第37話 クリストフと怜子

広大な遺跡は、ほぼその三分の一が構造物に覆われていた。

 道路から見ると、それが何なのかよくわからない。まだ工事中ということもあるが、きわめて複雑なものに感じられる。

 よく見ると、そこには舞台装置や、座席やその背後にいくつも並んだ、プレハブ造りの建物などから、野外劇場だとわかる。

 その至るところにヘルメット姿の作業員たちが、作業に立ち働いている。3基のクレーンが休むことなく動き続け、今ここに巨大な舞台が設置されようとしている活気がみなぎっている。


 そして今、ここには看板が掲げられようとしていた。


「新エグモント」


 の文字が黒い背景に描かれている。

 クリストフ・ハイダーもこの日はヘルメットを被っていた。


「もう明日には完成する。」


「これで?」


 怜子は呆れた顔をした。どう見てもまだ工事現場同然の場所である。


「あとは椅子を並べて、構造物をシートで被うだけだ。舞台装置は9割方ほとんど完成してる。」


「そう。私はよくわからないけど、あなたがそう言うんなら、間違いないと信じることにする。」


「おかしなことを言う。」


 クリストフは笑顔を見せた。


「私の言う事なら信じるのか。君は。」


「だって…。」


「まあいい。舞台練習は別のところで進んでる。問題はない。

 そういえば君は練習を見たがっていてたね。私は見せていないが。」


「あなたが見せてくれないからよ。」


「それは当然だ。演劇とは本番を見て感動するものだ。練習なんか見るものじゃない。どうしても見たいのなら、一部をビデオに撮っているから、後で公開することにしたい。」


「そう…。」


「どうしたんだ。元気が無いな。」


「あなたがハイテンションすぎるのよ。」


「かもしれない。その私から見ても君はなんだか落ち込んでいる。」


 それはそうかもしれない。

 フェアリーのこともあるし、リド家とその企業、さらにはロンバルドが直面しているこの現実を考えれば、当然のことだと思える。


「今度の選挙のことかい。」


「ええ、まあ。」


「排外主義的な政党が勝利した。君は外国人でもあるし、そのショックは普通のロンバルド国民以上というのも、わからなくもないな。

 私の国のドイツでも、極右的な言論は勢力を伸ばしている。ヨーロッパ全体の傾向だ。」


「どうすればいいのか。」


 怜子はふと笑顔をうかべた。


「ごめんなさい。舞台が近いのにこんな話をしてしまって。

 休憩をとらないかと思って来たの。何か飲み物でも。」


「いいね。」


 クリストフは、作業員にいくつか指示を出して、玲子と並んで歩きはじめた。


「その飲み物はどこで飲めるんだ。

 このパラッツォはとんでもないところだな。あの元王宮の本館といい、このローマ遺跡といい、まるでヨーロッパの歴史博物館だ。」


「もうひとつあるの。そこに連れて行くわ。」


 怜子のロードスターの隣にクリストフは座った。

 そのままロードスターは走り出した。まっすぐなパラッツォの道路をスピードを上げて走る。それで5分ほど走ると、玲子は右手の森の中に車を乗り入れた。そしてそこで車を止めた。

 目の前には小さな池があり、そのわきに小さな石造りの建物が建っていた。


「今度も驚かされた。中世の教会か。」


「ここも見せたかったの。」


「これはノルマン様式だな。ということは千年あまり前ということか。」


「中世にノルマン人が地中海沿岸にやってきた時に作られたものと聞いたわ。その頃このあたりは名前もはっきりしないノルマン王朝の一つが支配していた。

 その名残ということね。」


 ノルマン様式のこの教会は、誰が外したのかいつの時代に無くなったのか今では十字架もない。ノルマン様式の特徴である窓の無い、石の塊りのような建物だった。

 そしてその横に、小さな東屋が作られている。これはリド家が作ったものだ。

 飲み物はそこに用意されていた。

 クリストフは飲み物よりも、この石の塊りのような教会に興味を持ったようで、ゆっくり時間をかけながらその周りを一周している。


 その間に、玲子は冷たいジュースをグラスに注ぎ、炭酸水を入れたグラスをその横に並べた。


 そのうちクリストフも戻って来た。

「その昔、ここにはこの教会を中心にして小さな村があったらしいの。あの池はその当時、人工的に作られたため池だと学者たちが言っていたわ。」


「発掘はされているのか。」


「発掘というほど大規模な調査はまだされていないみたい。でもあの森に入ってみると、あちこちに石の土台だったらしい構造物が残ってるわ。」


「それにしてもこりゃ犯罪的だな。これほどの文化遺産を個人が所有しているってのは。」


「罪なことかしら。」


「いや、君やリド家を責めたつもりじゃない。これほどの文化遺産は、人類すべての前に公開されるべきだという、あくまでも私の一般論を述べたまでだよ。」


 クリストフは椅子に座って、ジュースを一気に飲み干した。それからまたジュースを注ごうとしたので、玲子は自らピッチャーを取り上げてクリストフのグラスに注いだ。


「大丈夫なのかい。」


 いきなりクリストフはそう言った。


「どうして?」


「君が元気が無いのは、何かあったからだろう。」


 何を知っているのだろう。そしてどうやってそれを知ったのだろう。クリストフは。


「何も知ってはいないよ。」


 まるでクリストフは読心術でも使ったかのように、玲子の考えたことに答えた。


「ただ、その様子は何か特別なことがあったからだと言うことくらいは、私にだってわかる。そそこまで鈍感では無いよ。

 話せることなら聞いてあげてもいい。」


「ごめんなさい。話せることじゃないの。」


 クリストフは黙ってうなずいた。

 そして立ち上がり玲子の隣にやってきた。そのまま玲子の顔を両手で挟んでキスをした。

  唇から離れたクリストフを、玲子は驚いた顔で見上げた。キスされることは想像していなかった。

 思わず涙がこぼれた。


「ごめんなさい…。」


「なんで謝るんだ。

私がいきなりキスしたから驚いたかもしれない。でも、君が話せないと言ったから、せめて私の気持ちをこうやって表したんだ。驚かせたのなら、こちらが謝らないといけないが。」


「いえ、嬉しいわ。クリストフ。」


 言えるはずもなかった。愛する妹がおぞましい犯罪の被害にあったこと。そしてその時、自分の幼いころふりかかった同じ犯罪の感覚が蘇って来たこと。

 とても口にできることではなかった。

 さらにこの国で、いやヨーロッパの各地で波のうねりのように盛り上がる、自分たち外国人に対する憎悪。それに対して心の奥底で感じている恐怖。

 リド家はこれからどうなってしまうのか。自分たち姉妹たちはすべて外国人なのだ。


 怜子はまだ涙をこぼしていた。クリストフはそんな玲子の肩を抱いて、並んで座っていた。

 目の前の池とほとりにたたずむ中世の教会は、沈黙したままだった。穏やかな日差しと夏の風が池を渡ってきた。

はるか一千年前、この地にヴァイキングと呼ばれる人々がやってきた。なぜここに来たのかはわからない。厳しい冬の北欧の生活が難しくなったのかもしれない。明るい地中海の話を聞いた彼らは、はるかな土地を目指したのかもしれない。

そしてヴァイキングたちは、ここに定住しこの古い教会を作り上げた。この場所に生活の場を築き上げてきた。

彼らが建てた石の教会は、こんな風景はこの場所で、もう何百回も見てきたのだ。沈黙の中で、そう語っているようにも感じられた。

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