無限の残響


 少しずつ空が色を変え始めたころ、修道女からの熱烈なオファーから解放されたオレたちは教会を背に歩いていた。

 きもち痩せた気すらするオレと違い、カラキリはパンなどモムモムと頬張っている。


「疲れるはずもないのに疲れた。精神的な疲労か、これは」


 ため息が漏れるのを堪える気力もない。

 教会と極力接点を持たないはずが、少なくともあの修道女には強い印象で記憶された。


「はぁぁ…………」


 カラキリを止めるため教会へ駆けつけると、想像とは違った空気と視線が待っていた。事情を聞けば、どうやら今回はこちらのはやとちりだったらしい。

 ならば用はないとカラキリの肩を掴み、教会を後にしようとしたところに、修道女の興奮した声がかけられたのだ。


 なんでも近く、毎年開催される魔物の討伐祭が開催されるらしい。危険ではあれ大金を稼ぐチャンスであり、さらには流石は信仰に篤い教国民。虚神の残した“間違い”を根こそぎ刈り取らんと、参加者は大層多いようだ。


 だが、ここで困るのが規模の小さな町である。参加している町民を守り切れるだけの手練れがいない。この町の最大戦力は現在不在のアンゲマンなる司祭らしく、今年は不参加もあり得ると覚悟をしていたのだとか。


 そんな事情を聞いてもないのに聞かされたのを皮切りに、熱烈な勧誘を長々と受け、こうしてゲンナリと気力を奪われたわけである。

 よくもああ途切れることなくつらつらと喋れるな。息継ぎの間なんてなかったぞ。もう半日も続けられていたら耳から灰になっていたに違いない。


「まああれだな。カラキリに渡した魔石がなんで安く買い叩かれたのか分かったな」

「む? わしは買い叩かれたのか?」

「自覚なかったのか……。あのな、本来ならあんなボロ宿じゃなくて、個室に泊まれたはずなんだよ。ってよりアレ、元家畜小屋だぞ絶対」

「ふむぅ……わしはあれで快適だったがなぁ」


 呑気にパンを齧るカラキリ。なぜか修道女から施されたものだ。よほどひもじそうに見えたんだろうか。もらったカラキリは何の疑問もなく、屈託のない笑顔でそれを受け取り、こうして上機嫌に咀嚼しているのだった。


「それよりアトラ殿。理由が分かったと言うが、わしにはちいとも分からない。ほら、わしは買い叩かれたことにも気づかなかったわけであるし」

「魔物を狩れば魔石が手に入るだろ? で、近々討伐祭なんて祭りがあるわけだし。なら魔石が近く大量に流通するなんて簡単に予想できる」


 なるほどと頷くカラキリ。まるきり他人事だ。


「カラキリは参加するんだよな?」

「うむ! 旅の資金は多いほど良い! アトラ殿も参加するものかと思っていたが」

「冗談やめてくれ。教会とこれ以上関わりたくない」

「しかし謝礼が出ると」

「それ、実質傭兵じゃんか。教会に傭われるのはちょっと抵抗がある。それに誰かを護りながら戦うなんて、ちょっと荷が重いしな。

 ていうか、謝礼とかいらないんだよ。とっとと帰って、とっととルカから回収するもの回収して、そんで払うものを払ってお終いだ」


 そうであって欲しいという願いも込めて、あえて強く断言した。

 はやく帰って、またルカとごろごろとする長閑な日常に戻りたい。

 すこし離れているだけでなんとなく寂しくなるのは、オレが眷属であるせいもあるんだろうか。


「そういえば、カラキリ。やっぱりお前の言葉って時々難解だよ。もっと普通の言い回しっていうかさ。そういうのにした方が良いぞ?」

「むむぅ、これでも崩しているのだ……。俗耳に入り易いよう如何に心掛けようと、癖はなかなか抜けぬわけで……むむむ……」

「もう難解な言い回しになってるし」


 こりゃ直らないな。

 早々に匙を投げた。


「ま、そうは言ってもルカとは普通に話せてたし。意外とどうにかなるのか?」

「ルカ殿はあれで女傑。恐らくはわしの表情から言わんとするところを察したのだろうな」

「ルカがぁ?」


 女傑なんていう似合わない単語に、思わず苦笑する。だが、カラキリの顔に冗談の色はなかった。


「ルカ殿はアトラ殿が考える以上に聡く冷徹な面がある。夫婦となった暁には、尻に敷かれる覚悟をせねばだぞ、アトラ殿」

「ハ、ないない。言っただろ? オレたちは家族なんだよ。あっちは姉なんだって」

「? わしの国では姉も弟も関係ないが、ここはそうではないのか?」

「ああ。実際に血の繋がりがあろうがなかろうが、一度家族になったなら、もう一度なることはできないよ。姉と弟って関係に決まったなら、それを妻と夫には変えられないんだ」

