月下の逃走


 主人不在のルミィナ邸の雰囲気は、いつもとはどこか違っていた。大きな支柱を失った家が、他の柱たちと協力し合ってなんとか倒壊を堪えている。

 例えるなら、そんな危うい、張り詰めた空気があった。


 とはいえ、日帰りの外出くらいはルミィナも時々している。ただ、そのときは結界……つまりはこの館の在り方を切り替えていなかったのか、こんな空気を感じることはなかったのだが。


「……………………」


 火の消えた暖炉。その前でいつもなら館の主が寛いでいるソファに身を沈めて、ただ振り子時計の鳴らす『カッ、コッ、カッ、コッ』という音だけが聞こえている。


 こうして動かずに、どれだけ経っただろう。

 冷や汗すら、この重圧に抑え付けられて出て来れない。空気を軋ませる重圧は、ルミィナの不在とはまた別の理由によるものだ。


「————————」


 外から差し込む月明かりが、暗い室内を僅かに照らす。そして、そんな月光すら寄せ付けない少女の眼は、暗い室内で真紅の輝きを纏っていた。

 その輝きは、キラキラというよりは爛々とした、瞳と同色の興奮を放っている。


 なまじ繋がっている分、#眷属__オレ__#には#真祖__ルカ__#の冷酷で残酷なまでの無邪気な衝動が分かる。…………分かって、しまう。


「……………………」

「————————」


 無言の圧力。だが、オレはルカに視線を向けることはしない。あんな状態のルカに付き合うつもりは無いし、話しかけるキッカケも与えるつもりはなかった。


 なんなら、オレはルミィナが帰宅するまでこうしている覚悟もあるくらいだ。


「アトラ」

「……………………」


 反応しない。まだいける。

 今のオレは難しい本を難しい顔で読んでいる。そういうことになっているはずだ。返事をしないくらいに集中している素振りを続ければ、なんとか……。


「時間かかり過ぎてない? その本、あと3ページでしょ?」

「っ、…………」


 ハッとして手元に意識を向けた。気づけばこんなにも分厚い本のページは、残すところあと3ページ。ルカの宣告通りだ。

 ルカの圧力に気を取られるあまり、ペース配分を間違えた……!


 白く細い指が赤い本を取り上げる。ちょっとした机にも、重しにもなりそうな重厚な本が、まるで羽でもつまむように持ち上がる。それを適当に放ると、ルカはガッシリとオレの肩を掴んだ。


「ね、アトラ。遊ぼ!」

「…………そうだな、カードゲームでもするか。ホラ、なんて言ったっけかあの教会が売ってるヤツ。遊ぶうちに自然と教義を覚えられるとかいう——」

「鬼ごっこしたい!」

「鬼ごっこ……はは、鬼ごっこよりさ、ルカ。やっぱ教養を身につけられる遊びの方が——」

「鬼ごっこしたい!」

「……………………」

「鬼ごっこしよ! するよ! ホラ!」


 手を引かれて立たされる。今のルカと体を動かすような遊びは避けたいところだったが、これも月の影響か、今日のルカはその奔放さも増していた。


 そのまま部屋を後にし、長い廊下を進む。今日の廊下には窓があった。相変わらず灯りのない廊下に、窓から入る月光だけが床を照らし出している。


 なんとなく、窓から月を見上げてみた。濃紺の夜空には、本来なら星々が誇らしげに瞬いている。だが、今日は月が主役となる日だ。脇役たちは輝きを抑え、月の白さを一層際立たせていた。


「……ルカは知ってるか? あの月ってさ、昔は天蓋園だと思われてたんだ」

「んー? 天蓋園って、神さまがいるところ?」

「そう。余程の悪人でもない限りは死後の魂が向かう先でもある、アレだよ」

「うん。知ってるよ?」


 廊下を歩く間の、ほんの話題。今のルカには聞き流されると思っていたから、乗ってきたのは少し意外だった。

 どちらからともなく歩みは止まり、2人で外の月を見上げる。


「けどさ、実は300年前までは結構信じられていた説だったその説も、今は少数説になってるんだよな」

「へー……なんで? 死んじゃってもあそこに行けば会えるって、すごくステキなのにね」

「ああ、確かにそうだな。死別した大事な人があそこから見守ってくれてるっていうのは、綺麗ではある。


 けどさ、ある大魔法師が解析したらさ、あれは巨大な立体魔法陣なんだと。たぶんほかの星も同じだって予想されてる。

 だから天蓋園説は少なくなって、代わりに月は神の瞳だって説が力を持ったらしい。


 ほら、瞬きするだろ、月って」


 「あー、たしかに」と頷いて、またまじまじと月を見上げるルカ。目を細めているあたり、遥か彼方の魔法陣を読み解こうとでもしているのかもしれない。それがなんとなくおかしくて、つい頬が緩む。


