第30話 姉からの電話は突然に

国営テレビ局を出るとすでに日は落ちていた。この時期のロンバルドでは、日没は午後8時を過ぎていることになる。

エレーヌ・シャルロはこう言ったものだ。


「ジーラは思ったより手ごわいわね。今日は判定負けかも。」


「そうは思いません。今日の討論を見たロンバルド国民も、愛国者党の極端な主張を聞いて、冷静になる人もいるはずです。

 私はそこまでロンバルドの人たちが愚かだとは思えません。」


 エレーヌは首をすくめただけだった。

 自分は地下鉄で帰宅するからと言い残して、エレーヌは歩いて国営テレビ局を後にした。

 怜子はいつも乗っている自分のミニバンに乗り込んだ。それから思い出してバックの中からスマホを取り出した。この瞬間まで連絡をチェックすることすら忘れていた。

 メールがいくつかとマライカからの電話が3本入っていた。

 マライカの電話やメールはいつもどうでもいいことばかりだ。マライカの対応は後にして、仕事で来ているメールにいくつか返信を入れる。

 そのうち、テレビを見たジュリアからメールが入り、そのほか玲子の会社や個人的な知り合いからも、「今日の放送、見たよ。」と連絡が入り始める。

 急な返信が必要なメールだけ返信していたが、それでもかなりの量になった。

 マライカへの連絡が出来るようになったのは、玲子が車に乗り込んでから小一時間経ってからだった。

 数回のコールの後、マライカの聞きなれた声がした。


「今電話いい? ごめんなさい、すぐに返事できなくて。

 今日のテレビ見てくれた?」


「うん、…でもそれどころじゃないの。

 今、警察に向かってるの。」


「警察?」


「フェアリーに何かあったらしいの。」


「フェアリー?」


 嫌な胸騒ぎがした。


「どうしたの?」


「よくわからないの。

 あなたがテレビに出る1時間くらい前に学校から電話があって。ほら、あなたの母校。…何てったっけ。そうそうサン・フランチェスコ女学院。

 で、とにかくフェアリーが警察にいるからって。」


「どうして警察にいるの?」


「それで、私警察に電話したのよ。そしたらむこうが『どこの警察にご連絡ですか?』とか言い始めて。」


 相変わらずマライカの話は要領を得ない。何を言ってるのかさっぱりわからない。


「それでね私、『こっちこそ聞きたいわよ。うちのフェアリーはどこの警察にいるのよ。』って言ったの。」


「で、結局どこにいるのよ。フェアリーは。」


「病院よ。」


「病院? 警察じゃないの?」


「ん、だから警察じゃなくて病院になっちゃったわけ。」


「あなた警察に向かってるんじゃないの。」


 怜子は苛立っていた。もっともマライカはいつもこうなのだが。


「だから、警察と病院のどっちにも向かってるわけ。」


「いいわ。とにかくフェアリーの居場所を教えて。今、この時どこにいるのか。」


 マライカは新市街の近くにある病院の名前を言った。玲子はそれを復唱するように運転手に告げた。

 車は急ターンして方向を変えた。

 急な方向転換の遠心力で、怜子はドアに体を打ち付けるようになったので、態勢を直す間電話の会話が途切れた。

 その間もマライカは離し続ける。


「つまり、警察に病院に連れて行ってもらってるわけよ。フェアリーは。

 サン・フランチェスコ女学院の先生の話だと、フェアリーは学校の外で何かされたらしいの。それで警察が出てきたわけ。」


「警察が出てきたとしても、とにかくフェアリーは被害者なわけね。」


 少しほっとした気分もある。あるいはフェアリーが犯罪者になってしまうような事件かと、心配しないでもなかったのだ。

 とはいうもののフェアリーは小学生なのだ。加害者になるような年齢でもない。ちょっと考えすぎだったかもしれない。


「うん。被害者みたい。」


「何の被害者なの。」


「それが…。学校の外で誰かに襲われたらしいの。」


「襲われた。どういうこと。」


「…だから。」


「意味がわからないわ。襲われたって。犯罪者に何かされたわけなの。」


「解るでしょ。襲われたのよ、男の連中に。」


 もうそれ以上聞く必要はなかった。フェアリーの身の上に何らかの性犯罪が行われ、フェアリーはその被害者になってしまっているのだ。

 頭の中がぐるぐると回った。今の自分はマライカと同じようなものだと思っていた。

 車窓から見える車のヘッドライトの光が眩しい。

 どうしてヘッドライトとはこんなにも眩しいものなのだろう。見ているだけで苛立ってくる。


「サン・フランチェスコ女学院の先生の話だと、学校を出たか、出る寸前のタイミングでフェアリーに何かあったらしいの。それで警察が出てくることになって。 

 …ねえ、聞いてる?」


 怜子はかろうじて「うん」とだけ答えた。自分でも声が小さいことがわかった。マライカに聞こえたかどうか心配になる。


「よかった。

 でね。警察と学校とでフェアリーを病院に連れてってね。」


 マライカは泣き声になっていた。


「もう言えないわよ。こんな話。あとは玲子が病院で警察の人に直接聞いてちょうだい。」


「ごめんなさいマライカ。あなたも病院に向かってるのよね。」


「うん。」


「冷静になって。落ち着くのよ。でないとフェアリーも不安になるわ。」


 怜子はようやくその程度の言葉が吐けるほどには冷静さを取り戻していた。

「そうよね。姉の私たちが冷静にならないとね。」


「病院で会いましょう。警察の人もいるだろうし、そこで詳しい話は直接聞くわ。」 


 怜子は電話を切った。

 頭の中で音楽がぐるぐると演奏を続けた。何かで精神が昂っている時、いつもそうなる。

 とにかく落ち着かなければ。そう自分に言い聞かせた。

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