「なるほど。どうにもアトラ殿は教会を嫌っている節があるが…………そこに原因があったと」

「違うってのに」


 そんな具合に取り留めのない話をしながら安宿に戻り、例の店主から預かっていたものを渡す。これにカラキリは大いに喜び、討伐祭の謝礼を受け取った暁にはまた店に邪魔しようと息巻いていた。


「じゃあ、オレも帰るわ。カラキリはしばらくいるんだよな?」

「うむ、少なくとも討伐祭が終わるまでは羽根を休めようと思う」

「そうか。じゃあそう大きな町でもないし、また会ったらよろしくな」

「1人で帰れるのかアトラ殿? 道中危険はないだろうか? 少しでも不安があらば、わしを頼って欲しい! 凡ゆる刺客の爪牙そうがも叩っ斬って見せよう!」

「刺客を送られる覚えはないって。それに、万が一襲われても、まあなんとかなるだろ。この国に盗賊なんてそうそういないけどな」


 自信と使命感を表すためか、模造刀ということになっているらしい刀を抜こうとするのを止める。

 そんなオレの返答に、何が面白かったのかカラキリは小さく笑った。“やはりアトラ殿はそうなのだな”なんてよく分からないことを言って。


 そして、断ったのに町を出るまでは見送ると固辞したカラキリとしばらく歩き、感謝の言葉がいつまでも止まらないカラキリから逃げるように別れる。


「は、……あいつはまったく……」

 

 町が見えなくなる前に一度だけ振り返ると、律儀に手を振り続ける小さな人影があって、つい口角が上がってしまう。なんだかカラキリとは不思議な縁ができた気がする。実際タイミング如何では今生の別れのはずなのに、なぜかまた会うという確信があった。


「またなーーーー!」


 最後に大きく手を振って、オレは森を目指すのだった。



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「急げ急げ急げ……! ただでさえ留守番できなかったのにこれ以上の遅れはやばいぞ……!」


 ジリジリとした焦燥感に急き立てられて、意味のない独り言が漏れる。帰りは岩山が目印になっている分、一直線に進めばいいはずだった。

 が、実際は木々が何度も体にぶつかって、その度に少しずつ軌道が逸れる。

 その軌道を、樹冠の上まで跳躍することで目的地を確認し、修正する。

 そんなことを繰り返していたら、想定以上に時間を食ってしまっていた。


 そして遂にデンと聳える断崖絶壁にたどり着き、休む間もなく踏破する。そして滑り込むように洞窟を進み、扉の前で服の埃をはたき落とす。

 ルミィナは平気でオレを服ごと焼くくせに、オレが服を汚したり穴を開けたりすると氷すらぬるく思えるほどの視線を向けてくる。

 そんな理不尽にも耐性がついてきた自分が、なんとなく哀れだったり。慣れとは時に虚しい……。


「よし。入ってルミィナさんに会ったらまず謝罪。それからルカから金を徴収して外出許可もらって…………」


 これからの流れを確認しながら、見上げるほどの鉄扉を押し開ける。


「……え————?」


 知らない場所だった。

 石の床は予想通り。だがそれ以外の全てが記憶と一致しない。見渡しても、神殿にあるような白い石の柱が等間隔かつ規則的に、どこまでも続いている。見上げた天井は彼方まで高く、遠く、暗闇に閉ざされている。白い柱も先端が見えず、途中からその暗闇に飲まれていた。

 まるで黒い蓋をされたみたいだった。


「……………………」


 暗闇による閉塞感。しかし風の流れがあり、この空間の途方もない広さを想像させる。

 風はどこまでも続く石柱と摩擦し、低い唸り声を発していた。まるでこの暗闇の空間そのものが呼吸しているような、大きな生物の体内にいるような、そんな妄想が掻き立てられる。何かが間違えているのに、それがわからない不快感。

