第35話 それでもイエスと言う
「フェアリー…」
怜子は部屋のドアを軽くノックしてから、そう小声で言いながら、マライカとフェアリーの自宅にある彼女の妹の部屋のドアを開けた。
そのフェアリーはソファーに寝そべっていた。
本を読んでいた。金髪はいつものように照明に輝き、白い肌は大理石の光でそれを照り返している。
いつもの妹だった。
少しほっとした。うつ病のように暗い顔で座り込んでいるのではないかと、暗い想像をしていたのだ。
「玲子。ネエサン。」
フェァリーは日本語で言った。
「マライカは。」
「さっき出て行ったよ。シャワーを浴びるって。」
マライカは自分がしばらくは、常にフェアリーの側にいると言っていたのだ。それなのにと思わないでもないが、この妹の様子を見れば、少しは目を離してもいいのかもと思える。
何も言わないで玲子はフェアリーの隣に座り、肩をだいた。
「もう大丈夫なの。そう聞きたいのね。玲子。」
「…まあね。フェアリーは賢い子。私の言いたいことを何も言わないでも解ってる。」
「大丈夫よ。」
そう答えた妹の青い瞳に、少しの不安定なものを感じて、玲子はフェアリーを抱きしめた。
「ごめんなさいね。」
「どうしてネエサンが謝るの?」
「うん、どうしてだろうね。」
フェアリーは顔を上げた。
「外国人をどんどん入れようと言ってるのが、ネエサンだからなの。」
「そうかもしれない。」
怜子はフェアリーを見ないで、そう答えた。
「この国に、こんなに外国人が多くなかったら、フェアリーも怖い思いをしないでも済んだかも。
そして、どんどん外国人を入れようって言ってるのが、私だものね。」
「そんなのおかしいわよ。
だって私たちだって外国人だし。」
それはそうなのだ。玲子もフェアリーもさらにはマライカもそれはよく解っていた。
「そうだよね。おかしいよね。」
怜子は妹をまた抱きしめた。
不思議なものだった。自分とフェアリーは姉妹だった。しかし自分たちは作られた姉妹なのだ。それでも愛し合うことはできている。
そのことが、何か奇妙なことのように思えた。
それは自分が、思い出すことが出来ない思い出を、心の深い闇の奥にしまっているからなのかもしれない。
もう思い出すことは無かったはずだった。このロンバルドに来てからは。それをフェアリーとのあのキスの瞬間、思い出してしまった。深い心の奥の闇からそれは浮かび上がって来た。
どんなことが起きたのかはそれでも思い出していない。心に蘇ったのはその感覚だけだった。
あるいは自分以外の姉妹、マライカもフェァリーも心の奥にそれと似た何かを抱え込んでいるのかもしれない。その何なのかわからない闇を抱えていたところを、養子としてリド家に引き取られ、今はこの国に住んでいる。
それぞれの抱えている闇が自分たちの不思議な絆の原点になっている。そうなのかもしれない。だがそれは恐ろしい考えでもあった。
怜子はフェァリーを抱きしめたまま呟いた。
「それでも、私はそう思ってしまう。
自分が外国人であることもどこかに忘れて、この国がこんなに外国人だらけにしなかったら、フェアリーもこんな目にあわないで済んだかもしれないって。」
「マライカも言ってた。そんなふうに。
いつでも自分は、自分のことは棚にあげて、他の人たちを憎んでしまう。だからマライカは自分自身は勝手な人間だって。」
「そうよね。人間は勝手なものよね。」
フェアリーはそのまま玲子に頭をあずけた。玲子はその金色の髪をなでていた。
マライカがずいぶん昔にそんなことを言っていたのを、玲子も思い出していた。
自分は身勝手で、感情的で、いつでも自分自身の感情に従ってしまう。自分の考えではない、自分の感情によ、と。
「あたしは頭が悪いの。だから難しいことを言われてもわからないのよね。」
それが姉の口癖だった。
「どうして私たちがここにいるのかわからない。どうして私や玲子やフェアリーが姉妹なのかもわからない。ましてやエルベルトがあたしの兄で、リドの父さんがあたしたちの父親なのか、ますますわからない。」
マライカはそう言った後で、こう続けた。
「それでも、あたしは自分自身にイエスと言うのよね。」
意味がよくわからなかった。
そもそもマライカの言う事で意味がわかったことは少ない。彼女は感情に流され、感情にもとづいて何かを言う女性だった。
意味など特に無いのだ。思ったことを口に出しているだけ。
だがその時の言葉は不思議に心に残った。
「それでもイエスと言う。」
そうなのだろうか。
自分たちも含めて外国人なのだ。その外国人を大勢この国に招き入れたことが、フェアリーの悲劇の原因になったと言えるかもしれない。
このことをどう捉えたらいいのだろう。
自分はやはり、マライカと同じように頭が悪いのかもしれない。だがマライカほど現実に対して腹が座っていない。それでもこの現実にイエスと言えるのだろうか、この自分は。
怜子は妹の髪を撫で続けていた。
金色のその髪は、何か神秘的な自然の造形のように美しかった。
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