教会の地下牢から
そこは暗い空間だった。石で出来た壁や床は身体から熱を奪い、鉄格子越しのロウソクが唯一の灯りだった。年季の入った三叉の燭台に、ロウソクは3本ある。だがそのうち2本は途中で消えてしまい、最後に残った火も小さくなりつつある。
だがそんな頼りなく揺らぐ火も、ついには消えてしまった。
「……………………」
それきり、辺りは闇に飲み込まれた。
周りが黒く塗りつぶされたことで、それまで辛うじて見えた自分の姿すら見えなくなり、感覚だけが目に見えない形を持って残った。
常人であれば、冷えと暗闇に心を圧迫されるだろう。成人した男であっても、闇へ対する原初の恐怖に抗えず、子どものように震えたのかもしれない。
が、それは人間であればの話であって、吸血鬼からすればそんなものは痛くも痒くも無いのである。熱が奪われるだとか暗闇だとか、その程度で済むなら跳んで喜ぶくらいだ。奪われるほどの熱なんてないし、暗闇といってもこの程度、不便にもならないのだから。
そんな吸血鬼が頭を抱えている理由は単純明快。この独房が教会の地下であるからに他ならない。
「やばい……やっばいなこれ……」
1人でこうしてどれくらい経ったのか。
湿った土と石の匂いにもすっかり慣れて感じなくなる程度にはいるらしかった。
ルカはここにはいない。教会の人間相手に暴れられても困ると、ルミィナさんへ帰りが遅れることを伝えておいて欲しいと言って無理やり帰した。
いや、これは我ながらいい手だったと思う。何せこれでルミィナさんへ状況の報告ができるし、何より無断で帰るのが遅れては、今よりも恐ろしいことが待ってそうだ。
オレにとって1番身近な死が、【紅の魔女】ルミィナその人なのだから。
カラキリは知らない。連行されるときにどこからか苦しげな呻きが聞こえたが、もしかしたらあれがカラキリだったのかも知れない。まあ、そんなことは今さらどうでもいいのだ。問題はこれからどうするかということで————
「っ、…………」
思案に耽ろうとした最中、微かな音を耳が拾った。それは足音だった。1人じゃない……おそらくは階段を2人で降りてきている音。少しして、音が変わった。徒歩で、明らかに近づいてきている。
「刑の言い渡しか……? 今回の場合は……どういう罪なんだろうな。窃盗……あたりが妥当か」
もしも窃盗なら、刑は大したことにはならないはずだ。基本的に、余裕のある国ほどこの手の罪は軽いものだったりする。そして教国は当然豊かで余裕のある国だ。
個人の経営する店であれだけの量を出せるほどの余剰食糧のある教国であれば、なおさら重罪にはならない気がする。
逆の可能性があるとすれば、宗教的価値観から窃盗が重罪になるパターンだろう。この場合、極刑は極めて現実性を帯びてしまう。
そうでなくとも、手とか指とかを切断するような刑罰でも困る。不便だとか痛いだとかでは当然ない。単純に、#切れない__・__#のを説明できないからだ。
さまざまな考えが頭をよぎる。が、足音はもうそこまで来ていた。
鉄扉が大きな音を立てて開かれ、やはり2人の人間が入ってくる。最初に見えたのは、意外なことに修道服姿の女性だった。手には小さな灯り。細いロウソクがある。その光があまりにも弱々しく、女性の顔と胸元までしか照らせていなかった。
「起きていますか? 私が見えるでしょうか……? ああ、こんにちは。もう、ちゃんとお返事してくださいね」
目の前まで来た修道女は、目を細めながら囚人を見つける。と、おそらく笑顔を浮かべて、手に持つ灯りを近づけてきた。
「さ、外はスッカリ明るいですから。ここで目を慣らしてしまいましょう。でないと、目を傷めてしまいますよ」
ゆったりとした話し方で、しかしはっきりとした声だった。口から飛び出た、こちらを労わるような言葉に、つい余計なことを言ってしまう。
「オレは罪人だろ? なんでそう丁寧なんだ」
教会の人間への警戒心も相俟って、我ながら典型的な悪人のセリフである。猛烈にやり直したい気持ちをグッと堪える。
「あなたはすでに罪を償い、赦されましたから。さ、今開けますよ。もうすぐで外へ出られますからね」
金切り声をあげて、鉄格子の扉が開く。オレが身を屈めて牢屋から出たのを確認すると、女性はゆっくり先導を始めた。鉄扉の前には兵士姿の男が1人。オレの後ろへ回り込むと、そのまま着いてくる。足音から、2人の内のもう1人だと分かった。
「足元に気をつけてくださいね。見ての通り、ここは暗いですから」