 ツゥと、汗が滴った。


 ようするに、ここはひどく不気味な空間だった。


「も、戻るか!」


 不吉な空気を振り払うために、あえて声を張って振り返る。オレは1歩しか歩いていない。振り向けば当然開かれたままの扉が……出口があるはずだ。


「……………………ぅ……そだろ……」


 ————扉は無くなっていた。


 360度、どこを見渡しても同じ光景。規則的な柱の並びは、方向感覚すらあやふやにする。


 完全な孤独。どうしようもなく孤立して、全てが閉ざされている。


「ッ……!」


 走った。床を踏み砕く勢いで、全力で走った。

 なのに、走っても走っても進んでいる実感が湧かない。景色に微塵の変化もない。

 誤魔化そうとしていた不安が、首をもたげる。


「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ」


 呼吸が荒くなる。胸が苦しい。

 疲れからでは当然ない。


 ただ怖い。


 この空間から出れないという未来が怖い。


 周りにだれもいなくて、これが永遠に続くなら悪夢そのものだ。


 情けないことに、ルカの顔なんて浮かんでくる。

 泣きたいのを堪えるだけでもひと苦労だった。


「っ、気配? 誰かいるのか……ッ⁉︎」


 がむしゃらに走る中、微かな気配を感じた。もうこの際だれでもいい。無機質な石の床と、白い柱以外であればなんでも大歓迎だ。


 だが、頭の中の理性は疑問符を浮かべている。こんな場所にいるものが、オレにとって歓迎できる類のものである可能性は、果たしてどれほどなのか、と。

 

 しかし、そんな理性は孤独と不安が吹き消した。


 別に魔物でもいいじゃないか。自分以外の生き物が、この閉じた世界に居てくれるだけで希望が持てるんだから。

 そいつらが生きていける環境がこの空間のどこかにあって、或いはどこからか迷い込んできた可能性があるんだから。それはつまり出口の存在を示しているはずで……いや、示していないのか?


「いや! 示してるんだ! 絶対に示してる! 出口がある‼︎」


 悲鳴みたいな高い声が反響する。気配はだんだんハッキリとしたものへと変わっていく。

 だから、逆にその気配の違和感もハッキリしてきた。


「……なんだこれ?」


 血の存在を感知できないのだ。しかし気配は動いている。それもかなりの速さで。


 その違和感に警戒心が働く前に、オレは気配の元へと接近していた。

 気配はいつの間にか増えている。


 ここに至って、オレはこの違和感と同じものを最近感じたことがあると思い出していた。


 これは、例の廃墟で感じたのと同じ感覚だ……。


「なんだ……こいつら……」


 浮遊するを視界に収めた瞬間、死が背筋を撫でるのを感じた。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -




 初め、それは浮遊するボロ布に見えた。あるものはふわふわと滞空し、あるものは柱の間を器用にすり抜けながら飛びまわっていた。


 だが、あまりに想定外の光景にマヒしていた頭がようやく働き出すと、また違った形が見えてくる。

 それはまるきり頭蓋骨だった。人の体ほどある髑髏が、深い紺色のボロ布を巻きつけて飛び回っているのだ。長い布は紺色の軌跡となって、さながら流れ星を思わせた。


「……………………」


 まずい。

 こいつは、何かまずい。


 そんな予感が、さっきから背中を這い回っている。あれはオレを死なせることができると。いかに耐性に優れようと、いかに回復力に優れようと。そんなものとは違う次元で、あれは危険なのだと直感する。


「ッ⁉︎」


 布が擦れる音がして、咄嗟に身を逸らす。と、とんでもない速さで、ヤツらの1つが大口を開けて通過した。躱しきれずに肩がぶつかり、錐揉み状に飛ばされる。


 回転する視界。背中に衝撃を感じて、頭に踵がぶつかった。どうやら柱に背中をぶつけて、ぐんにゃりと海老反りのような形になったらしい。普通ならへし折れるなり千切れるなりしていたはずだ。


