第38話 オペラ・エグモント
その日は朝から晴れ渡り、日差しはすっかり夏のそれだった。さらに夕焼けが空を染めるこの時間帯になっても、気温はほとんど下がらない。
オペラ「新エグモント」の初演を迎えたこの日は、それでも天気予報によれば、夜には気温は二十度台にまで下がり、過ごしやすくなるはずである。
パラッツォの正門の外に作られた仮設駐車場には、ずらりと車が並んでいる。駐車場の一角にテントを張った臨時のバス停が作られ、コンシェルジェが客のチケットをチェックしている。
観客たちはここからオペラ劇場までシャトルバスに乗ることになる。
パラッツォの中に入るのである。
パラッツォの巨大な正門は王宮当時のそれだった。鋳鉄製の門柱は10メートルを超す高さでそびえ、門扉にはゴールドのレリーフが施されている。
「こりゃすごい。これだけでも見る価値がある。」
「私はここの前は何度も通ったことがあるのでね。見慣れてるよ。それでもたいした物だが。」
客たちはこの門だけでも感嘆の声をあげる。
バスはすぐにはオペラ劇場に向かわない。
正門を入ると、そこから真っすぐに伸びている道路をかなりのスピードを出して走り抜ける。その先にあるのはパラッツォ本館であった。
ロンバルド旧王宮だったこの建物が、一般人の目に触れるのはリド家の所有になってからこれが初めてとなる。
とはいえバスは本館前のロータリーをゆっくり一周するだけになる。それでも東西300メートルにわたって延びる華麗なかつての王宮はライトアップされ、ラテンの血を引くロンバルド人たちは大きな歓声をあげる。
「下ろしてくれ。もっとゆっくり見たい。」
「申し訳ありませんが、開演までに時間がありません。バスの中から見るだけにしてください。」
無理を言う観客は少なくないが、それをスタッフたちがなだめる。
バスは本館から折り返して、今来た道路を走り、ほとんど正門に近い場所まで戻ると、今度は左に折れてしばらく走る。左側の森が開けると、そこに黒と白のシートで覆われて、現代的なフォルムを見せる野外オペラ劇場が設営されている。
道路脇に止まったバスを降りて、観客たちはコンシェルジェの案内で座席に向かう。
二千人を超すはずのこの日の観客たちは、特にトラブルも無くこの野外劇場に導かれているとか感じて、バス停を一望できるプレハブの事務局の二階から、その様子を見ていた玲子は今のところ少しだがホッとした気分でいる。
横にいるスタッフのリーダーに話しかけた。
「開演までに全員案内できそう?」
「問題ありません。昨日予行演習したのが効いてますね。玲子様は用意が周到で、さすがです。」
「クリストフ…、いえハルダー監督はどこ。」
「俳優たちと一緒です。話しかけない方がいいですよ。なんだか今日は緊張してピリピリしてますから。」
そうなのだろう。さすがに開演初日の今日はクリストフも冷静ではいられない。その気持ちはわかる。これが今日を含め三日間続く。当初は二日の予定だったが、チケットにプレミアがつくほどの人気となり、急遽追加公演一日を加えたのだ。
二階の窓から、パトカーに先導された特別車両が付いたのが見えた。首相夫妻がやってきたようだった。
「私も席につくわ。」
「ここはおまかせください。玲子・リド様。」
怜子は事務局を出て、特別車両に近づく。警備の警察官に身分証明書を見せ、顔見知りの秘書官の許可を得て、ソベッティ首相に近づいた。
顔見知りのソベッティ首相と夫人に挨拶を交わす。首相は何回か会っているが、夫人はテレビなどで見かけただけで、会うのは今日が初めてとなる。
「よくおいでくださいました。どうか楽しんでください。」
「リド家が主催する催しとなれば来ないわけにはいきませんしね。それに初演の今日は、エルベルト・リドCEOは来ないと聞いていますから。」
ソベッティ首相の皮肉に、玲子は何も答えず笑い返した。
首相夫妻と別れると、そのまま劇場に入いろうとして、玲子はエレーヌ・シャルロの姿を見つけた。エレーヌもほとんど同じタイミングで玲子に目を止めていた。
「エレーヌ。来てくれたんですね。」
「来るつもりだったわよ。でもチケットが取れなくてね。来たくても来れなくなるところだったのよ。まあ幸いこの人が2枚取ってくれたのでね。」
エレーヌは一緒にいる男性を、プライベートなパートナーだと言って紹介した。
「ジーラは来こないの。」
「チケットが取れれば来るでしょうけど、特に招待しているわけでもありませんから。」
「そうね。太った人は見かけないしね。」
このジョークに玲子は笑った。
エレーヌたちと別れて、玲子も劇場に入った。
この劇場というのも、鉄骨で組んだ枠組みに白と黒のシートをかけて、さらに座席を配置したもので、鉄骨だった頃の姿を知っている玲子には、この変わりようは驚きと言うほかない。劇場は野外ということで二階席が無く、二千人収容のそれはかなりの規模のようにを感じられる。
まだ夜が更けたとは言い切れない時間帯で、西の空を夕焼けが染めていた。それでも劇場はフルで照明が灯されている。
怜子は自分が取っていた席についた。隣の席が一つ空いていて、ここにはマライカが来るはずだった。エルベルトは仕事のスケジュールで観劇は明日になる。フェアリーはそもそも来ない。
「新エグモントは、オペラなんだな。」
「もともとは戯曲だ。ベートーヴェンの曲で有名なやつだが、それをオペラに改編したと言ってる。曲も中身も相当な変更を加えているみたいだが。」
「元のエグモントが素晴らしいだけに、改編というのは気になる。ひどい仕上がりなってなければいいが。