鉄扉が並ぶ暗い通路を進むと、程なくして石の上り階段が見えてきた。見上げると、大きな両開きの鉄扉の隙間から、懐かしい日の光が溢れている。
「ゆっくり開けますからね」
扉は宣言通りの速さで開かれる。意外にも扉は軋まず鳴かず、滑らかに動いた。
視界の光度が一気に上がり、日にあたった空気特有の香りが全身を打つ。外は本当によく晴れていた。
「あちらへあなたを待つ者があります。しっかり謝罪をしておきなさい。半日であなたを赦した方です」
言われるまでもなく、その人影には気づいていた。周りを見てみると、ここは教会と司祭館の間にある空間らしい。視線の先には、広場へと続いているであろう細い路地。その途中に、待ちくたびれたという風で立っていたのは…………。
「あんたは……店の……」
「おう、ちゃぁんと反省したか、盗っ人?」
盗っ人の被害者であるところの店主のおっさんが立っていた。
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「じゃあ、オレはこれで」
「まてまて、そう警戒するこたぁねえだろーに」
解放……もとい釈放されて、半日ぶりの娑婆の空気であった。なぜか何も言わずに一緒に歩く謎の時間も、もういいだろう。
いつの間にか目の前にはおっさんの店がある。ここまで来れば、後は帰るのみ。そう思っていた。
「ほれ」
「?」
店主は店先に立っていた子どもから籠を受け取ると、それをそのまま突き出してくる。持っていけとでも言うように。
「これは……?」
「いいからほれ、取っとけ」
「…………食べ物」
中を見ると、パンやら干した果物やらが入っている。身に覚えもないので、おそらくくれたんだろう。だが、なぜ?
「半分は昨日の嬢ちゃんに渡してくれ。気持ちのいい食いっぷりだった方だ」
「あ~……ああ、分かった。大食らいの方な」
一瞬カラキリは男だと弁解しようと思ったが、意味のないことだと気づいてやめる。それにちょうど良い。カラキリに別れの挨拶くらいはしても良いだろう。
「ああ、それとな。俺への賠償金は小銀貨8枚ってとこだ。あんな立派な御令嬢に仕えてんだ、すぐだろ?」
「…………は?」
今、心底から理解できない、したくない言葉を聞いた。おっさんは厳つい顔をいやらしく歪めている。おそらくほくほく顔というヤツだ。人相の悪さから、向ける相手次第では事案である。
いや、そんなことよりもだ。
「賠償金って、オレは地下牢に……」
「おうおう、その顔は分かって言ってやがんな? まだ償ったないのがあるよな?」
「ぐ…………ムダに学がある……」
そう。オレが地下牢で一夜を過ごしたのはあくまで刑事責任に基づくものだ。まだ民事責任は償っていない。混同しやすいここらをうやむやなままそそくさと消えるつもりだったが、厄介なことにそうはいかないらしい。
「安心しろ、盗っ人。主人やあのお淑やかな嬢ちゃんには請求してねえ。俺も良心が痛むしな。おめえが職なしになっちゃあ、回収できるもんもできねえ」
「……………………」
「なあんだ、納得いかねえってのか? これ以上ないってくらい譲歩してんだ、文句言うなっての。懲罰金は辞退したんだぞ。この倍額請求できるところを、損失額だけを請求してんだ! 感謝の一つもしねえか!」
「え……? 何でそんな損することしてるんだよ」
「おめえがまだ若いから以外あっかよ! 俺も今じゃ一国一城の主だがよ、ひもじい思いもしてきてんだ。観念して反省しやがれ、盗っ人が」
がっくしとうなだれる。たしかに、これは温情以外の何ものでもない。このおっさんはおっさんなりに、最大限の譲歩をした。文句のつけようのないほどの完璧な譲歩。もはや恩とすら言える。
加えて、見当違いであれ、オレの職や立場を案じてすらいたとあっては、恨みも怒りもできない。完敗だった。
オレは帰って早々にルカへ金の無心をすることを決意し、了承の返答とともに踵を返した。……と、ふと気になることがあり立ち止まる。
「おっさん。あんたオレがこのまま逃げるとは思わないのか?」
「ああん? 教会から指名手配されたいほどのバカとは思わねえよ。賠償金って言ったけどな、その半分は教会への罰金だ。直接払いに行くのも気まずいと思ってよ、俺が受け取った金額の半分ずつ、教会へ払いに行ってやる」
「…………あんた、シスターに会いたいだけだろ」
「ぐわははは! まあそんなとこだな!」
獣みたいな豪快さで大笑いして、おっさんは店内へと消えていった。