「神々が世界を見守るために残したものだって言うんだが、神々が降り立つ以前の時代の遺跡から月に言及したものが出てきてまた議論になってるんだってさ。


 結局あんな巨大な魔法陣がどんな効果を持ったものなのかは分からないまま、と。なんだか不気味だよな。そんな得体の知れないものにルカやオレは影響されてる」


 ————“それって怖くないか?”


 そんな問いを込めた視線を、ルカは真紅の瞳で受け止める。


「別に気にならないよ? だってあんなに綺麗で、こんなに心地いいんだもん。悪いものじゃないよ、きっと」


 それは本当に素直な、心からの言葉だった。あんまりに余分がなくて、ストンと腑に落ちてしまうくらいに。


「でも、やっぱり天蓋園説がいいなぁ~」

「なんだ、ルカはそんなに気に入ったのか」

「だって、それだったらルミィナにも会えるかもしれないんだよ? 一生懸命2人で頑張れば、迎えにいけるかも」

「…………ああ、そしたらルミィナさんが死んでも会えるもんな」


 “あと100年——”

 

 ルミィナの言葉が思い出される。自らに残された時間をそう断じた魔女の顔は、その時間を決して長いものとは考えていなかった。


「100年、か……」


 今のオレにとって、それは途方もない時間に思える。それでも、オレやルカは殺されでもしない限りは確実に過ぎ去ることになる時間でもあった。

 今のルカは、おそらく100年を短くは思っていない。それでも、50年後に“あと半分だ”と気づいてしまったルカは、残りの半分も笑顔で過ごせるのだろうか。


 その後の長い、本当に長い時間を、オレはルミィナの分まで寄り添えるようにならないといけない。


「……………………」


 ルミィナがいないからなのか、そんな普段は考えないことを頭に浮かべてしまう。

 あの【魔女】の代わりを務められるようになるのに、100年はとても短く思えた。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -



「……どこだここ。なんだこれ」


 見上げるほどの鉄扉を開き、岩の洞窟を抜けると、地平線まで続く大森林を眼下に見下ろしていた。

 空には相変わらずの白い真円。

 照らされる森は淡く月光を纏う。そこには人の手などまるで寄せ付けない神々しさすらあった。


「う……」


 その景色のスケールに圧倒されていると、全身を質量を持ったような強風に打たれる。ざわめく森の響きは、まるでオレを拒んでいるかのようだ。


「じゃあはじめよ!」

「いやいや、まて! ここで鬼ごっことかムリだろ⁈ ていうかここはどこなんだって! どうやってこんなところに来たんだオレたち!」


 一応、オレとルカは館の中を移動していたはずだ。それがいつの間にか館内が木造の場所から石造りに、床も石畳になったかと思ったら、扉まで重苦しい金属製へと変わっていた。

 そして気がつけばまるで知らない岩山の洞穴へと出ている。これでは位置関係がめちゃくちゃだ。館内ならともかく、ここは外。流石にこんな場所までの距離を歩いた記憶はない。


「ああ、これはね、ルミィナの魔法なの。ルミィナが作った扉なんだけどね、いろんなところに繋がるんだって」

「〈転移門〉みたいなものか? じゃあ、あの扉は『聖域魔法』の結晶じゃんか⁉︎」

「ルミィナは【魔女】だよ? 忘れちゃった?」

「にしても万能過ぎるんだよ。どういう性質の魔力なんだ……? 普通あれもこれもとは行かないんだけどな……」


 魔法は魔力によって適正という偏りを持つ。ルミィナという魔女がどういう魔法で『神域』へ至ったのかは知らないが、何かに秀でるということは、それだけの偏りを意味するはずだ。