まあ、演出のクリストフ・ハイダーのお手並み拝見というところかな。」
あちこちで客たちが話をしている。
怜子が席について二分ほどで開演のベルが鳴った。
マライカが来ていないのが気になった。スマホの電源を落とすついでにSNSを開いてみても、何もメッセージは来ていない。
ベルが鳴り終わると同時に、照明が落ちた。
劇場は素晴らしい姿を見せた。夜の闇はわずかな茜色を西の空に残して、明るく照らされた劇場を浮かび上がらせている。舞台の背後にあるはローマ列柱が、灯りが消えるのと同時にライトアップされた。さながら古代ローマの劇場にいるかのような雰囲気に、至る所から客たちの歓声があがる。
エレキギターの音で、ベートーヴェン「エグモント序曲」が流れ始めた。
曲はエレキギターとフルオーケストラのコラボに編曲されている。エレキギターの金属的な音と、オーケストラの重厚な響きが重なり合う。
「いい曲だな。音楽担当は誰だ。」
ひそひそ声が聞こえる。
怜子は知っている。音楽はクリストフが自ら編曲している。
曲の終わりと同時にステージには女優が現れた。ヒロインのクララ役だ。
エグモントはよく知られた戯曲で、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの筆になる。オランダ独立戦争時に活躍したエフモント伯爵をモデルにした、政治色の強いシナリオのはずであった。
観客たちにとっては、観劇したことは無くてもよく知られた戯曲だが、最初から女優を登場させたことで、予想外の展開となった。
しばらくして主役のエグモント伯爵が登場する。
時代背景となっているオランダ独立戦争時代。宗主国スペインからの独立の機運と緊張が高まる中、穏健な話し合いの道を探ろうとするエグモント伯爵だが、恋人のクララはそれに反発する。
元のエグモントでは、悲劇的ではあるが単なるラブストーリーのシンボルとしてしか描かれないクララも、この新エグモントでは積極的に政治にかかわり、意見する女性として描かれている。
むしろ穏健派といえば聞こえはいいが、腰のひけた草食系男性のエグモント伯爵を、ヒロインのクララが引っ張っていくような展開を見せる。
いささか違和感を覚えないでもない。
オランダ独立戦争時代に、女性がそれほど積極的に社会にかかわっていたとは思えないからだ。しかし、ここが現代的な解釈を加えたいとしたクリストフのこだわりなのだろう。
エグモントの舞台となっている時代から五百年、時代も変わったのだ。
そして女性も…。
怜子はベアトリーチェのことを思い出していた。
あの時、ベアトリーチェの密会の現場を見咎めた後に、日数を置いて、玲子はベアトリーチェと時間をかけて話をしていた。
こうして日を置くことで、お互い静かな話し合いになった。
「あなたにショックを与えてしまった。そのことはごめんなさい。」
ベアトリーチェはその時、いつも来ている長い真っ白なワンピースを着ていた。いつもと変わらない聖女の美しさのままであった。
「もうあの男とは会わないわ。」
「そう言ってくれると…。」
「私もどうかしていた。でも、どうかしているという意味ならば、今までの人生でいつもどうかしていたわ。
いつも感じていた。体の中から湧き上がってくるものを。熱くて生への衝動を駆り立ててくれるもの。小学生くらいの頃からよ。
知ったのはいつ頃かしら、それがセックスの欲望だと。」
「エルベルトのことは愛していないの。」
「嫌いな人ではないわ。ちょっと我が強くて尊大な人だけど。でも浮気性だし、そのことで傷ついていたのも事実よ。」
ベアトリーチェはそこで少し笑った。
「私の欲しい男は、私の支配に屈してしまえる男。全てを私に捧げてくれる男よ。エルベルトはそうではないわ。」
怜子はその時、まっすぐにベアトリーチェを見つめていたと思う。
「でも、あなたは単なるひとりの女性ではないのよ。この国のプリンセスで国民の敬愛を集めている。それがベアトリーチェという女性。その事実から逃れることは出来ないわ。」
「それは解ってる。父も母もいつも私にそう言っていた。私もそれをよく理解しているつもりよ。私は国家の象徴、私はレーフクヴィスト王室の一員なのだと。
ヨーロッパの誇る伝統文化をただの骨董品ではなく、それに生命を与えるのが君主制。その重要な担い手の一人なのだと。
でも性欲はそれとは関係なしに沸き上がってくる。それを女の私はどう受け止めればいいの。誰もこれに答えてくれなかった。」
そして、その場で答えは出なかった。
目の前で演じられるオペラを観ながら玲子は思う。
オペラとはなんと素晴らしい文化なのか。古いヨーロッパの伝統でありながら、新エグモントのように新たな生命を与えられ、連綿と生き続ける。これこそ文化そのものだと。
この偉大な伝統文化は守られ、生命を与え続けられなければならない。そうでなければ単なる文化的骨董品となってしまう。
ただ、その役割を人間に担わせることが可能なのだろうか。
ベアトリーチェは自ら自覚を持っていた。しかし伝統文化の保護者であるという立場は、体の中から湧き上がる生の活力を、押さえなければ果たすことができないものなのか。
そもそも伝統文化の担い手を、王室といえども生身の人間に担わせることが出来るのだろうか。それは人にとって重すぎるものなのではないのか。
ベアトリーチェのことを思うと、そんな気もしてくる。
オペラは第一幕の終わりを告げていた。
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