さて、借金ができた。耳を揃えて返さないと、教会といらぬ接点を作ってしまう。
「はあ……寝食不要なくせして金でトラブル起こすとは……。カラキリのとこ行くか……。この荷物を押し付けないと」
オレはおっさんに渡された籠を引っ提げながら、カラキリのいる町外れのボロ屋へと足をはやめた。
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「おーい、カラキリいるかー」
埃っぽいボロ宿を床をギシギシ鳴らしながら進み、大部屋に入る。ここには個室なんてない。あるのはこの半ば物置きと化している一室のみだ。
その端がカラキリの場所になっていたはずなのだが……。
「お?」
そこにカラキリの姿はなかった。宿の主人である老婆へ声をかけてみる。
「ばあさん、あいつは?」
「あいつってダレだい」
「誰って、客はカラキリしかいなかったろ? ほら、風変わりな格好した、一人称が『わし』のヤツ」
それで通じたらしく、老婆はああと声をあげる。
「あの子ねえ。ほんとに別嬪さんで、礼儀正しい良い子だよぉ」
「うん、だからさ、そいつはどこ行ってんの?」
聞き取りやすいように、気持ち声を張って話を遮る。いい加減帰りたい頃合いなのだ。とろとろと雑談に興じるつもりもない。
「教会に行くって言ってたよ。旅をしていても、礼拝は欠かさないのかねえ。立派なことだよ」
「教会⁈ なんで⁈」
「教会に行ってやることなんてひとつさね。ああ、なんだか人と会うような話もしてたっけえ? まあ————」
宿から飛び出して、カラキリの姿を探す。見当たらない。すでに教会に到着しているのかも知れない。このタイミングで教会へ行くとなると、その用件はおそらく一つだ。
「早まるなよカラキリ……!」
頭にルカとカラキリが会ったときの記憶が蘇る。あのまま放っておけばどうなっていたのか。
あれを教会相手にやられたら、一体何が起きるのか。
嫌な予想がいくつも出てくる。
決定的事態になる前に、カラキリと合流する必要があった。それも急務で。
だから、いちいち道なんて使っていられない。オレはここからでも見える教会の屋根目掛けて跳んだ。家屋を飛び越えて、塀を足場にし、最短距離の一直線で駆けた。
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アトラが駆け出すすこし前、カラキリはゆったりとした足取りで町を歩いていた。無論、行き先は教会である。腰には2振りの刀。しかし、これは常に手の届くところに刀を携えているカラキリにとっては、特に深い意味もなければ、当然殴り込みのための武装のつもりもない。
つまり、アトラの懸念に反して、カラキリはことを荒立てるつもりはなかった。
「ふむ、まさに異国。思えば遠くに来たものだ。まるで飽きんね」
島国出身のカラキリにとって、大陸で見るもの全てが新鮮だった。乾いた空気、埃っぽさの中に異国の町特有の匂いを感じる。空気が違うからか、日の光すら違って見えた。故郷とまるで似つかない建築もまた、カラキリの目を楽しませていた。
「さて、アトラ殿は達者にしているか。や、アトラ殿なら心配無用か」
カラキリから見たアトラへの印象。それは、とにかく“未知の強者”に尽きる。一見追い詰められているようでありながら、鬼気迫るものを感じない。危険に対する当事者意識の異常なまでの希薄さ。それが無知から来るものでないことは察せられるだけに、なおさら不思議な余裕を感じさせて、ともすればチグハグな印象すら抱かせる。
“まあ、どうせどうにかなる”。そんな意識が、カラキリには透けて見えるようだった。
そういう強者に、カラキリは覚えがある。隣国の国太刀がまさにその手の奇人であったのだから。
その後もカラキリはキョロキョロと物珍しそうに、首を横やら縦やら動かして練り歩いた。町は平和そのものだ。ここへ来たとき、その防衛体制の脆弱さに驚愕したものである。
この町にも市壁はあった。壁といっても、面白いことに住居の壁を市壁としたもので、カラキリはその発想はなかったとしきりに感心した。
が、その後見たものにさらに驚愕してしまう。市壁を囲むように堀が掘られていたが、それがもうほとんど風化して、埋まってしまっていたのだ。
長く手入れをしなかったのだろう。それはその必要に迫られることが、長らくなかったということだ。
そこまで察したカラキリは、役割を失った堀が平和の象徴にも思え、知らず口角が上がったものである。
