第34話 エルベルト 玲子 そしてウィスキー

「わが国民の賢明さには頭が下がるな。この選挙結果をみれば。」


 エルベルトは手に持ったウィスキーを口に運んだ後で皮肉を言った。

 兄が玲子の目の前で酒を飲むのは特に珍しいことではない。パラッツォの自分のオフィスは、半ば自宅のような場所であり、仕事が終わってから、オフィスで酒を口にするのは、これまでもよくあったことだった。

それにパラッツォの中では、飲酒運転しても警察に捕まる心配は皆無である。

エルベルトの口調は皮肉だったが、それはこの事態を適切に表現したものでもあると、玲子は感じていた。


 怜子がパリから帰った翌日、エルベルトも出張先から帰国した。そしてその夜、エルベルトのオフィスで2人は会っていた。


「なんという賢明な選択だ。

 170議席与えて第一党にした。わが議会の総議席数は399議席。ジーラと手下どもを第一党にしたが、過半数は与えなかった。」 


 その通りだった。

 選挙結果は微妙なものだった。

 ジーラの愛国者党は、予想されていたとはいえ議会の第一党に躍り出た。現政権の自由党は第二党に後退した。だがロンバルド国民は愛国者党に過半数を与えなかったのだ。


「いつもそうだ。ロンバルド人はな。決定的な判断をしない。すべてがあいまいだ。

 今までこの国の選挙はいつもそうだった。」


「でも、一部のメディアでは、ひとつの選挙区に複数の議員が当選できる今の選挙制度では、こういう結果になるのは通例だとも言っていたわ。」


「そうかもしれない。だがその選挙制度を選んでいるのも、やはりロンバルド国民だ。」


 選挙から一日が過ぎて、各国政府そして首脳の反応はすでに出そろっていた。


 ネット上には各国の首脳たちのコメントが箇条書きで載っている。


 ドイツ メルケル首相 「ロンバルド国民の出した結果を尊重する。愛国者党のジーラ党首がEU離脱を表明していることは承知しているが、この選挙結果がただちにロンバルドのEU離脱を意味するものではないと理解している。」


 イギリス メイ首相 「ロンバルドの選挙結果に敬意を表する。この選挙の投票がすなわちEU離脱を意味するとは言えないが、ヨーロッパ連合の未来を暗示しているようにも受け取れる。」


 ロシア プーチン大統領 「ヨーロッパの未来を占う選挙だった。もはや人為的なヨーロッパ統合が限界にきていることを意味している。わがロシアは、これからのロンバルトとEUの動きに注目していく。」


 アメリカ トランプ大統領 「ロンバルド国民の選択に敬意を表す。いかなる国であれ、自国のことを第一に考える権利がある。そのことをこの選挙結果が明確に示している。EUはロンバルド国民の選択を尊重すべきだ。」


 日本 安倍首相 「ロンバルド国民の出した選挙結果を尊重する。日本とロンバルドおよびヨーロッパは今まで通りの友好関係を継続していくことになるだろう。」


 手元のタブレットで各国首脳のコメントを読みながら、エルベルトはウィスキーをぐっと飲み干した。


「日本の首相はコメントが事務的だな。ヨーロッパの事情なんかには興味がないのかもな。

…玲子も飲むかい。これはいいウィスキーだ。」


玲子はグラスを手に取った。


「珍しいな、玲子が酒を飲むとは。しかもいつものワインではなくウィスキーだ。」


「ちょっと飲みたい気分なの。」


「そういう時もある。」


 エルベルトは玲子のグラスにウィスキーを注いだ。玲子は自分でそれに氷を足した。


「でも、ロンバルドの人たちがこれほど外国人や移民を嫌っていたのかと思うと、そのことが驚きね。」


「君はそう感じるだろうな。」


「私たちはそれほど人々の暮らしを危機に陥れているのかしら。」


「さあな。俺はそうとは思わんが。

 統計数字を見ればいい。ロンバルドの失業率はヨーロッパでも低いほうだ。外国人労働者を入れて経済を活性化させた結果、それにつられてロンバルド人にも仕事が回ってきているんだ。


 それをこの国の国民はわかっていないだけだ。」


「でも、その気持ちは少しわかる気もする。こんな選挙結果にした人たちの気持ちが。」 


 エルベルトは黙って玲子を見つめた。


「どうした。君の言葉とも思えんな。言いたくは無いが、君もその外国人の一人だ。同情する立場ではないはずだが。

 …それともフェアリーのことか。だから意見を変えたわけか。」


 怜子は答えなかった。だがそれはあったかもしれない。玲子の中で、妹に起きた事件が何かの化学変化を起こさせている。

 いや、それだけでは無かった。あのフェアリーの唇から伝えられた味。あの味がもたらした感覚が、玲子の心に変化を呼び覚ましている。それは決して小さくはない変化だった。


「フェアリーの事件で、警察は何か言ってきたか。犯人は捕まったのか。」


「いいえ、まだ何も。警察は苦労しているみたいよ。」


「首都警察でも、この国の治安維持のレベルはその程度だ。これまででも犯人が見事に捕まった事件なんか、あまり記憶にないな。」


「でも、問題はフェアリーの心のことよ。あの年齢で犯人が捕まったからといって、精神的に立ち直りのきっかけになるとは思えないわ。」


 エルベルトは首をすくめた。


「少女の心理について、俺は詳しくない。

 俺にできることがあれば何でもする。だが出来ることは何もないだろう。玲子、君のいいと思うようにしてくれ。」


 素面の時ならば、玲子はエルベルトの言葉にすこしカチンときたかもしれない。だが今はありがたいことに酔っていた。それなのでエルベルトの言葉に怒らないですんでいた。


 そのエルベルトも酔いが回ってきていた。


「だが、これがすぐに我々の敗北を意味するものじゃないぞ。あのデブのジーラの好きにさせるものか。

 EU離脱は議会の決議だけでは済まないはずだ。国民投票が必要になるはずだ。」


「ジーラはそうは言っていないわ。そもそもロンバルドのEU加盟は国民投票手続きを踏んでいない。

 だから議会の議決だけで離脱が可能だと。」


「ふざけるな。ジーラと手下どもが議決したからって、ロンバルドの未来を簡単に変えられると思うな。

 それにソベッティ首相はどうやら多数派工作をしているようだな。残りの野党。…何だったかな、とにかく名前も覚えきれないような弱小政党を束ねて、連立政権を組むことを考えてる。」


「ニュースでもやってたけど、それはそれで難しいって。」


「やれやれか。国民の選択があいまいだとこうも政治とは混乱する。

 ほんのひと昔前までは、この国の国民の政治的権利は制限されていた。首都にいるエリートたちがこの国を動かしていたんだ。

 その時代のほうがうまくいっていた。そうだろ。


 それが今みたいな大衆民主主義になってから、もはや政治は大混乱だ。昔はよかったと愚痴りたい気分だな。」


 でも、その時代にヨーロッパは二度の大戦を経験している、と言いそうになって、玲子は止めた。言えばエルベルトと口論になる。玲子の日本人的奥ゆかしさが、エルベルトとの対立にブレーキをかけた。


「ところで玲子。俺にアイデアがある。」


「…?」


「国王に会ってきてくれ。娘の夫の代理としてだ。」


 エルベルトは酔いで潤んだ目を玲子に向けながら言った。

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