第18話 パラッツォ本館にてクリストフは
続いて、怜子はクリストフたちをパラッツォ本館に案内した。
ベアトリーチェは私用があるからと、同行は辞した。あるいはクリストフと親し気にしているのを気にしている玲子に、気遣いの出来る彼女はそうすべきと思ったのかもしれない。
パラッツォの中を、怜子の車が先導しクリストフとスタッフを乗せたミニバンがその後に続く。一直線の道路の先、背の高い森に挟まれた四角い空間に、パラッツォ本館の正面玄関が見えてきた。
19世紀に作られたとはいえ、その意匠はヨーロッパゴチックの伝統に則っている。
前王朝の君主は、これをベルサイユ宮殿を真似て作らせたとも言われ、両翼300メートルに及ぶ一直線の建物は、明るい黒とゴールドに輝いていた。
正面玄関で車を降りた。
クリストフはしばらく無言のままでラッツォ本館を見上げた後つぶやいた。
「すごいな。これはヨーロッパでも屈指の大宮殿だ。」
「ありがとう。」
スタッフの一人が続ける。
「それにしても、普通ならこの規模の宮殿は公共のものとなり、一般公開もされているのが普通だ。それがここロンバルドでは個人の所有物になっている。
…なんと言えばいいか、いかにもロンバルドだな。」
怜子は正面階段を昇るように手でさし示した。
怜子の後についてクリストフとスタッフも続く。クリストフは無意識にか上着のボタンを留めた。ここパラッツォ本館にはフォーマルを要求されるような雰囲気が確かにあった。
玄関を入って、巨大なシャンデリアが釣り下がったホール。車がすれ違えそうな2つ折り階段のある階段の間。そして広大な大広間へと一同は歩いた。
それぞれの部屋に入るたびに、クリストフとスタッフは歓声をあげ、驚嘆した様子をみせる。
大広間の片隅に置かれた、大きな液晶スクリーンを見てクリストフは苦笑する。
「これはなんといえばいいのか、21世紀的と言うべきかな。」
「ここはパラッツォ社のイベントなどで使っているの。だから仕方ないの。現代的な装置もおかないと使い勝手が悪いし。」
怜子はなんということも無くリモコンを操作して、液晶パネルのスイッチを入れた。
縦1メートル、横幅2メートルほどのパネルはすぐに電源がはいり、メニュー表示になった。特に理由があるわけではなかったが、怜子はインターネットのアイコンをクリックした。
クリストフはそれを見ないで天井を見上げている。
「すごいシャンデリアだな。…ひとつ、ふたつ、10個もある。
値段がどうこう言うよりも、現代ではとても手に入らない代物だ。」
「ドイツにもあるでしょ。こういう宮殿。」
「まったく無いよ。ま、しいていえばヴュルツブルクのレジデンスかな。オーストリアまで含めるとウィーンにはあるけどね。
だがオーストリアをドイツに含めると、あの国の連中は怒るからな。」
クリストフはそう言って苦笑いの表情を浮かべた。
液晶画面の表示はインターネトニュースになっていた。それに目をやって思わず玲子はそれを見入った。ニュース項目のひとつに例の連続レイプ事件が上がっていた。
タイトルには「連続レイプ犯、容疑が固まり逮捕に。警察は余罪を追及している。容疑者ラシードはパラッツォモータースの日雇い工員だった。パラッツォ本社はコメントを発表。」
「例の事件だな。 朝ホテルで見たニュースでもやっていたよ。
パラッツォという会社も大変なんだな。」
クリストフが横に立っていた。
ちょっと貸してくれと言って、クリストフはリモコンを玲子から取り上げた。そしてニュース画面をスクロールした。
ニュースの記事の下には、ネットユーザーのコメントが書かれている。
「ラシード。アラブ人か。」
「外国人労働者がどういう連中なのか、これではっきりしたよな。」
「政府は外国人の流入に対して規制を加えるかな。とにかくこの事件で腰を上げざるをえないだろう。」
さまざまなコメントがあり、怜子とクリストフはそれをスクロールしながら見ていた。
もっとも内容については、ほとんど予想どおりで目新しいものは無い。しかし少し下げたところでこのコメントを見つけて、玲子はぎょっとした。
「パラッツォ社はこういう連中を使って利益を上げ、リド家は財産を増やしている。」
驚いたものの、このコメントも予想通りとは言えた。
「リド家に攻撃の矛先が向かい始めたか。怜子も忙しくなる。」
クリストフは独り言のように言ったが、怜子はどう返事をしたらいいのかわからなかった。
「監督、ちっと来てくれ。」
向こうで立ち話をしていたスタッフに呼ばれて、クリストフは玲子の横を離れた。怜子はリモコンを操作して液晶画面を消そうとした。
その時、新しいニュースがアップされているのが見えた。
「ロンバルド愛国者党、今回の事件に関して声明を発表。外国人労働者の全面規制の公約にはいささかも陰りがない、と。」
政治課題になりつつあった。
いや、これも予想の範囲内なのかもしれない。この事件を極右政党が取り上げ、利用しようとしないとは思っていなかった。
怜子は立ちすくんでいた。
「玲子。」
クリストフの声がした。
「オペラの話、いいかな。」
「ええ、ちょっと待って。」
この時期にオペラの案件があるのは嬉しかった。もちろんそれで忙しくはなっている。ただ非常に面倒なことから意識をそらしてくれる。それがオペラだった。
怜子は自分の中の空想の灯りに火をつけた。これからパラッツォで演じられるオペラの素晴らしさに意識を向けていた。
気分が明るくなるのを感じていた。
それからしばらく打ち合わせを続けてから、クリストフたちはパラッツォを辞した。
「一旦、ロンドンに帰る。開演までに何回かここを訪れさせてもらうよ。」
クリストフはそう告げて、車に乗り込んだ。怜子は嬉しくそれを聞いていた。
クリストフたちを送るミニバンがパラッツォ本館の正面道路を走り去るのを見送ってから、怜子はふり向いた。
バトラーの一人が立っていた。
誰だったかすぐに思い出せない。…いや、エルベルト夫婦の家に勤めているバトラーだとわかった。
「玲子さま。オペラは上手くいきそうですね。」
「ええ、これだけは順調よ。」
バトラーは何か話したがっているのを、怜子は敏感に感じ取っていた。
「ここで出来る話?」
「いえ、人に聞かれない場所がよろしいです。」
怜子とバトラーは並んで玄関の階段を下りた。広い車寄せを並んで歩く。
バトラーは困ったような表情をしていた。怜子は言葉ではなく表情で、バトラーに促した。
「ええ…、実はベアトリーチェ様のことでございます。」
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