 例えば火の属性に特化して『神域』へと到達した場合、魔力はそれだけその属性へと偏っているということであり、“水の属性でも『神域』に到達しました”ということは起こり得ない。

 人の才能には限りがあり、何かを突き詰めるには特化するより他にないからだ。


 しかし、そうなるとこれはなんなのか。

 判明しているだけで、ルミィナはおそらく『聖域』に到達する〈結界魔法〉や、間違いなく『領域』級の偉業である“人工精霊の生成”なんてマネをして、草原を焼き払うようなどう見ても火の属性を持つ魔法を使っていた。

 扱える魔法の範囲が広く、深すぎるのだ。吸血鬼になって以降これでも懸命に吸収してきた魔法学の常識が、まるで働いてくれない。指標そのものを壊された気分。


「アトラ?」

「っ!」


 ルカの声に、意識を引き戻される。

 考えてみればルカの言う通り、あれは神の真似事ができる【魔女】だ。魔法学の常識なんて、当てはめようとする方がどうかしてる。


「わ、悪い……で、なんだっけ?」

「鬼ごっこ! はじめるよ!」


 ルカの目が、獣性を感じさせるものへと変わっている。途端、本能が警鐘を鳴らした。

 “逃げろ”と。“危険だ”と。

 

「よ、よし……じゃあ、ほら、数えるからルカは逃げろよ」

「アハハッ! 違うよー! 逃げるのはアトラだよ?」

「な、なんでオレなんだよ……はは、いいって、オレが鬼になるって……」

「ダメだよ。だってアトラじゃ絶対私に追いつけないもん! それじゃあつまらないもんね」


 獰猛にすら見える無邪気さで、ルカは歌うように笑いかける。ただ、その内容は不吉な意味合いがあった気がした。


「それって、裏を返せばさ……オレは絶対に逃げ切れないってことに——」

「じゅ~うっ! きゅ~うっ!」

「まった! ちょっとまった! わかった、やろう! でもその前にちょっと聞きたい!」


 オレの静止の声に、秒読みを止められた鬼はいかにも不満そうな顔をする。

 が、機嫌を損ねてでも訊かなければならない。返答次第では適当に逃げるフリをしてさっさと終わりにもできるし、返答次第では命懸けの逃走劇の幕開けだ。


「えー、なに? もしかしてアトラ、鬼ごっこ知らないの?」

「いや、知ってる。けど、こう……前提の共有をしたいんだ」

「?」

「あのさ、鬼に捕まったら、鬼を交代するってことでいいんだよな?」


 オレの知っている“鬼ごっこ”なら、ルカのこの雰囲気や背筋の悪寒には違和感がある。だから、これは微笑ましいお遊びなんだという約束が欲しかった。


 だが、当の鬼役の吸血鬼は怪しげな、嗜虐の色を宿した表情を浮かべて変わらぬ笑顔を向けてくる。


「えー、アトラ知らないんだぁ」

「なにが……」

「鬼に捕まった人はね、食べられちゃうんだよ?」

「ッッ————⁈」


 冷や汗が噴き出る。知らず腰を落とし、身体はすっかり逃走の準備を整えている。


「じゃあ数えるからねー!」

「まっ、まった! オレの足じゃあ10秒は早すぎる! ほら、オレってこれでもインドア派っていうか引きこもりっていうか!」

「えー! じゃあ何秒?」

「10分……あっ、いやっ、5分でいいんだ!」

「…………じゃあ、待つね」


 その返事が耳に届くより先に、オレは眼前の崖のようなというか崖そのものへと身を投げ出していた。




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 森の中は高い木々の樹冠が月の光を遮り、想像を超える暗闇が広がっていた。人間にはこの暗さはつらいだろうなと、もうすっかり他人事な自分に苦笑してしまう。

