第3話 財閥当主 それはエルベルト

 翌朝、怜子はエルベルトのオフィスに向かった。

 エルベルトのオフィスはこのバラッツォの中にもある。ときどきエルベルトはこの屋敷を出ないで、そこで仕事をするのである。

 パラッツォの中には、リド家が立てた新しい建物がいくつかあった。建物は、いずれもパラッツォの伝統的なたたずまいを崩さないように、森の木立より屋根を低くしているので、あまり目立たない。

 怜子は自宅の建物を出て、迎えのワンボックスカーに乗り込んだ。広大なパラッツォは移動するだけでも車が必要なのである。

 10分近く森の中を走ると、目の前に白い現代的な2階建ての建物が現れた。エルベルトがオフィスとして使っている建物である。中に入ると女性秘書が怜子を出迎えた。怜子もよく知っている秘書である。


「おはよう。エルベルトは。」


「中でテレフォンカンファレンスをしています。怜子様のおいでをお待ちしておりしたが、しばらくこちらでお願いします。」


「それより大変ね。パラッツォは遠いんでしよ。あなたの家から。」


 美しい秘書は微笑んだ。


「そりゃもう。でもボスはちゃんと外勤手当を出してくれますから。」


「しっかり稼いでね。」


 怜子はソファに腰を下ろしながら笑顔を見せた。

 この部屋は壁一面がガラス張りになっていて、外には森が広がっている。ここで座ると、まるで壁が緑色に塗られているように思える。ソファもそれ以外の調度品も、名前は忘れたがロンバルト出身でニューヨークで活躍しているデザイナーに特注したものであることは聞いていた

 オフィスに入るためドアを開いた秘書の向こうから、少しだけエルベルトの声が聞こえてきた。テレフォンカンファレンスの真っ最中のようだった。

 しばらくして別の人物が持ってきた飲み物を飲みながら、それでも30分以上待ってから、ようやくドアが開いてエルベルトが顔を出した。


「悪かったな、怜子。入ってくれ。」


 少しも悪そうな表情を見せないで、エルベルトが顎で怜子を招いた。

 中は10メートル四方ほどの広いオフィスで、黒と木目とメタリックシルバーの調度でまとめられている。インテリアデザインはエルベルトの趣味だった。

 エルベルトは椅子を怜子に指して、自分はデスクに腰を下ろした。

 現在のリド家の当主にして、パラッツォ・ホールディングス会長、このロンバルト王国とEU屈指のコングロマリットを率いる大物財界人が、怜子の目の前にいる人物だった。


「昨日の客の名簿は見た。」


 エルベルトは手元のタブレットを操作していた。来客名簿はデジタル化して、客たちがタッチするだけで出欠を確認できるようにしてあった。


「うちのグループの関係者、取引先はほとんど来てるな。あとは芸能人も。ただソベッティ首相は来なかったようだ。

 …いい気なもんだ。うちからだいぶ献金をもらってるくせに。」


「先週の連絡で、昨日は議会で来れないと言っていたわ。そう悪くとるものじゃないわよ。兄さん。」


「ニイサン…」


 エルベルトは日本語でそう繰り返した。この呼び方を気に入っている兄であった。


「それでも来てもらいたかった、首相には。そうだろう。わがリド家とパラッツォという企業の存在を考えれば当然のことだ。

  ヨーロッパ最大の自動車会社。同じくヨーロッパ最大の化学会社。さらに有数の規模の銀行。3つの企業を核にもっている。

 ヨーロッパでも一国の経済の中で、ただ一つの企業グループがこれほど大きな存在感を示している例はない。ロンバルトがパラッツォという会社を有しているのではない。わがパラッツォという企業グループがロンバルトを所有している。

そう言われることすらある。」


 エルベルトは歌うように続けた。


「このパラッツォ・ホールディングスと、そのオーナー一族であるリド家に敬意を払うのは、首相たる者の義務だ。」


「そんなことを言うから、兄さんは傲慢だと叩かれるのよ。」


「叩かれたからどうだっていうんだ。なんのダメージにもならない。パラッツォとリド家の存在はそれほどのものであるはずだ。

 さらにうちには有能な広報担当重役がいる。彼女がうまくメディアの操作をしてくれるはずだ。そうだよな、怜子。」


「私にもできることとできないことはあるわよ。」


 そのパラッツォ・ホールディングス広報担当重役の怜子は、エルベルトの言葉を遮った。


「とにかく、次に首相に面会するときは、そんな言い方は禁句ですからね。わかりましたか。パラッツォ・ホールディングス会長。」


 エルベルトは笑顔をみせて首をすくめた。


「話は変わるが、社名かこの屋敷の呼称を変えた方がいいかもしれないと、たまに思うんだ。

 このリド家の屋敷もパラッツォと呼ばれている。正式な呼び方じゃないことは誰でも知っているが、誰がそう言い始めたのかは誰も知らない。いつからなのかもわかっていない。とにかく親父がここを買う前から、そう呼ばれていたらしい。


 そしてうちの経営している会社もパラッツォだ。ヨーロッパ最大の企業グループ。パラッツォ・ホールディングス。

当の我々も混乱することもある。」


「パラッツォに住まうリド家が経営する会社のブランドがパラッツォ。わかりやすくていい呼び名じゃない。」


「まあそういう解釈もできるか。

 ところで怜子。昼飯はどうする。俺はここで食べてから、午後から会社に出向くつもりだ。来客があるのでね。」


「私は今日はここにいます。昨日のパーティの後始末もあるし。」


「そうか。なら次に怜子に会うのは明日になるかな。今日は俺も帰りが遅くなるはずだ。」


「だったら今、話しておきたいことがあるの。

 うちの従業員の問題よ。外国から来てうちで働いている人たち。特に新しく入社した難民出身の人たちについて。」


 そう言って怜子は椅子に座り直し、タブレットを操作して資料を探しはじめた。

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