第4話 王女ベアトリーチェ
怜子の赤い車はパラッツォの中を走っていた。今日は自らハンドルを握っている。
怜子の運転しているパラッツォGTロードスターはパラッツォ・ホールディングス傘下の自動車メーカー、パラッツォモータースの看板とも言っていい車である。
ハードトップクーペモデルと、屋根がオープンになるロードスターモデルとがある。フロントのエンジンルームには6000CC12気筒のエンジンが収められ、自然吸気で500馬力のパワーを楽々と叩き出す。そのパワーは後輪に伝えられ、この真っ赤なロードスターを軽々とパラッツォ邸内の私道を疾走させる。
怜子はスピードを調整しながら走っていた。
邸内はすべて私有地なのでいくらスピードを出しても警察に止められることは無い。なのでやたらとスピードを出す者がいて事故がよく起きる。エルベルトも過去2台の自分の車を台無しにしていたし、ここの使用人たちが正面衝突した時は、あわや死亡事故になる寸前だった。
それでもスピードは思わず出してしまう。
パラッツォ内部の道路はほとんど直線で、見通しがいい。一直線の道路をゆっくり走るのは難しいと、怜子は思ってしまう。さらにその道路はほとんど十字交差している。深い森の中にあっても、パラッツォは人工的に作り上げられた邸宅なので、道路は碁盤の目状に走っている。
このあたりの道路の両側はほとんど森で、交差している道路を隠している。交差点での事故が起こりやすかった。
ここに怜子が来たのは11歳の時だった。日本の児童養護施設から養女として引き取られて来たのだった。
その当時は、ロンバルト語も全くといっていいほど話せなかった。当時はマライカはまだ養女になっておらず、幼いフェアリーが先に養女としてやってきていた。このようにリド家の3姉妹は年齢の低い妹たちから、このパラッツォにやってきたのである。
当時は養父のマッシミリアーノ・リドも健在で、このパラッツォを自宅として買い取ってから1年ほどといった時期だった。
あまりの広さに、怜子は最初ここが個人の家だと理解できなかった。森の中にあるほかの建物は「隣の家」だと思っていたほどだった。
その後、しばらくしてここはひとつの邸宅で、養父のマッシミリアーノが所有していることを理解できるようになる。
パラッツォが広大なのも当然で、ほんの数十年前まで、ここはロンバルト王室の宮殿であり、第二次大戦後の国王の退位と、その後の王室資産処理の結果、いくつかの民間人や企業の手をへて、養父のマッシミリアーノ・リドの手にわたったことも、その時、この屋敷のバトラーに聞かされたのであった。
ロンバルト王室は、国王の退位こそあったものの、同じヨーロッパ内の血縁のあった別の王室から新国王を迎えて、今に至っている。
これが現在のロンバルド王朝、レーフクヴィスト家である。このようにロンバルトはヨーロッパでも数少なくなってきた、現在も君主制を守っている国なのである。
ただし、その立場は象徴的なものにとどまり、政治への関与は全くない。ロンバルト国防軍の最高司令官という名誉職が、主な職務になっている。
さらに資産も限定的なもので、国王退位の際に巨額にのぼった王室資産は処分され、その王城であったこのパラッツォも、今は民間人のリド家の所有になっていた。
そんなことを思い出しながら、怜子はロードスターを走らせていた。
しばらくすると左手の森が無くなり、広く開けてきた。
「遺跡」だった。
このパラッツォの中にはローマ時代の遺跡がある。
王宮だった頃、いやそれよりはるか以前からそれは知られていたが、考古学的な調査が行われ、その姿を現したのは第二次世界大戦後のことになる。
ここがその遺跡だった。リド家の人々はここを単に「遺跡」とだけ呼んでいる。
遺跡は300メートル四方にわたって広がっている。そこだけ森が無くなり空き地になっているが、知らない人が見たら何かの工事現場のように感じるかもしれない。
事実、道路と遺跡の境界には何もなく、三角ポットがいくつか置かれているだけで、その向こうには土がむき出しになった場所がある。至るところ掘り返されているが、掘り出されてそこかしこにある石造りの構造物が、ここが遺跡であることを主張しているようでもある。
道路から反対側には、もはや工事現場としか言いようがないプレハブの建物がある。発掘調査の際に、作業員の休憩小屋として作られたものが、そのまま残っているのである。
怜子はその遺跡に人影を認めた。
女性だった。
白いロープのような衣装をまとったその姿は、まるで遺跡の中からローマの女神がよみがえり、そこに佇んでいるように見えた。
一瞬ぎょっとしたが、怜子はすぐにその人影が誰なのかをわかって、ロードスターを道端に止めた。
車を降りて、怜子はその人影に声をかけた。
「ベアトリーチェ!」
遺跡は広すぎて、しかもその女性はかなり遺跡の奥にいたせいか、一回声をかけただけでは、気づくことがない。怜子は遺跡の中に入って歩み寄った。
かなり大きな声を繰り返し出して、ようやくベアトリーチェと呼ばれたその女性は、怜子のほうを向いた。
こちらを向いたベアトリーチェを見て、怜子は思わず足をとめた。
それはさながら遺跡にたたずむ美の女神だった。ふわりとした長いワンピースを着ていたが、それがローマ時代の女性の衣装のように見える。まさにローマの女神がこの遺跡の中に蘇った。そう錯覚させるほど、ベアトリーチェは美しかった。
ベアトリーチェは微笑んで怜子のほうに歩きはじめた。薄い金髪が風になびいて、その歩く姿すらきわだたせる。
遺跡は広すぎて、すぐには怜子のそばには来れなかった。
「おはよう。…いえ、今の時間ならこんにちは、かな。」
「ここで何してるの。ベアトリーチェ。」
「うん、来てみたかっただけ。ここをゆっくり見たこと無かったし。」
「今、エルベルトと会ってきたところなの。仕事の話だけど。」
ベアトリーチェは何も答えず微笑んだ。もっとも彼女の夫とは、今朝も自宅で一緒だったのだから、特に反応が無いのも当然かもしれない。
ベアトリーチェはあたりを見ながらつづけた。
「遺跡ってこんなに広かったのね。エルベルトと結婚してからずっとパラッツォに住んでるけど、遺跡に来たのは初めてね。」
「ここが王宮だった頃には、ベアトリーチェもまだ生まれてなかったものね。」
「そう、父もまだ生まれてなかったと思うわ。
祖父が即位すると同時に、パラッツォは政府によって売却されたから、王室の者は私も含めて、パラッツォには縁がないわけね。」
「でも、その王室から王女であったあなたが、リド家の当主エルベルトと結婚して、このパラッツォに住むようになった。これはきっといい事なのよ。ベアトリーチェ。」
ベアトリーチェは何も言わず微笑んだ。
ロンバルト人はラテン系で、感情を率直に表に出す人が多い。そのロンバルト人でありながら、ベアトリーチェは口数が少なく、表情もあまり露わになることはない。
もともと現王室の人たちは、北ヨーロッパの王室から招かれてきた。生粋のロンバルド人ではないのである。それが理由かもしれないと、怜子は内心思っていた。
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