める。
「おいおい待て待てッ。もういい、俺らと一緒にいろ。お前みたいなうっかりモン、ほっとく方が怖ぇーしよぉ」
なにかあっても、自分達が近くにいる方が対処しやすいと思った誠は、そう言ってはずみを引きずるように、銀行に足を踏み入れた。
少しばかり冷房が効きすぎている室内は、疎らにしか人がいなかった。それもそうだ、あと少しで二時。銀行の営業は、いくら異常が蔓延る街と言えど法律で決まっている通り、三時まで。そろそろ落ち着いてくるだろう時間帯である。
だからこそ、この時間に来るんだろう。するわけではないが、なんだか銀行強盗の参考になったようで、誠は感心した。
三人は、銀行内の一番端にある待機椅子に腰を下ろし、時計を見た。あと五分ほどで強盗が入ってくる。
「しっかし、疑ってるわけじゃねえけどよぉー。マジに起こんのかねえ」
あくびをしながら、行内を見回す誠。当然、まだ日常そのもの、という風景が広がっている。銀行にはあまり来たことがないのだろう青年が、親切そうな行員から自分が何をどうすべきか教わっていたり、用事を済ませたからか、無表情でスマホをいじっている女性がいたり。
明日も明後日も、ずっとこの景色が広がっているのでは、と思うほどで、数秒眺めるだけでうんざりしそうだった。
「はずみちゃん、ミス・ムーンの予言って、ズレたりしないの? 二時って言ったら、二時ぴったり?」
三人の真ん中に座っていた薫が、はずみの手元を見て、そう言った。昨夜のミス・ムーンの形を思い出しているのだ。
「あっ、はい。その、時間まで正確に言われた事は初めてですけど、でも、わかるんです。ミス・ムーンが二時って言ったら、それはその時間ぴったりだって」
イデア患者は発症すると、いきなり手元に
が、イデア患者達はそれを本能的に、まるで、最初から知っていたかのように、使いこなす事ができる。
それこそ、ア・プリオリという現象であり、はずみもア・プリオリによって、ミス・ムーンが時間に正確なことをわかっているのだ。
「せっかく銀行に来たんだし、金下ろしとくかぁ? 夕飯は豪勢に寿司、なんてのもいいよなぁー。昨日依頼こなしたばかりだしよぉ」
と、楽しげに言う誠。その隣で「そんなんだから貯金できないんだよ……」と呟く薫の言葉が聞こえていないかのようだ。
「昨日の依頼って、どんなのだったんですか?」
薫越しに、少し背中を丸めて、誠に話しかけるはずみ。
「ただの浮気調査だよ。イデアも使わねえくらい普通の仕事」
「……普段、イデア使う依頼とかあるんですか?」
「半分くれえはそんなんなぁ。詳しくは守秘義務だから言わねえけど、迷惑行為してるイデア患者捕まえろとかあるし」
今回もその延長線上さ、と言って、楽しげに笑う誠。なんだかいつも楽しそうにしてるなぁ、はずみはそれが少しだけ羨ましくなった。
「二人共、もう来るよ」
腕時計を見ていた薫が、そう言って、入り口を見たので、誠とはずみの二人も、その視線に合わせて入り口を見た。
そして、運命の自動ドアが開く。
そこに立っていたのは、二メートルはあろうかという巨大な体躯と、天を突き刺すように伸びた耳。全身を覆う、金色に近い茶色い体毛。鋭い牙からは、粘ついた唾液が滴っている。
三人は、目を疑った。
そこに立っていたのは、人間ではなく、人狼だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます