第25話 全てのことはもっとゆっくり考えていい。

遺跡では、オペラセットの組み立てが順調に進んでいた。

 開演は6月下旬ということで調整済みだった。

 この時期より遅くなると、真夏になってしまい、ヨーロッパでも緯度の低いロンバルドは暑くて、野外オペラどころではなくなる。

 さらに6月初旬に行われると予想されている議会総選挙の喧騒を、やり過ごしたタイミングで実施したほうが良いとの判断もあった。

 遺跡では、トレーラーが資材を運び込み、数台のクレーンがそれを持ち上げて組み立てているのが、毎日見られるようになっていた。

 おおむね舞台の形が姿を現してきた頃、クリストフ・ハイダーがまたやってきた。

今度は舞台の組み上げではなく、舞台そのものをセットするためだった。


「新エグモント?」


 上演するオペラの演目を聞いたとき、クリストフがそう答えたので、怜子は思わず聞き返したものだった。


「そうだ、ベートーヴェンのエグモントを現代風に脚色した。内容も少し変えてある。」


「あれってオペラだったかしら。」


「厳密に言うと、音楽付きの劇だ。オペラではない。

 だけど、今までのオペラをただ上演するだけで、劇の雰囲気とパラッツォ見物を目的にしたいのなら、他の歌劇団に頼めばいい。

 私はオリジナリティを大切にしたい。」


「いいわ。賛成よ。」


 遺跡を並んで歩きながら、怜子はクリストフにそう同意した。


「エグモントの名は、劇よりもむしろベートーヴェンの曲として知られている。

新エグモントは、そのベートーヴェン作曲の元の劇のテイストを生かしながら、現代風に解釈したものだ。

 登場人物などもかなり変えている。そのほうが自由な演出ができる。」


「新エグモントはどこかで上演したことあるの。」


「無い。ここでやるのが初めてだ。だからこそやりがいもあるんだ。」


 遺跡は晴れていて、工事は順調に進んでいた。

 怜子はマスコミにこの企画のアナウンスを十分にしてあったので、チケットの売れ行きも順調だった。


「劇の練習は、パリでスタジオを借りてやっている。

 怜子も一度見に来るといい。」


「うん。」


 怜子とクリストフの会話は、以前よりもくだけた口調になっていた。


「それよりそっちのほうの準備は。」


「チケットはもう発売されているわ。

 売れ行きは順調。2回公演とも完売よ。ロンバルド国内でも話題になっていて、発売されたチケットにはプレミアムがついて、ネットで転売されてるくらい。」


 クリストフは玲子の言葉に満足げである。


「まあ、ネットで転売は嬉しくは無いが、今の時代

は仕方が無いのかもな。ただ、話題になっているのは嬉しい。こちらもやりがいがあるよ。」


 2人は歩きながら、すでに遺跡の埋められていない箇所の前まで来ていた。


 この部分の遺跡は、発掘されたまま保存されることが決まっていた。

 調査にあたった考古学者によると、これはローマ時代の小規模な集落で、現在は歴史の記録にも残っていない。ここはあまりにも小規模な集落だったのだろう。

 しかし、この小規模な集落にも列柱を持つローマ神殿があり、その跡が発掘されていた。

 この程度の規模の村に立派な神殿があっることは珍しく、あるいはただの寒村ではなく、当時は特別な意味を持つ村であったのかもしれない。

 考古学者はそう考えて、村の中心部だと思われるこの場所は、埋め戻さないで、発掘されたまま保存することを主張した。

 ロンバルド文化観光省もそれを主張し、リド家としても異論はなかったので、ここは保存されることが決まった。

 それだけではなく、列柱の一部は復元され、その4本が立て直されて並んでいた。

 野外劇場は、この列柱を背景にする形でセットされていたのだ。


「いい遺跡だ。」


 クリストフは列柱を見上げながら言った。


「遺跡なんかどこにでもあるが、いつどこで見てもいいものだ。」


「もっと大きくて立派な遺跡は、ヨーロッパにはいくらでもあるわ。」


「そうだ。どこにでもいくらでもある、それが嬉しい。


 いつも私は遺跡を見て思うんだ。

 ここに生活の場があった。どんな人たちが暮らしていたのか。でもきっと、今の私たちとそう変わらない生活をしていたに違いないとね。

 今の私たちは同じように、喜んだり、悲しんだり、何かを食べたり、どこかへ行ったり、エンタテイメントを楽しんだり。

 きっとそうしていた、皆普通の人たちだったんだ。

 だが、今とまるで違うこともあったはずだ。今のような飛行機も、スマホもネットも無かった時代なのだ。


 その人たちは、どんなことを考えていたのか。

 いや、私が言っているのは、思想だとか哲学のような難しいことを言っているのではないんだ。かつての人々は、そう、たとえばもっとゆっくりと物事を考えていたんじゃないか。


 今日のことは今日済ませる。スピーディに解決する。そんな考え方をする人は現代には少なくない。でも、当時はそんなことを考える人は頭がおかしいと思われていたのではないか。かつての時代は、もっとゆっくりと時間が経っていた。

 どんな深刻な問題でも、今答えを出す必要はない。もっとゆっくり考えていい。急ぐ必要はない。そうすれば時間が答えのヒントを与えてくれる。

そんなふうに考えていたのかもしれない。」 


 クリストフは言葉を切った。


「いや、つまらないことをベラベラと喋ってしまったな。」


「いえ、でもいい言葉だと思うわ。もっとゆっくりと考えていい。そうすれば時間が答えのヒントを与えてくれる、って。」


 怜子はクリストフの横顔を見つめていた。

 そうだ。全てのことをもっとゆっくり考えていい。ここヨーロッパでは何千年も前から、そうしていたのだと考えながら。

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