第27話「同類」

 ドリアとスープセットを手にして、あたしは席に戻る。

 もう何食べても味なんて分からないだろうと思ったので、無難なメニューを選んだけれど、向かいに座った向坂くんも全く同じメニューである。

 あたしが注文したら「同じセットで」って間髪入れず言ってたから、やっぱり、何でもよかったんだろう。


 どちらからともなく「冷める前に」とか言って食べ始めたけれど、ヒートアップしかけてからのこの沈黙、どうしたらいいのかよく分からない。


 もう怒る要素はないし(そもそも最初から、そんな要素ない説もある)、「じゃあ来週から行くね」ってなればいいの? 


 でも。


「ごめん。やっぱり、俺が悪かったと思う」

 水を一口飲んだ――と思った向坂くんが、コップを置くと同時にそう言った。


「本当はさ、スマホ持ったことも、家の事情も、いつまでもは隠せないし、早く言わなきゃって思ってた。でも言ったら、何かが変わってしまう気がして」


 向坂くんはフォークを手に取り、半分くらいになったドリアの断面を崩し始めた。崩しながら、

「待ち伏せとか、投げ文とか、大変だったけど、そういうの含めて凄い楽しくて。これが終わるなって思ったら、どうしても、言い出せなくて」

 

 ドリアを全部崩したところで、向坂くんは顔を上げ、「でもそれって、俺の勝手だよな。――ごめん」


 「勝手じゃないよ」やっとのことで出てきたのは、そんな言葉だった。

 あたしは水を一口飲んで、一呼吸置いた。そして、 


「さっき、『スマホを持つことになったのが言いにくくて』って言ってたけど、急遽持つ必要ができたってことだよね? お父さんの代わりに妹さんを迎えに行くってことは、お母さんが急なご病気、とか?」


「違う。そもそも母親は小学校に上がる前に離婚して、出てったきりだし」


「えっ、でも、妹さん――」

 年が離れていませんか? という続きはどうにか飲み込んだ。家庭の事情は、色々あるものだし。うん。


 向坂くんはフォークを手にしたまま、廃墟の残骸みたいなドリアを難しい顔して睨んでいる。


 迷っているようだ――言うか言わないかを。


 なんだか深い事情がありそう。

 なのにあたしってば、軽々しく訊いてしまって、どうしよう……。

 焦りを覚えた時、向坂くんは難しい顔をしたままフォークを置いて、顔を上げた。


「結海は、今は妹だけど、本当は姪、なんだ」

 

 ――今は?


 それはつまり「お父さんの養女になった、ということ?」


 「うん」向坂くんは頷き、


「結海は、姉さんの子なんだ。姉さん、大学の時に妊娠しちゃって――相手は一回り上のフリーターだし、親父は結婚まで清いままでとか真顔で言うような昔気質の人だったから当然大激怒して、結局姉さんは男のところに転がり込んで、大学も辞めて、籍入れて結海を生んだんだけど――」


 そこで、向坂くんは目を落とし、ゆっくりと息を吐いた。

 「二年前、亡くなった。横断歩道で、車にはねられて」声は、僅かに震えていた。


「――事故?」

 向坂くんは静かに首を振った。


「信号が赤に変わったのに、姉さん横断歩道の真ん中で突然しゃがみ込んで、動かなかったって。向かってくる車を、ずっと見てたって」


 周りには笑い声や話し声や呼び出し音が氾濫してる。


 だけどその全てが、透明な箱の外からの音のように、ぼんやりとしていた。

 あたしたちのいるこの空間だけ、周囲から完全に切り取られていた。


「結海は、実の父親が引き取ったんだけど、先月、ヤツがいきなり結海を連れて家に来て、『父親が脳梗塞で倒れて、母親は介護しなきゃで、俺は再婚するから育てられない。引き取らないなら施設に連れてく』って」


「なに、その勝手な言い分!」

 慌てて口を覆った。黙って聞いてるつもりだったのに、だからあたしってば……。


 でも向坂くんは、あたしの慌てぶりなどまるで気づいてないように、遠い目をしたまま、うっすらと笑い、

「ホントそうだ。もうホント、ひっでえ男で。通夜のあと、酔っ払った挙句、『どうせ死ぬなら事故に見せかけて死ねよ』だとか『自殺するならあと二年待てば保険金下りたのに』だとか大声でぬかしやがって――『人の皮をかぶった悪魔』ってああいうヤツ? 俺、気づいたらあいつに馬乗りになってて――あんま覚えてないけど、フツーじゃない声上げて、ビール瓶握ってたって――周りに止められて未遂だったらしいけど、その場に同じクラスの身内がいたみたいで、おかげで俺は、中学で『ヤバいヤツ』って有名になった」


 向坂くんは、幾分早口でまくし立てる。いつもより高めの声に、今まで聞いたことのない感情が滲み出ていた。


「俺さ、姉さんと仲良かったんだ。年も7つ離れてたから喧嘩もしなかったし、色々相談にのってくれたし、毎朝早起きして弁当も作ってくれて、体操服も靴下もいつも綺麗で、母さんがいないことを、引け目に感じるようなことは全然なかった。なのに俺は、それを当然のことだと思ってて――俺と父さんの大反対を押し切ってあんな男と結婚するなんて、なんてダメ姉なんだって勝手に腹立ててた。出てった当初はLINEも電話もくれたけど、俺は全部無視してた。俺がどれだけ迷惑して腹立ててるか思い知れ、自分の愚行を反省しろよってエラソーに思ってた。ホント、ひっでえ話――」


 幾分声のトーンを落とした向坂くんは、笑いながらそう言った――つもりなのだろうけれど、歪んだ口元も、わざとらしいくらいに軽い口調も、かえって胸に痛い。 


「四十九日に、姉さんの幼馴染が、福岡からわざわざ来てくれてさ。――言ってた。ヤツはずっと浮気してて、責める姉さんを殴って罵って、姉さん悩んでたって。結海が肺炎で入院した時も、姉さんがインフルで動けない時も、姉さんからの電話を着拒して帰ってこないようなクズだったって。『何もできなくてごめんなさい』って泣いてたけど、でも俺は、その気になれば会える距離にいたのに、電話ですら姉さんの話を聞かなかった。自分は被害者で、姉さんは裏切者だと思ってた。姉さんが一人で苦しんでいる時に」


 他人が書いた文章を読み上げているみたいに、淡々と、一息に語った後、向坂くんは小さく息を吐いた。


「俺も、あいつと同じ。姉さんを追い詰めた一人だ」

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