 オレもルカのおかげで、ずいぶんと吸血鬼側になったもんだ。


 そんな森をひたすらに走ること……どれくらい経ったんだ? ある程度冷静になった頭は、体感で2時間程度と予想する。……実際のところは分からない。


 満月の恩恵はオレにもあり、とにかく体が想像した通りによく動く。

 走っていると、ずっと先に見えた太枝が、瞬きすると目の前に迫っている。それを無造作に払うと、さしたる抵抗も感じずに破断できた。

 考えてみると、これでは痕跡が残ってしまう。逃走者にあるまじき行為といえる。


 オレをこんなにも活動的にさせているのは、オレにあってルカにない、眷属としてのある特性だ。


「大分離れたみたいだな」


 冷静になって考えてみると、オレがルカに捕まる可能性は低い。なにせ眷属であるオレには、主人であるルカが大体どこにいるのか感じ取れるんだから。


 そして、ルカにはオレのような能力はないらしい。まあ、眷属のオレに主人は1人に対して、真祖にとって眷属は複数あり得る。眷属の数に上限があるなんて情報に触れたことはない。


 おそらくそこら辺が、この一方通行の感知能力の理由になってくるんだろう。

 でなきゃ眷属が増えるほどに真祖の脳内は情報で埋め尽くされてしまう。


「さて……どうしたもんかな」


 走りながらこの後の予定を考える。

 これ以上走る必要はないだろう。あまりデタラメに走ると、陽が登っても帰れなくなってしまう。こんな大森林とか樹海とかと呼ばれる場所で彷徨うなんてゴメンだ。


「ん?」


 そんな暗闇の中、あるはずのない気配を感じて急停止する。速度に見合った慣性を殺すために立てた踵は、地面に真っ直ぐと軌跡を刻んだ。

 地中から捲り上げられた木々の根から、独特の湿った匂いがする。

 土をかけられた木々を横切り、気配のした方向へと歩み寄ると……。


「ぅぅ……」

 

 暗い森の中、人の寄り付かないはずのこんな場所に、見たことのない服装の人影があった。うつ伏せに倒れ、か細いうめき声をあげるその姿は、いかにも弱って見えた。

 ここで放っておけば、そこらの魔物か獣かのごちそうの役を担うことになるだろう。


「……………………」


 反射的に、放っておこうという考えが浮かぶ。

 直感的に、そうするのが当たり前のように感じた。しかし、その人影の苦しげなうめき声に一瞬足が止まる。


 そうしてすこし立ち返ってみた。


 はて、と。

 少し前のオレなら、この人間を見捨てただろうか、と。


「——————ハ」


 そんな疑問が頭をよぎり、ゾッとした。

 たぶん……見捨てなかったのだ。


 どうにも人間の血を取り込むたびに、オレの中の“ニンゲン”が薄れている気がする。血を取り込むことに対しての抵抗感や嫌悪感が徐々に薄れて、“ニンゲン”への仲間意識まであやふやになっていく。


 まるで、気づかれないように、ゆっくり、じりじりと、何かが進行している予感がした。


「おい、大丈夫か?」


 それはそんな予感を振り払うためのものだった。本当にその人影が大丈夫でもそうでなくても、それはどうでもいい。

 とにかく、“オレは見捨てなかった”ことが重要で、それがこの予感が杞憂だと思うために必要な言い訳だった。


 おそらく衰弱しきっている、もう助からない命。

 そんな命にも寄り添えるんだと言えるための正当化行為。たとえ目の前でこの人物が息絶えても、何も感じないだろうと……冷め切った自分が告げている。


「ひ、人かッ⁈」

「うおっ⁉︎」


 ただ意外にも。


「おぉ、うおぉおおおおお! 人だあ! 助かったああッ!」


 思った100倍、その人影はピンシャンしていた。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -



「いやぁ、助かった! アグ、むぐ——なんと礼を言えば良いやら——もぐ……」

「いいから落ち着いて食べてくれ。詰まらせるから」


 火に薪をくべながら、すごい速さで肉を吸い込んでいく遭難者を観察する。片脇に置かれているのは……刀、か。翡翠のような色合いの方と、紫水晶のような色合いの方がある。こんな場所で行き倒れている人間の持ち物としては、かなり違和感を感じる。