そんな観光客であるところのカラキリは、寄り道もしながら歩き続けて、ようやく教会を前にする。
「おお、これが異国の神の家か! なるほど、なんとも面妖な装いだ。爺なぞは侘びも寂びもないなどと酷評しそうだが、ふむ。わしは面白いと思う、うん」
ひとり納得したように頷いて、“さて”と観察。アトラが放り込まれている牢などは、一体どこにあるのか。そうして教会の外観から、もしや地下牢などあるのではと疑い出したころ、ふと昨日のルカの言葉を思い出す。
「カラキリさん。明日になったら教会のアトラに会いに行って欲しいんだ。そこでアトラが“たすけて”って言ったら、指示通りに助けてあげて。
絶対に強引なことはしないでね。アトラが求めたことにだけ応えて。私は助けに行けないから」
なんとなくこの様な意味の言葉を発して、最後に常とは違う、冷たい氷のような目で彼女は言った。
“これで本当の友達になれるね”と。
それは紛れもなくカラキリの感じている負目を見透かしてのものであった。
カラキリにとって、“友”であることに地位も能力も関係なく、それらが自身と同等である必要はない。
しかしただ1点、“精神的に対等”である必要がある。この1点は絶対条件であり、アトラはカラキリを対等に見ていても、当のカラキリはそうではない。
遭難していたところを救われたという大きな“借り”。これを返さない限り、カラキリは胸を張って“友”を名乗れないのだ。
少女の言葉に、カラキリはルカへの評価を改めた。一見無垢な少女は、その実鋭い刃物のような女傑であったのだと。
カラキリには尻に敷かれるアトラの将来像が、まるで見てきたかのように目に浮かぶ。親近感と同情の念から、カラキリは長い睫毛の瞼を一度閉じて、恩人の将来へとお悔やみ申し上げるのだった。
「ふむ、しかしアトラ殿はどこにいるのか…………」
捕まったことは聞かされていても、具体的な位置は不明である。関係者へ尋ねるか、はたまた侵入などしてみたものか。ヘタに隠密に自信のあるカラキリには、難しい選択肢といえた。
ウンウンと唸ってやや物騒なことも思案するカラキリだが、やはりその姿はいささか目立っていた。
「きみ、こんなところでどうしたんだ?」
このように、当然教会の人間に声をかけられる。
カラキリに声をかけたのは、教会の扉を守る守門の2人組だった。
1人は一見親切そうに敵意のない声をかけ、もう1人は帯刀している異邦者に、視線を険しくしている。
「む? おお、みたところ教会の関係者か? これは僥倖! すこし尋ねたいことがあるのだが、ここの牢に入れられた者と面会したい。手続きなどはどうすれば良いのか?」
「牢? …………その前に、きみ。その腰に提げたものは、もちろん許可を得ているんだよね?」
その手の申請はここしばらくなかったし、当然許可など得ているはずもないと知りながらの問いだ。
カラキリに応対している守門の男は、さりげない動作で半歩下がる。反対にもう1人の方は、相方の身体に隠れる位置に移動し、じりじりと距離を詰めていた。槍の石突はすでに地を離れている。
それを当然のように察知しながら、カラキリは刀の鞘へと無造作に手をかけた。瞬間、守門の表情から感情が消え、いよいよ槍の穂先は水平に持ち上がる。
カラキリの眼前の守門が半身を逸らせば、それを合図にその背後から槍の穂先が突き出されるのだろう。
だが、守門の予想に反して戦闘の火蓋が落とされることはなかった。
鞘に手をかけたカラキリは、そのまま刀を鞘ごと投げてよこしたのだ。
「危険なことはないぞ? 試しに抜いてみるといい」
硬直していた男が、辛うじて2振りの刀を受け止める。翡翠を思わせる翠の1振りと、これまた格式の高さを伺わせる透き通るような紫の1振り。
守門の手は、微かに震えていた。傷など付けようものなら、何年無給生活を強いられるか分かったものではない。
しかし、だからといって確認しないわけにも行かない。守門の男は、緊張を努めて表情に出さないよう心がけながら、言われた通りに刀を抜こうとした。
が、刀がその身を顕にすることはなかった。どれほど力を入れようと、僅かにも抜ける気配がない。始めこそ頑張っていた守門だが、対照的に欠伸などしている容疑者の様子に、徐々に諦めがついたようである。
「は、なるほど……びくともしない」
「見かけだけの飾り物だ。旅の道中は危険故、飾り物だけでも提げているのだ」
「そうでしたか。いや失礼しました」
