第32話 思い出される 記憶

フェアリーはベッドに上半身を起こしていた。そして笑っていた。

 怜子とマライカはいささか拍子抜けしたような表情になった。死んだように眠っていたり、痛々しい表情で涙を流している姿を想像したのだ。

 マライカとそして玲子は代わるがわるフェアリーを抱きしめた。

 怜子が抱きしめると、フェアリーの胸がやわらかく自分の胸に触れた。生々しい「少女」の感覚が妹の身に起きたことを実感させて、玲子は胸が締め付けられる。


「来てくれたのね。玲子。マライカ。」


 明るくて張りのある声だった。


「どうしたの。玲子。なんだか病気してるみたい。」


「心配したのよ、フェアリー。あなたのこと…。」


「ごめんなさいね。玲子、マライカ。」


 フェアリーの声はあくまでも明るかった。

 怜子は妹の体を少し離して、その顔を覗き込んだ。

 いつもと変わらない明るいブルーの瞳がそこにあった。やはりいつもと変わらずきらきらと輝いている。


「妹さんの治療はもう終わりです。このまま副作用が収まれば、今日にも退院は可能です。」


 後ろからさきほどの女性医師の声がした。


「さっきまでは嘔吐がひどくて、薬をもどしてしまっていました。それなので薬の追加をしなければならなかったんです。

 今では、その嘔吐も収まっています。制吐剤が聞いたのかもしれませんね。」


「今日、退院できるの。あたしもうパラッツォに帰りたい。」


 怜子は医師のほうを振り向いた。


「もし退院できるのなら、そうしたいところですが。」


 話しながらフェアリーから離れた玲子に代わって、マライカがフェアリーを抱きしめる。

 マライカは泣き出した。


「ごめんね。泣くつもりはなかったんだけど。」


「大丈夫よ、あたしは。それよりマライカを泣かせてしまった。」


「あなたは強い子よ。本当。私なんかより。」


 マライカは涙を拭いてまたフェアリーを抱きしめた。

 抱きしめられたフェアリーは奇妙な表情をした。その青い目が宙に泳いだ。なにかその一瞬魂が抜かれてしまったように。そしてその後、青い瞳から涙がこぼれ落ちた。


「フェアリー…。」


 妹は耐えていたのだ。姉たちの前で。

 マライカに抱きしめられた瞬間に、その気が緩んだ。そして激しい心の苦痛が妹の中に蘇ってきたのだ。あの瞬間の苦しみ、そしておぞましい恐怖が。

 医師が前に出てマライカを引き離した。

 マライカは玲子に肩を抱かれて後ろに下がる。

 フェアリーはしばらく茫然としていたが、しばらくしてふたたび目に生気が戻って来た。


「いい子ね。大丈夫よ。」


 医師はフェアリーの髪を撫でた。

 そのまま医師は立ち上がって、玲子とマライカをもっとフェアリーから離した。そして緊張を含んだ小声で言った。


「まだ精神的に不安定です。あまりあなたたちが感情を露わにすることは、彼女にとって良くありませんね。」


「すみません。」


 マライカはそのままフェアリーから離れたところに立ったまま、動かないことにしたようだった。

 怜子は再びフェアリーのベッドのそばに座った。


「ごめんね。フェアリー。私たちがこんなんじゃダメね。」


「うん。私は元気よ。」


 フェアリーは玲子にまた抱き着いてきた。そして玲子の唇に直接キスをした。

 ときどきフェアリーはそうするのだ。

 甘くやわらかい唇が玲子のそれに触れた。今まで何回も味わってきた妹の唇の味がした。

 だが今日はそれに違う味が混ざっていた。甘いような苦いような味だった。何かの薬の味であることがわかる。怜子の唇の中にそれがわずかに侵入してきた。


 急に心臓が激しく脈打ち始めた。頭に血が上っている感覚がある。体中の神経が緊張していく。

 遠い記憶がよみがえってくる。

 この味は味わったことがある。甘くそして少し苦いような味。アフターピルの味だった。

 遠い記憶が暗い心の底から蘇ってくる。なぜか思い出せなかった日本にいた頃の記憶だった。それがアフターピルの味とともに思い出されてきた。

 何度も激しい吐き気を感じて、薬を戻したことがある。医者が自分に「薬を吐いてしまったから、もう一度飲んで。」と言っている響きが、耳の中に蘇ってくる。

 あの頃、自分はまだ子供だった。

 そして子供にとっては、激しすぎる恐怖。体中に感じたおぞましい感覚。あの時、男たちが自分の体に何かしていた。それも一回だけではない。何度も繰り返し。

 男たちの息遣いがよみがえってくる。肌に息を吹き付けられるその感覚が。


 それは遠い日本にいた頃の感覚だった。


「どうかしましたか。」


 医師は玲子の顔を覗き込んだ。そして慌てたようにフェアリーから引き離した。そのまま椅子に腰を下ろさせる。


「どうしたの玲子。大丈夫。」


 マライカの言葉が遠く聞こえた。

 その時、自分は真っ青になり体中の力が抜けて、身体を医師に支えられていたのだろう。何を言われているのか解らなかった。耳の中で激しい音がする。何も聞こえない。

 恐怖とおぞましさ。それがアフターピルの味とともに蘇って来た。どうしても思い出せなかった遠い記憶が、閉ざされた心の部屋から解き放たれたのだった。


「こちらへ、血圧を測ります。」


 医師がそう言っているのがかすかに聞こえた。

 かろうじて頷いている自分を感じていた。そして病室の外に出た。「診察室に行きましょう。」

そう言っている医師の声が遠く聞こえていた。

 フェアリーと玲子の二人。それが同じ時間に、恐怖とおぞましい感覚を共に感じていたのだった。

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