 得物が特殊なら、その持ち主も変わり者だ。

 背丈はオレよりやや低く、線の細いカラダ付き。しかし、痩せこけたような弱々しい感じはない。あれは鍛えて無駄を排したカラダ付きだろう。


 そして顔は中性的に整っている。声も男というには高く細く、女と断じるにはやや低く太い。話してみるまで、オレにはこの人間が男であると分からなかった。


「わしは見ての通り無一文でな、今すぐに返せるものがない。すまぬ……」

「いいよ、見返りを求めてのことでもないし」


 オレはオレの都合で助けただけだ。真っ直ぐな視線を向けられると、すこし後ろめたい。

 すぐに死んでも仕方ない……どころか、ヘタに粘られても面倒くさいとすら考えていた節のあるオレとしては、感謝の言葉のひとつひとつが痛かった。

 だからはやく違う話題にしたくて、覚える気もないのに名前なんかを聞いてみたりする。


「それで、あんたの名前は?」

「おお、わしとしたことが。ん゛ん゛っ! わしは国太刀のカラキリ! 気軽に気安くカラキリと呼んでくだされ!」

「クニタ……チ……? 変わった名前だな……」

「うむ、たしかにこの大陸では聞かぬ名であろうな。して、命の恩人をわしはなんと呼べば良いか」

「ん? ……ああ、アトラ。アトラって呼んでくれ」

「おお、アトラ殿か! うむ、良い名だな!」

「そうか? 結構ありがちな名前だと思うけど」

「いいや、わしは初めて聞いた!」

「そ、そうか……」


 見た目に反して豪快な性格なのか、カラキリはオオカミ肉を頬張りながらグイグイと距離を詰めてくる。それを不快に感じさせない何かが、この男にはあった。


「しかし美味い。これはなんという獣なのだ、アトラ殿」

「え? あ~なんだったっけな……魔物だったと思うんだけど」

「緑の毛色。額に唯一の瞳。こんな獣は見たことがない。血抜きの腕も卓越しているな。今しがた仕留めたというのに、肉に血生臭さがまるでない。どうやって血抜きをしたのだ? わしも今度から真似てみたい」

「……ひ、秘密で。秘伝のワザ……みたいなヤツだよ」


 吸血時の感覚を思い出して気持ち悪くなる。ドロドロして獣臭くて生臭い、最悪の味だった。

 本当は吸った血を吐き出したかったが、どうやって吐けばいいのか分からずに断念したのだ。

 

 結果として、今も体がなんとなくだるい。血にも合う合わないがあるんだな……。


 カラキリはその名の通りカラカラとよく笑った。気がつけば、カラキリは肉を丸々一頭分胃袋に収め、目の前で満足そうに腹をさすっている。

 まさかほとんど1人で平らげるとは思わなかった。飢えているとむしろ食が細くなるものなんじゃなかったっけか?


