第39話 第二幕 世界とは ふるさととは
第二幕があがった。
相変わらずマライカの席は空席のままだった。玲子は特に連絡も取らなかった。
こんなことはよくある事だった。たいてい大した理由ではない。部屋で寝込んでしまっていたとか、そんな理由でマライカは居なくなる。
第二幕になってからも、オペラ新エグモントはもともとのエグモントが持っていてた政治色の強いストーリーに加え、クララとエグモント伯爵のラプストーリーを軸に進んでいく。
随所にベートーヴェンの曲が挟まれる。
それはロックであったり、フルートのソロであったり、またはフルオーケストラの演奏であったり、さらにはコンピュータサウンドにアレンジし直された曲として、このオペラの至る所で、その場面の背後から流れている。
セットはそれほど手の込んだものではなく、むしろシンプルである。それは背後でライトアップされたローマ列柱の持ち味を、十分に演出の中に組みこむことを意識したものなのだ。
主役、いやこの劇ではいまや脇役になってしまった観のあるエグモント伯爵は、オランダ独立勢力とスペイン王室の間にたち、妥協の道を探ろうとしていた。
クララはそれに反発する。
弱腰すぎる。あなたはオランダ人ではないの、と。
クララは市民階級らしい、無教養ではあるがまっすぐな気質を持った女性である。その直情的なキャラクターがまぶしく強調されて演出される。
それに対する恋人で貴族階級のエグモント伯爵は、温厚な人物。そして教養にあふれ世界を俯瞰するような見方をする。彼はエリートそのものである。
「クララ。私たちは世界を見なければならない。もちろんオランダの自由は、私たちの求めているものだ。だが同時に世界の平和を求めなければならないのだよ。
それは市民としてと言うより、人類としての義務だ。」
エグモント伯爵はそう歌いながら、抱きしめたクララに話している。
クララは悔しそうな表情を止めない。そしてこう歌い返す。
「世界が、人類が何だというの。私たちはオランダ人、オランダの自由な市民よ。」
「クララ。だから…。」
「私の信じているものは、オランダの幸せだけよ。いつまでもふるさとが穏やかで平和であってほしい。それだけよ。」
ふるさと。
その言葉を久し振りに聞いた。
怜子は思う。自分のふるさとはどこだったのだろう。今でも日本のことは思い出せない。いやあの感覚を思い出してから、さらに日本の記憶は、心の奥の深いところに沈んでしまったようだった。
私はどこで生まれ、どこで育ったのか。そうしてどうやった養父に見つけられ、ここにやってきたのか。
それをマッシミリアーノ・リドは何も話してはくれなかった。
兄のエルベルトはあるいは知っているのかもしれなかったが、やはり何も話そうとはしない。その事が、日本でも自分の「過去」が、決して喜ばしい思い出ではない、おそらく悲惨なものであることを、無言のうちに物語っているようでもある。
オペラは進んでいく。
クララとエグモント伯爵は、なんだか仲たがいして別れたような感じになってしまう。政治的な意見が全く正反対なのだ。
エグモント伯爵はやがてスペイン総督の司直によって逮捕され、獄中につながれる。
このあたりで元々のエグモントでは、クララは悲嘆のあまり死んでしまうのだが、現代的な解釈がなされるこの新エグモントでは、そんなヤワな女性ではクララはない。
クララは自ら独立運動の先頭に立とうとする。
「独立を勝ち取りましょう。そして伯爵の救出を。」
クララは高らかに歌う。
ここはフルオーケストラの伴奏が付いている。オペラはこの第二幕のクライマックスを迎えている。
「ふるさとを私たちの手に。永遠の平和を私たちの地に。」
集まった市民たちはそうコーラスする。
スペインとの戦いが迫ってくる。
怜子は劇にのめり込みながらも、思いを巡らしていた。
ふるさと。それはどんなものなのだろう。自分には無いものだった。
この新エグモントでは、それはきわめて神聖なものとして扱われている。それほどまでに大切なものなのだろうか。人にとってそれは命をかけ戦う価値のあるものなのだろうか。
クララと市民たち、そしてエグモント伯爵の同志たちは、手に武器をとり強大なスペイン軍に立ち向かっていく。
盛り上がったところで、第二幕が終わる。興奮のまま最後の第三幕に客たちを導く演出だ。第二幕と最終幕との間ということもあり、トイレやドリンクバーに立つ客は、第一幕の終了時に比べ、多くは無い。
怜子は座ったまま、まだ思いを巡らせていた。
ヨーロッパとは、いや世界とは何なのだろう。
それはふるさとの巨大な塊ではないか。無数のふるさとが集まって、それは出来上がっている。
さらにそれは政治家たちが、あるいはエルベルトのようなコンツェルンの経営者たちが夢見ているような、決して統合されることのない世界だ。ふるさととはそもそも統合できないものなのだ。
そこにはクララのような人々が住んでいる。
そして現実の世界にも、ロンバルド国民が、ヨーロッパ人が、いや全人類がそれぞれのふるさとに住んでいる。
そしてそれぞれの地の永遠の平和を願い、そのために戦うことも辞さない。
今回の選挙の示したもの、それはロンバルド国民が投票という形で立ち上がったのではないか。新エグモントのクララのように、戦いの叫びを無言のうちに上げたのだ。
この世界に溢れる移民たち、そして難民は救われなければならない。
弱いものを救うのは人としての当然の務めだ。何を根拠にする必要もない、弱いものをいたわる感覚は、心の奥から自然に湧き上がってくる。
さながらベアトリーチェの性欲のように。
だが間違っていた。目的は正しい。間違っていたのはその方法なのだ。
人々はふるさとが脅かされていると感じている。
移民や難民たちがやってきた。今まで存在しなかった人々が身近にいる事になる。
さらにその人たちが仕事を奪っていく。新しい仕事を探さなければならない。ようやく見つけた仕事は、ふるさとから遠い場所にある。
人々は生まれ育った土地を離れる。住み慣れた街、そして風景から別れなければならない。それは耐えがたいほどの苦痛だったのだ。その苦痛のうめきはヨーロッパの地で、選挙の結果という形で今、吹き上がろうとしている。
この方法で人々を救うことは出来ない。
弱い者たちを救うために、他の人々に苦痛を与える。別の意味で弱い者たちを作り出している。これは間違った方法なのだ。
怜子は思う。
ならばどうしたらいいのか。すぐにその結論は出せない。自分はそれを簡単に答えられるほど頭がよくない。
第三の道はあるのだろうか。簡単なことではないが、それでも第三の道を考え出さなければならない。それは今必要とされていることでもあるはずだ。
最終幕の始まりを告げるベルが鳴った。
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