 そのまま床に着地する。

 と、眼前には髑髏の大きな額が迫っていた。追撃の突進が来る。


 が、この程度なら特段大したことはない。


「すこしびびったけど、お前らもルミィナさんの試作品か?」


 体内の血を硬化させて、片手で髑髏を受け止める。背にした柱が衝撃を支えきれず破断したが、2本目の柱は持ち堪えた。

 オレという杭を打ち込まれ、貫通された柱は上と下とに分たれている。


「それでも落ちてこないってことは、床と天井にくっついてるってことだよな…………てことは、ちゃんと天井があるってことか?」


 そんな疑問を口にしながら、受け止めた髑髏を観察する。未だに未知の力でオレを押し込もうと頑張っている髑髏を。


「なんの紋様なんだこれ。気味が悪いな」


 髑髏はよくみると、全面にびっしりと何かの呪紋のような、あるいは一種の魔法陣のようなものが、毛細血管よろしく張り巡らされている。感触はウソのように固い。そのくせ妙な体温みたいな熱を感じて、気持ち悪いことこの上なかった。


「言葉が分かるだけの知能はない感じがするな……ん?」


 悪寒に従って、視線を上へ向ける。


「ぅおぁア⁈」


 大口を開けて降ってきた髑髏を、床へ身を投げ出すようにして躱す。後ろでなにやらエラい音がしたが、振り向くこともせずに全力で駆けた。


「壊していいのか悪いのかも分からないのに、戦うもなにもあるか! それに、あの口はヤバい! ただ噛まれるじゃすまない何かがある! 絶対ある!」

 

 この手の直感には嫌と言うほど世話になっている。ぶつかられようがのしかかられようが、あの程度であれば大した問題じゃない。問題なのはヤツの口に入った時に何が起きるのかだ。


 一瞬見えたヤツの口内を思い起こす。


「どう考えても別の空間だったよな……アイツ、何かの入り口なのか?」


 見えた光景は、深い霧の中に大きな1枚の鏡が鎮座しているという、不気味で物哀しいものだった。だが、あの光景を目にした瞬間に限って、死の気配は色濃くなり、背筋に悪寒が這い回るのだ。


「アレにだけは注意しないとな……チッ、これアイツらだろ、絶対」


 覚えのある気配が、追従してきている。それも、気配が1つじゃない。頭が痛くなる数だった。


「10や20じゃないよな……」


 追いついて来た髑髏を、爪で横薙ぎに払う。

 固い感触と、手応えの無さに歯噛みした。こいつら、ムダに固い上にやたら軽いせいで力がうまく伝わらない。爪で八つ裂きとはいきそうもなかった。


 まあ、それならもっと単純にいこう。


「じゃあ潰れろ!」


 突っ込んできた髑髏を、速度を落とすことなく柱へ叩きつける。けたたましい音を立てて、髑髏はわざとらしいくらいバラバラに砕けた。柱と髑髏が同色なせいで、どれがどっちの破片なのかまるで分からない。

 

「……は————?」


 白い柱に、妙な凹凸が…………。それは徐々に浮かび上がり、ハッキリとした輪郭を纏う。まるで、髑髏みたいな…………。


「こいつら、柱から産まれてんのか⁈」


 だとしたら状況は絶望的だ。柱はどこまでも続いている。柱が見えない場所はない。つまり逃げ場も終わりもないってことだ。


 気配に急かされるように、一瞬止まっていた足を動かす。動かしながら、懸命に考えた。


「いや、もし柱が全てコイツらでも、一度に出現する数には限りがあるはず…………」


 オレが逃げられているのは、ヤツらが後方から追いかけて来るからだ。周り全ての柱がヤツらに変わったら、とっくに捕まっている。

 それをしない以上、やはり何かの制約なり限界があるはずなのだ。


 根拠というにはあまりに希望的なそれに、しかし今は縋るほかない。


「ッ、鬱陶しいな!」


 突進を躱しざま、髑髏を後方へ思いっきりぶん投げてやる。バッカーンという豪快な音を立てて、唸りとも地鳴りともつかない音が長く長く反響する。

 景気良く爆散する様子に、ちょっとした心地よさすら覚えた。


 それが慢心だった。


「あ————」


 真横の柱に、妙な凹凸が発生。

 今オレは、ヤツらの数を減らしたんじゃなかっただろうか————?