「————なるほど、魔物とはなんとも面妖な獣なのだなあ。そんな連中がいるということは、この森では魔石を持たぬ獣は生きて行けぬな」

「いや、大抵の魔物は繁殖力が強くないんだよ。その上縄張り以外ではあまり活動的じゃないんだ。だから魔法を使えない動物たちも上手く共存できる」

「ほう……それがその魔石というものか?」

「ああ、仕留めるときに砕けたけど、本来はもう少し大きい塊なんだ」


 どけていた破片を摘んで掲げる。オオカミを殺してそれなりに経っているにも関わらず、破片はまだ体温を保って温かい。

 たしかこの熱が消え去ると加工できるようになるんだとか。こんな大きさになっても、売れば安宿一泊分にはなる。


「ほい」

「む?」


 魔石の破片が、小さな放物線を描いてカラキリの手に着地する。それを一瞥して、カラキリは不思議そうな顔を向けてきた。


「無一文なんだろ? それを売れば小遣い程度にはなる」

「————大陸の人間は冷たいと聞いていたが……あれはとんだ詐話だったか……。アトラ殿、わしはこの恩を忘れないぞ。国太刀は受けた恩を必ず返すのだ!」

「無事に森を抜けてから言ってくれ。……て、そうだ。なんでカラキリはこんなところで倒れていたんだ? 観光って訳じゃないだろ?」

「うむ……それは——」


 カラキリは腕を組み、なにやら難しい顔をする。厳しい顔のつもりなのかもしれないが、中性的なカラキリがやってもちっとも威厳はない。


「ふらと立ち寄った村で物騒な話を聞いてな」

「物騒な話?」

「うむ。なんでも、ここ2年ほど村の人間が森の近くの街道で攫われることがあるという」

「誘拐か……散発的だと教会に頼っても派兵してくれないだろうな」

「実際そうだったらしい。そしてつい先日、自分の娘が攫われたというのだ。

 そこでわしは、これは捨ておけんとさっそく森に入ってみたのだが、これが全く見つからんのだ。わしはさらに街道を外れて奥深くへ進んでみたが、帰り道を見失ってしまった」

「そうして彷徨ううちに、ここで行き倒れていたと」

「たははは! いやあ、面目ない! わしもまさかこんなところで遭難するとは思わなんだ! 文目あやめも分かたぬ暗闇では如何ともし難かった!」


 ワッハッハと、自分の無計画さを笑い飛ばす遭難者。どうにもこの男は衝動的なところがあるらしい。そんなんでよく今まで生きて来られたもんだ。

 ここで助けてもまたどこかで飢えて倒れないだろうな? 大丈夫か……?


 弱まってきた火に細枝を放りながら、うつ伏せにぺちゃりと倒れているカラキリの姿を夢想してしまう。なんとも頼りなくも、可笑しな姿だ。


「それで、人攫いを見つけたらどうするつもりだったんだよ、カラキリは」

「無論、斬って捨てる」


 言葉に込められた確かな殺気に、視線を上げる。想像に反して、相変わらずのほほんとした顔がそこにはあった。


 それでも直感がある。この男は本気でやる気であり、実際にできる。

 人を殺すと口にしながら、特別な覚悟も力みもない。それだけ慣れているんだなと、オレは傍らの刀が飾りでないことを認めた。


 カラキリへの評価を改め、警戒心の目盛りを一つ上げる。——と、不意に違和感に襲われた。


「っ、なんだ?」

「む? どうされたのだ、アトラ殿?」


 目の奥が僅かに疼く。感覚はカラキリを挟んでさらに向こう側から。一方のカラキリは何も感じないのか、視界の中で首を傾げたり視線を追って振り返ったりと緊張感のカケラもない。


「向こうに何かある……気がする」

「向こう? 何かとは?」

「分からない。これが良いのか悪いのかも判断できないけど……どうする? 少し離れるか?」

「ふむぅ…………」


 カラキリは腕を組んで思案する。

 結論はすぐに出たらしい。


「わしは見てみたい。人攫い共であるかもしらん。ただアトラ殿は——」

「ああ、多分オレは大丈夫だよ」

「……何か心得があると?」

「まあ、それなりに」

「ふむ…………シィッ‼︎」


 前触れなく放たれる拳。カラキリによるそれは、正確に眉間へと直進する。

 そして————


「————合格か?」


 拳を掴んで、カラキリを見据える。緩く握られた拳は、万が一当たってもケガをさせないようにということなんだろう。

 触れたカラキリの手は意外にも固く、激しい鍛錬の歴史を物語るものだった。


「うむ、素晴らしい反応速度だった! これであれば何があっても逃げられるな。して、アトラ殿は徒手なのか?」

「ああ、これで良いんだ」

「ふむぅ……」


 納得してない顔で唸るカラキリをあえて無視して、違和感の方向へと足を進める。

 進むにつれて、始めはただの違和感だったそれは、次第に血の匂いを纏った。


「カラキリ……血の匂いがする。多分誰か死んでるぞ」

「…………」


 頷く気配と同時に、カラキリの足音が消えた。音もなく足を早め、まるでオレを守るように前を行く。その姿は自然体で、刀の柄に手を乗せているところを除けば散歩でもしているみたいだ。

 これでなんで足音が殺せているのか、オレにはさっぱり分からない。


 剣士だと思っていたけど、暗殺の心得もあるのか?


「アトラ殿が血の臭いに鋭敏であるように、わしは足音を盗むのは得意なのだ。いやしかし、本当に鋭いのだな。わしは今ようやく感じられたぞ」


 血の匂いにようやく気づいたカラキリが鼻を擦る。進むほどに強まるそれを追う内に、オレたちはついに発生源を見つけた。


 暗闇の支配する森の中、視線の先にはそんな森の隙間とも呼べる木々の切間が存在していた。

 薄い夜霧が、皓々とした月光の軌跡を浮き彫りにする。その白光を浴びて、木の仮面に黒い服という出立ちの人影が円を作るように並んでいた。


 耳障りな音とも声ともつかないものは、多分何かの呪文だ。それなりに勉強しているつもりだったが、聞こえる呪文は記憶のどの知識とも整合しない。


 男たちの中心には、祭壇……か? そしてその上にはいくつもの部位に分けられた生命の残骸。


「あれは……なんであろうなぁ……アトラ殿には分かるか?」

「————人間だ」

「……………………」


 が反応している。あれはニンゲンだと、満月に昂っている獣性が歓喜する。

 