その発言内容がおかしいことは、守門にも分かる。危険だというのなら、こんな宝刀を持つべきではないし、持つにしても隠すべきである。しかし、これ以上踏み込む理由も根拠もないことは、それ以上に確かだった。
そこまで判断して、終わりの挨拶といこうとした守門より先に、のほほんとした調子の異邦人が口を開いた。
「しかし、わしはこれでも刀の腕では人後に落ちぬと自負している。
その上で助言したい。後ろの男よ。人を殺めた経験がないのであれば、役割を交代すべきだと思う。そうも力んでは、視界を遮る意味がない。背に隠れながらああも緊張が伝わるとは、覚悟が足りない」
「っ! なんだ、お前は」
槍を持った守門が、その若さからくるいら立ちを視線で投げる。言い当てられた不快、不気味さ、そして微かな違和感。
人を殺める覚悟が足りないという異邦人。その発言者からは、言った内容に反して言葉自体に重みがない。それこそ、言った本人がその“覚悟”を持たないかの様に感じられたのだ。
そして、守門の違和感は正しい。覚悟が足りないというカラキリの指摘はもっともだが、カラキリ自身はそんな覚悟を微塵たりとも持ち合わせていない。
そも、覚悟を必要としないのだ。カラキリにとって斬る際に必要とする気負いなぞ、花弁をむしる程度のものでしかない。
故に噛み合わない。覚悟の足りない未熟者と、覚悟のいらない異常者の視線は、合わさりこそすれぶつかることはなかった。これでは守門の独り相撲である。
「剣呑な空気を感じましたが、何かありましたかー?」
とそこへ、守門の後ろから女性の柔らかな声があがった。守門の2人は素早い動作で道を開けるように脇へと避ける。
必然、カラキリとその女性が向き合っていた。
「あら、異国の方ですか? まあ珍しい」
遅くもないのに、女性の声はなぜかゆっくりと聞こえる。張りはあるのに、不思議と柔らかな声だった。この声と容姿故に、この修道女は町でも人気があり、彼女を目当てに入り浸る者など、数えれば司祭が呆れるほどいた。さながら教会の看板娘だ。
薄い金の長髪は透き通るようであり、その体も女性的柔らかさを見るものに予想させる。しかし、決して品を失わない清浄さがある。故に、彼女を美女と称する者はおらず、彼女を話題にあげる老若男女は総じて“美人”という言葉を好んで用いた。
アトラが特に外見への感想を抱かなかったのは、おそらくルカという、綻びひとつない“完成された美”の間近で過ごしていたからだろう。
そう、カラキリが知る由もないが、彼女こそ地下牢からアトラを先導した修道女レティシカその人であった。
「ほぉ……」
現れた修道女を観察して、カラキリの口角は喜びを示していた。平和な中にも、やはり一角の人物はいるのだと、嬉しくなったのだ。平和でありながら、平和ボケはしていない。それが確かな実力によって維持されているのだと悟って、カラキリの機嫌は2段階ほど上振れた。
「さて、それでわしはどうすれば良いのだ? 必要な手続きがあれば従う所存なのだが」
「手続きですか? もしや討伐隊に志願されているのでしょうか? 申し訳ありませんが、今アンゲマン神父はいらっしゃらないので、日を改めてくださいね」
「討伐隊?」
「ええ。違うのですか?」
向かい合って、こくりと首を傾げる2人。揃った仕草は微笑ましくすらある。
守門の男がレティシカに何やら耳打ちすると、彼女はしきりに頷き、花の様に微笑んだ。
「まあ、あの素直な男の子に御用でしたか!」
「おお! やはりいるか! それで、アトラ殿に会いたいのだがどこにいる? わしはそのために来たわけで!」
ようやく話の分かる人物がいたと、喜色満面のカラキリ。修道女の手を握りぶんぶんと振る。一方、そんな顔を心苦しい気持ちで目の前にするレティシカ。彼女はこの無垢な笑顔を曇らせることを口にしなければならないのだから。
「それが————」
意を決して口を開きかけたとき、彼女は教会へ猛スピードで接近する人影を捉えた。
レティシカの目が見開かれる。人影は尋常ならざる場所から飛来している。屋根だ。教会前の広場に近づくにつれ、建物は高くなっている。その屋根から高く跳び、今まさに階段下へと着地せんとする人影。
守門も、カラキリも、道ゆく人々も、皆が呆気にとられた様子でそれを眺めていた。
「カラキリッ! 早まるなーーーーッッ‼︎‼︎‼︎‼︎」
ギャギャギャ!と音を立てながら、件の人物は再び教会へと舞い戻った。
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