第36話 国王の言葉は

「エルベルトは私にヒンデンブルグになれと言うのか。」


 国王、アルフォンス・フォン・レーフクヴィスト一世はつぶやいた。その表情は少し笑ったようにも見えた。


 旧市街の中心部にある王宮の窓からは、地中海沿岸地方の強烈な夏の日差しが差し込んでいる。窓がかなり小さいこの王宮でも、その陽射しだけで王宮第一謁見室の室内は明るく、室温も上がり気味だった。

 しかし国王は今日は君主の正装に身をつつんでいる。いくら室温が高くなっていようとも。ベアトリーチェと会う時とは違う。この日は公式な国王としての面会だった。

 なにしろその日、玲子と一緒にソベッティ首相、それに議会の有力議員たちが数人席を同じくしていたからだ。

 国王の赤い軍服は詰襟で、襟の中央にはこの国の最高勲章、聖十字勲章が輝き、胸にはこれも複数の勲章がぶら下がっている。白いズボンの腰には金色の装飾が施された、ロンバルド国防軍最高司令官の紀章が付いたサーベルがぶら下がっている。


 怜子はもちろん、ソベッティ首相ら同席者もスーツを身にまとっている。特にソベッティ首相は胸には同じく聖十字勲章を下げている。


「兄のエルベルト・リドCEOは、アルフォンス一世ならば可能ではないかと申しています。」


「何が可能なのだね。私には政治的権限は何もない。この国の憲法にそう書いてある。エルベルト・リドは学校で習わなかったのかな。」


「いえ、彼が言っているのは、陛下に直接の政治的発言をしてもらいたいと言う事ではないと思います。」


 怜子の言葉を引き継いだのは、ソベッティ首相だった。


「陛下が政治的な権限を封じらせていることは、私たちもよく理解しています。

 ですが国民の陛下に対する敬意は、今でも大変大きなものがあります。このこともまた事実です。」


「で、私に何をしろと。」


「兄が申しますのは、国王陛下からロンバルドの将来を占う決定には、ロンバルド国民の民意を正しく反映されるべきとの、お言葉を発していただくことは出来るのではないか。


 これならば、陛下の政治的立場を逸脱していることにはならないのではないか。

 そのように申しています。」


「いえ、陛下。首相である私の考えでは、もっと直接的にEUへの残留または離脱を決めるような重大な決定は、国民の直接投票が必要であるとのコメントを出していただいてもよいのではと考えます。」


「言ったとたんに、私は国民の敬意の大部分を失うでしょう。」


 国王はためらいもなくそう言った。


「私はまぎれもなくこの国の国王です。だからこそ自分の立場を誰よりもよく理解している。

 国民は私がこの国の象徴であることを望んでいる。だがそれ以上の存在であってほしいとは思っていない。

 そうではないですか。私は決して自惚れてはいない。この美しく気高い国王の正装が、何を意味しているのか正しく理解している。そのつもりだ。」


 怜子もソベッティ首相も、同席している者たちも何も言い返さなかった。


「この国が全面的に民主制を採用してから長い。大戦前の国王が政治的権限を持っていた時代、エリートたちがこの国を動かしていた時代を知っている者は、もう数少ない。そして皆老人になってしまっている。


 国民は民主制を当然のことと思っている。もはや権力を持つ偉大な君主は必要ないのですよ。私が何か勘違いして、国民が望んでいる以上の存在になろうとすれば、国民は私がもはや民主制と相容れない存在であることに気付くだけです。」


 怜子はすこし食い下がった。

 自分にはそういうところがある。すぐに引き下がらない性格は自覚している。


「しかし国王陛下、今この国は危機を迎えています。今までにない事態を迎えているのです。

 今この国の権力を握ろうとしているのは、極端な思想を持った人物です。彼は外国人を嫌悪し、移民や難民を敵視しています。弱いものに対する敵意を隠そうとしていないのです。

 そんな人物が台頭し、今や権力の座につこうとしている。


 これを阻止できるのは、あるいは国王陛下だけかもしれません。」


「それはあなたの考えですか。それともエルベルトの。」


 国王は玲子のほうを見てそう返した。

 少し笑ったように見えた。


「もしエルベルトなら、彼にしては冷静なことを言う。今まで知っている彼の言葉にしては、冷静で論理的ですね。」


 皮肉を言っているのだろうか…。

 怜子は内心そう思わないでいられなかった。


 ベアトリーチェのことはまだ国王の知るところでは無いはずだったが、あるいはすでに誰かの口から聞かされているのかもしれない。

 エルベルトが国王を頼ろうとするならば、ベアトリーチェの件で夫であるエルベルトの立場は弱くなる。このことを公にしたり、さらに離婚などは思いもよらないだろう。

 そのことを感じとって、国王は笑っているのかもしれない。


 ソベッティ首相が口を開いた。


「陛下、無理なことを申し上げてまことにご無礼をいたしました。

 ただ、この国は前の大戦以来の大きな曲がり角をむかえている。そしてそのことに危機感を抱いていることを、どうかご理解いただきたい。」


「そのことは承知しています。

 しかしヒンデンブルグも結局はヒトラーを阻止できなかった。あの時、ヒンデンブルグは権力を持っていました。しかし今の私には政治的権力は何もない。もし無理にそうしようとすれば、国民が私を見放すでしょう。


 すべてが国民の選択であり、意思なのですよ。」


「ヨーロッパを危機に陥れたとしてもですか。今やヨーロッパは解体の危機に瀕している。」


 アルフォンス一世は首をふった。


「ヨーロッパは解体したりしない。

 数千年の歴史の中で、ヨーロッパが解体したことがありますか。いつでもどんな時でも私たちの土地はそこにあった。解体されたことなどない。」

 

 国王は立ち上がった。そして窓に近づき、そこから外を覗いた。小さな縦長の窓からは、旧市街の一部が切り取られて見えた。


「だが、ヨーロッパは統合されたこともない。

 ヒトラーが、ナポレオンが、そしてハプスブルグがそれをやろうとした。だが誰一人として成功していない。

 そして今でも統合などされていない。この選挙の結果は、それをあからさまにしただけ。そうではないですか。」


 アルフォンス一世は皆の方に向き直った。


「ヨーロッパとは何か。それは無数の国、共同体、文化の集合体だ。決して統合されることのない巨大な集合体なのです。

 私たちはそれを統合した。そしてそれに成功した。ヨーロッパ連合がそれだと言われている。

 だかそう思い込んでいたのはエリートたちだけだった。あるいはエルベルトのようなコンツェルンの支配者だけです。


 実は統合などされていなかった。

 ドイツのメルケルは自分をナポレオンだと思っているのかもしれない。だが、皮肉な意味でそれは事実だったのかもしれない。彼女はナポレオンと同じくヨーロッパ統合に失敗したのです。

 私たちのヨーロッパはこれからもそこにある。今まで通り、決して統合されることのないさまざまな文化と共同体の、大いなる集合体として。 


 そのことをこの国の国民は、選挙の結果としてあからさまに私たちに突き付けた。

 それだけのことです。」

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