第19話 ロンバルド王宮の王女
旧市街に来るのは2カ月ぶりだった。
ベアトリーチェは結婚してからも、それなりに実家に帰宅していた。もっとも実家とはロンバタックス旧市街にあるレーフクヴィスト王宮である。
レーフクヴィスト宮殿は旧市街のほぼ中心にある。
かなり小ぶりの宮殿で、観光客たちはこの小さなロンバルド王室の宮殿に驚くのが通例であった。なにしろ、もともとの広壮な王宮はパラッツォとしてリド家の所有になっているのだ。
第二次大戦後やってきたレーフクヴィスト家は、それまで旧市街の離宮として使われていた現在の宮殿を王城としたのであった。
ベアトリーチェは今日は自分で車を運転して来ていた。
このような私的な訪問の時は、ベアトリーチェは裏の通用口から車を乗り入れる。通用口には表門と同じ制服を着た近衛兵がいて、ベアトリーチェを見るとほとんど身分証明書も見ないで、そのまま中に入れた。
車を地下駐車場に入れる。この宮殿は外観や内装をそのままにして、かなり改築されていて、その際、この地下駐車場も作られた。プライベートな訪問の時は、いつもこのように車を自分でここに乗り入れる。
外に出て、エレベーターで1階に上がった。
ドアが開くと、侍従の一人がいた。
「ベアトリーチェ様。国王陛下がお待ちです。」
特に慇懃な態度をとりはしない。このようなプライベートな訪問の時は、侍従もざっくばらんな態度をとる。
いくら小ぶりとは言ってもこの宮殿は50以上の部屋がある。いくつも廊下を曲がり、階段を上がってベアトリーチェと侍従は歩いた。
迷うことは無い。子供の頃から住み慣れた場所だった。
王室一族が私的な生活の場としているのは、宮殿の右奥、2階と3階の部分だった。
侍従は廊下の突き当りにあるドアのセキュリティキーを操作し、ドアを開いた。
ベアトリーチェは続いて中にはいった。
ふっと香りがした。懐かしい香りだった。
幼いころからいつも嗅いでいた香り。古い木材や繊維がかもしだす、いつ嗅いでも心が安らぐ匂いである。
「ベアトリーチェ。」
そしてさらに心が安らく声がした。
父の声だった。
アルフォンス・フォン・レーフクヴィスト一世。このロンバルド王国の国王である。ヨーロッパでももう少数派となっている君主制国家、ロンバルドの国家元首となっていた。
第二次大戦直後、レーフクヴィスト家がこの国の君主になってから、父で二代目になる。子供は長男の皇太子をはじめ、7人いて、ベアトリーチェはその末娘ということになるのだ。
威厳に満ちた軍服姿の肖像写真で国民に知られるアルフォンス一世も、ベアトリーチェや家族たちの前ではくだけた姿を見せる。
この日も白いシャツにコットンのパンツを履いている。
「お父様。」
ベアトリーチェはいつものように、両手でスカートを持ち上げ腰をかがめるプリンセスらしい挨拶をした。
父は意外に作法に厳しい。自分がラフな格好をしていても、子供たちには王族としての礼儀作法を厳しく教え込んできた。
「お母様は?」
「さっきまでキッチンにいたんだがな。呼んでこよう。」
ここで侍従は退席した。
王室のプライベート空間は十分に狭く、掃除なども外からハウスキーパーなどを入れないで、母の王妃が自分でやっているのである。
父はそのまま奥に引っ込んで、しばらくすると太った女性とともに現れた。
ベアトリーチェは喜色をいっぱいに表情に表して、この女性に抱き着いてキスをした。母のエレン王妃であったからだ
。
「ベアトリーチェ、元気そうでよかったわ。今、ピザを焼いていたの。すぐ出来るわ。ちょっと待っていてね。」
「ええ、私も手伝うわ。」
ベアトリーチェはそう言って、自室だった部屋に行って、シャツとジーンズに着替えて出てきた。
もっともその頃にはピザは焼きあがっていて、ベアトリーチェはそれをオーブンから出して皿に盛ることくらいしかできなかった。
3人はそのままキッチンでテーブルを囲んで、ピザを食べた。
キッチンの窓の外は天気が良く、あまり大きくない窓からも、地中海沿岸地域の明るい陽射しが差し込んできた。
父と母はワインも飲んだ。ベアトリーチェは車を運転するのでワインは飲まず、ミネラルウォーターだけにした。
「残念ね。ロンバルドは悪いところもあるけど、とにかくワインだけは世界一よ。フランスやイタリアのものにも負けてないわ。」
「次は誰かに送ってもらえばいい。」
「そうね。…あの、誰だったかしら、日本人の養女。」
「玲子よ。怜子・リド。」
会話はひとしきりリド家の最近の出来事について、交わされた。
「幸せなのね。ベアトリーチェ。」
「うん。」
ベアトリーチェはそれだけ答えた。
父と母は顔を見合わせた。
「ベアトリーチェ、お前が幸せかと聞いて、そうだと返事をしてくれるのは何よりだ。
リド家は今やこのロンバルドの経済的支配者と言っていい。象徴的な君主であるレーフクヴィスト家とリド家が、お前の結婚によってつながりを保っている。
これはロンバルド王国のためでもあるのだ。」
「…うん。」
「そうよ。そんな小難しいことではなく、あなたが幸せなのが私の一番の喜びなのよ。」
母もそう続けた。
ベアトリーチェは何も言わずピザを口に運んでいた。
何か両親は感づいているのかもしれない。その思いがある。
「リド家がロンバルドの経済の支配者なんて言い過ぎよ。リド家はビジネスマンの家で、パラッツォ・ホールディングスの事業に成功しているだけの、成り上がりよ。
現にエルベルトも玲子もそう言っているもの。」
いささかきついともとれる言い方だったが、父と母もそのリド家に嫁いだ娘らしいストレートな言い回しだと解釈したようだった。
「だが、この国で最も力をもっている一族だ。ヨーロッパでも屈指の勢力を持つ財閥であることも間違いない。
そしてレーフクヴィスト王室は、いくら国家元首と言っても象徴的な君主であることも、違いないことだからな。」
アルフォンス・フォン・レーフクヴィスト一世はそこで姿勢を直した。
「だがベアトリーチェ。
お前には忘れて欲しくない。お前はまぎれもないレーフクヴィスト王室の王女なのだ。その誇りを忘れるんじゃない。
君主制はヨーロッパの誇る文化だ。音楽、絵画、建築、オペラ、すべてのヨーロッパの文化の成り立ちに、それぞれの時代の君主が大きな役割を果たしてきた。まさにヨーロッパ文化の核となっているのが、君主制なのだ。
このロンバルドも君主制が無ければどうだ。ワインの味とただの古い建物が並ぶだけの観光地になってしまうだろう。
ロンバルドそしてヨーロッパの奥深い伝統と文化を担っているのが、私たち王室なのだ。」
王妃である母もその言葉に頷いていた。
「王女の誇りを忘れるんじゃないぞ。ベアトリーチェ。」
ベアトリーチェは娘時代と同じように、父と母の言葉に「わかりました。」と素直に答えていた。
だが心の中では、なぜ父はこのような話を急に始めたのかと考えていた。
あるいはあの事に気付いているのではないかと。
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