 祭壇の溝から流れ滴る赤い液体は、集団から数メートル離れた場所まで蛇のように這い伝う。

 あれは……


「魔法陣? 血を魔力源にするのか? クリシエ教では禁忌だぞ……」

「あの魔法陣はどういった性質たちのものなのだ?」

「流石にここからじゃ無理だ。近づけば解除しようもあるけど……」

「相分かった、アトラ殿は解除に専念されよ。わしには魔法陣なるものがさっぱり分からぬ……我が身の浅学さには汗顔かんがんの至りだが————」

「カラキリ……?」


 カラキリの言葉が止まる。不審に思い顔を伺うと、その視線は一点に縫いとめられていた。


 祭壇に散乱するものの中で、最もニンゲンを保っている部位…………小さな頭部。楽な死に方でなかったのは、その表情を見れば嫌でも分かる。

 その苦悶の表情は、縋るような視線でこっちを見ていた。


「ッ、カラ————」


 木々の陰、暗闇に守られた領域から、カラキリは無造作に歩み出る。もう始まったのだと理解して、オレは魔法陣へと身をかがめながら接近する。


 その途中、どうしても心配になって一瞬カラキリの方を確認した。一度助けると決めたんだ。危険そうであればこんな不気味な魔法陣より、オレはカラキリを優先する…………つもりだった。


 ————結論として、そんな心配は必要なかった。


 音もなく近づくカラキリ。しかし、如何に足音がしなくとも、距離を詰めれば気付かれる。

 だが結果として、連中は仲間の首が飛ぶまで敵の存在に気づかなかった。


 そして一閃。翡翠を思わせる刀が、淀みのない動作で振われた。

 2つの首が落ちる。そしてその首が落下音で仲間へ危険を伝えるころには、さらに2つの首が落下を始めていた。


 カラキリは止まらず、焦らず。その様は長い鍛錬による洗練を思わせる。


 カラキリの歩みは止まらない。早まりもしない。


 仮面越しに、明らかに視線がカラキリを捉えた。


 それでも反応できない。訳も分かっていない。

 それは、カラキリには殺意というものがないからだ。害意も敵意も力みもない。

 およそ“殺す”という動作を感じさせないのだ。人は脅威を感じなければ、回避行動に移れない。

 今のカラキリの動作に比べれば、まだ散歩の方が力みを感じられる。


 結局、仮面の男たちは最後まで構えも警戒もさせてもらえず、戸惑いの中で刈られていった。


「——————」


 刀が鞘へ納められるのを見て、慌てて魔法陣へと意識を戻した。つい見届けてしまったが、こんなことをしている場合じゃない。


「って言っても、なんだろうなこれ…………こんな構成見たことないぞ…………」


 ひと目で分かる。解除は無理だ。

 本来人間の脳がする魔力の制御や奇跡の構築。これを脳ではなく魔法陣に行わせる以上、そこにはさまざまな制約と法則がある。

 目の前の魔法陣は、頭にあるそれら既存の法則を無視しながら安定して成立していた。


「書き換えでの解除が無理なら……」


 カラキリの様子を確認する。

 大丈夫、こっちを見てない。カラキリの意識は完全に死骸の頭に向いている。


 オレは、視界を紅へと切り替えた。


 書き換えての解除は無理でも、魔力を失わせての無力化なら出来るかもしれない。魔力源が血液によって供給されるなら、オレにもなんとかできる。


「ッ、起動するのか⁈」


 魔法陣に渦巻く、オレにだけ見えているモヤが胎動を始める。もう一刻の猶予もない。


 右手を血に浸し、視界の紅い糸を手繰る。直径2メートルほどの魔法陣の端から端まで、その全域に満ちた新しい血液の後は、これまで蓄積され浸透した古い血液を引き揚げる。


「ああ、クソ……もったいないとか考えるな……ッ!」


 血が集まるほどに増す芳醇な香りに、何度も衝動を嚥下した。そうして右手を起点に集まった魔力を、一気に魔法陣の外へと引っこ抜く!