 出現数に限りがあっても、今こうして減ったなら再出現可能だ。


 どこから? それはもう知っている。知っていたのに、理解していなかった。


「ぅ————」


 開いた口を前に、そんな呻きしか出せない。鏡には固まっている自分の無様な姿が————


「うッ、ハ、……………………ぁ?」


 衝撃もなく、音もなく。

 オレは深い霧の中にいた。


 鏡には全身が写っている。辺りは霧に包まれ、輪郭を保っているのは目の前の大きな鏡だけ。自分の手すら、霞んでよく見えない。


「ここは、…………あの髑髏の、中か?」


 それとも別の空間だろうか? どうにも意識にも靄がかかっている。

 オレは振り向こうとして…………出来なかった。鏡から顔を逸らすことができない。鏡にはオレしかいない。オレの後ろの光景は、おそらく完全に霧の中。


 そこで気づいた。

 この世界には方向がない。だから振り返るなんてできない。振り返る先がない。


 この世界には音がない。風もなければ、もなかった。


 ほら、もう名前も溶けてしまった。この霧は、そういうものだ。


 ここにあるのは鏡だけ。

 この世界で唯一の、ただ1点の座標。


 だから、唯一確かなそこに縋るしかなかった。


「————」


 鏡はもう鼻先まで近づいている。

 近づいたというのはあくまで比喩で、そもそも初めからそこにあったんだろう。それともオレがここにあったのか。


 オレ……おれ……ぼく…………。


 わからない。たゆたっている。身体の感覚がまのびして……霧に混ざってひろがって……。

 輪郭はもう失われている。


 逃げなきゃならないのはなんとなく分かるけど、逃げる先が分からない。

 いや……そもそも逃げるって、なんだ……?


 鏡には、しらないヒトがいた。


 そのヒトはぼくをみておどろいてる。


 それに、ひどくかなしそうだった。


 知っている。

 このヒトを知っている。

 だって、このヒトは…………。


 なぜか涙が、なくなってしまったはずの頬を伝った。


「お母……さ……」


 忘れてはならないヒト。

 けれど、失ってしまったヒト。


 その人は鏡の向こうで叫んだ。


「ここに来てはダメ! 離れなさい! 「アトラ」————!」


 最後の名前を呼ぶ2つの声で、オレは自分を取り戻した。同時に、全身の輪郭がハッキリと戻り、気がつくと視界に映るのは鏡でもなければ口を開いた髑髏でもなく、黒い髪を靡かせた少女の姿だった。


 普段と違う、紅い瞳。白く細い指からは、髑髏の一部だったものが、砂になるまで握りつぶされてこぼれ落ちていた。


「ルカ……? あれ、オレ……」


 記憶がぼやけている。オレはさっきまで何をしていたんだ……?


「アトラ、ちゃんと帰ったときの言葉、言った?」

「え……? …………あ————」


 そのとき、ようやくオレは自分の落ち度を理解した。そうだ。帰ったら“あれ”を言えと、たしかにルミィナに言われていた。


「っ、ルカ!」


 顎を外れんばかりにかっ開いた髑髏が、オレを気にかけるルカの背後に迫っている。咄嗟にルカをつき飛ばそうとしたオレの動きは、しかし止まってしまった。


 もう、つき飛ばす必要がなくなったから。

 髑髏はぐにゃりと潰されて、砕けるのでも割れるのでもなく、ぐしゃぐしゃに歪んで床を転がっている。


 今見たものは、なんだったのか。

 迫る髑髏の額。そこに、血のように真っ赤な手形がペタペタといくつも浮かんで…………そのままあの固い髑髏を、粘土のように潰してしまった。

 なんの抵抗もなく、抗う暇も与えずに、オレの爪を耐えていた髑髏は、こうして原型も留めずに床へ落ちている。


 そのとき聞こえた悲鳴は、髑髏とあの見えない手、果たしてどちらのものだったのか。

 オレの知らない、ルカだけの力。それに薄寒さを覚えてしまい、チクリと胸が痛む。

 オレと助けるためにしたこと、使った力に対して、オレは何を————。


「アトラ」

「あ、ああ……」


 ルカに促されて、立ち上がる。

 そして、忘れていた“あの言葉”を口にした。


「『ただいま』」

「うん、おかえりアトラ」


 口にした瞬間、狂った空間がかき消える。

 オレたちは見知った魔女の館にいた。


 やっと、帰ってこれたのだ…………。

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