第24話「水曜日の空」

 家に着いた時、空はまだ青かった。水曜日の空はオレンジ色だったのに――そんなことを思ってしまって、あたしは停めた自転車のカゴから乱暴に鞄を引っこ抜き、取り出した鍵を乱暴に鍵穴に突っ込んだ。


 家の中は薄暗く生温く、気持ち悪い。

 鍵を閉めたあたしは二階に駆け上がり、部屋のカーテンと窓と音を立てて開け放った。

 まるでマラソン授業後のベトついた体操服みたいに制服を脱ぎ、クローゼットからルームウェアではなくライトパープルのパーカーとブルーのデニムを引っ張り出す。

 今日は母さん出張でいないから、あとで夕食を買いに行かなければ。


 お出かけ用のトートバッグに財布を入れようとして――鞄を放り投げたベッドを振り返ったら、鍵を取り出したときにきちんと閉めなかったのだろう、中身が飛び出していた。

 教科書やノートの中から財布とスマホを取り出して――LINEの通知に気づいた。


 何故か心が跳ね――恐る恐る通知を開く。


 母さんからのLINEに、何故かガッカリした自分がいた。

 このドキドキからのガッカリ――感情のジェットコースターに昔を思い出してしまって、思わずため息が出る。一体何を期待してるんだか。期待なんて、するだけ無駄だって学習したはずなのに。


 もう、来るわけないのに。

 そもそも――連絡先、教えてなんかいないのに。


 中身は、『戸締りちゃんとして早く寝なさいね。お土産期待しててね』といったもの。「ああ」ピンときた。


 あたしは一階に下り、キッチンに入った。

 冷蔵庫を開けると、タッパーやラップをした皿におかずがいくつか詰められている。種類も量も、いつもの倍は軽くある。


 ということは、今日の夕食代は置いてないってことだよね。せっかく外で食べるつもりだったのに。ため息が出た。


 いくら後ろめたいからって、お土産とか手作りおかずとか分かりやす過ぎ。それとも、ホテル代を捻出するために、あたしの夕食代を削ったのかな。


 あたしはそっと冷蔵庫を閉じると、キッチンを出て洗面所に入った。顔を洗い、髪を整えながら、心でダラダラと独り言を始める。


 別に離婚してるんだから、誰と付き合おうと、お泊りしようと別にいいんだけど、「出張」と言って「お泊り」ってことは、やっぱり不倫確定かなあ。この間電話で、「奥さんが」とか言う単語出てたし。

 自分がされてヤだったことを、他人にもできるものなのかなあ。

 親って、もうちょっとちゃんとしたものかと思ってたけど。クレーマーは高齢者に多いっていうし、大人ってそんなものか。

 子供の命より子供なんて、ドラマの話だよね、まったく。


 あたしも好きなように、好きなものを食べようっと。お小遣いまだあるし、たまには自腹を切るのもいいか。

 倶楽部のお茶代用に、もう貯めなくたっていいし。


 ふいに『無責任』って江上の言葉が耳奥に聞こえて、胸がチリっとした。


「よし準備終わり!」

 あたしはそう声に出して、洗面所を出た。


 そして冷蔵庫のおかずを何とかしようとして――やめた。

 もったいないって罪悪感にかられながら、何重にも厳重に包んでごみ箱奥に突っ込んで、明日帰ってきた母さんに「美味しかったよ」って心にもないこと言って、「自分はちゃんと母親してる」って虚栄心を満たしてあげるの、疲れるし。今のあたしには、ちょっとしんどい。


 あたしは二階に上がって、さっき開けたばかりの窓とカーテンを閉めて、トートバックを手にして部屋を出た。


 黒のサンダルをつっかけて、玄関を出る。

 家の鍵をかけて、自転車を引いて道路に出て、ペダルに足をかけた。


 向かう先の空は、水曜日の空色だった。


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