「うぉうっ、なにごとかっ⁈⁈」


 魔法陣から引き抜かれ、ぶち撒けられるおびただしい量の血液。激しい水音と共に立ち込めるのは、むせ返るような死の臭いだ。

 一体何人を捧げたのか、魔法陣は色を失い、代わりに大きな血溜まりが形成される。

 見た目はまさに血の池だ。


「アトラ殿、これは一体……?」


 鼻をつまみ、涙目で悪臭に堪えながら訊いてくるカラキリの手は、なぜか土に汚れていた。少し考えてから、それが土葬を済ませたことによるものだと気づく。


「今まで魔力源にされてた血だ。多分いくつもの村から人を攫っては解体して捧げたんだろうな」

「…………魔法陣は解除できたのだな」


 魔法陣は機能を停止し、一見消えたようになっている。見えるはずのない魔法陣を、カラキリは静かに見つめる。


「いや、解除はできなかった。オレの知ってるものとは全然違かったんだ。今は魔力源が無くなって停止しているけど、確かにそこにあるよ。また魔力さえ与えられれば起動する」

「わしが地面を抉れば掻き消せないのか?」

「無理だ。もうそれはその場所に存在している。地面に穴を開けても、魔力を通せばそこに出現するよ」

「ふむぅ……」


 カラキリにはよく理解できなかったらしく、しかめっ面で首を捻る。あまり魔法学の知識はないんだな。


 放っておけばいつまでもそうしていそうだから、一応納得しやすそうな言葉をかけることにした。


「まあ普通は見えないしさ、こんなところに人も来ないだろ? 他に仲間がいても、もうここには近づかないんじゃないか?」

「うむ、それもそうだな! 得心とくしんがいった!」


 何が嬉しいのか、カラキリはにこやかな表情を浮かべる。もちろん、鼻は摘んだままで。


「じゃあ、カラキリの用事は終わったよな? 帰り道は分かるか?」

「いいや、全くもって分からぬ」

「そうか……悪い、オレも街道なんて分からないんだ……」


 さて、参った。オレはこの森に来て数時間の新参者だ。この森の歴で言えば、目の前の遭難者の方がよっぽど長いことになる。


 オレに分かるのはここからルミィナの館へと通じる扉の場所くらいだし、もちろんカラキリを連れて帰るわけにはいかない。

 そんなことをすれば、オレはカラキリもろとも魔女に消し炭にされるだろう。

 誇張なしに、ルミィナはやる。絶対やる。むしろ機会を窺っている節すらあるんだから困りものだ。


「ん……? あっ、やばい……!」


 これからどうするかと頭を悩ませていると、忘れていた気配の接近を感じた。それもとんでもない速度で。


「はやッ⁉︎ いくらなんでもデタラメすぎるだろそれは……‼︎」

「???? 如何にしたのだ、アトラ殿? そんなにワタワタと……この大陸の舞いか? 舞踊なのか? ずいぶんと奇天烈な……」

「そんなわけあるか! とにかくここは危険だ! 今すぐ走るぞ! ————ああ、ダメだ……もう来た……」


 混乱するうちに、にわかに森が騒がしくなる。地響きのような音と振動が強くなる。

 今更ただごとでないと察したカラキリが身をかがめるが、もう遅い。


「やっと追いついたーー‼︎」


 幅広の幹をぶち破って、鬼ごっこののご来臨だ。この森であれだけの直線移動をしておいて、服も肌も一切汚れていないのはどういう理屈なのか。

 兎にも角にも、カラキリという部外者のいる状態で、したくもない邂逅を果たしてしまった。


「……ん?」


 ただ、ルカの様子はどこか違う。瞳の爛々とした紅い輝きがいつもの黒いへと戻り、雰囲気もすこし落ち着いている気がする。

 ハッとして空を見上げて気付く。いつの間にか空の満月は輝きを薄れさせ、もうじき朝が訪れようとしていた。


「逃げ切れたのか……」


 状況について来れないカラキリと、そんなカラキリを不思議そうに見つめるルカ。

 そんな光景を尻目に、ホッと安堵の息が漏れた。

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