第19話 隣人

 与一が目覚めると時刻はまだ六時前だった。

窓を開けると風に乗って騒がしい街の音と、煙の匂いが入ってくる。

遠くの方ではヘリコプターが空から水と消火剤を火災現場にまいているのが見えた。

ゾンビがいるために消防車が現地へ入れなくなっているのだ。

今日は自分で消火栓の位置を確かめておいたほうがいいなと与一は思った。

眼下に見える道路には人っ子一人見当たらない。

たまに自動車が通るくらいだ。

商店などどこも開いてなさそうだが生活雑貨を求めて移動しているのかもしれなかった。

マンションから二十メートルくらい離れた場所にコンビニエンスストアがあるのだが、ガラスのドアは破壊されているようだ。

道路にまで破片が飛び散っていた。

唯一の救いは道にゾンビが見当たらないことだけだった。


 与一がリビングに行くと由梨が薄暗い部屋で小さくなって座っていた。

電気もつけずテレビも消されたままだ。


「おはよう。早いんだね」

「おはよう。眠りが浅かったみたいで……」


由梨はあまり寝付けなかったのだ。

与一の家の窓は防音がきいていたが、外から洩れ入るサイレンの音が由梨を一晩中不安にさせていた。


「本当は朝ご飯の支度をしようと思ったんだけど、勝手に触るのもよくないと思って……」


遠慮をして電気もテレビもつけずに座っていたのだと与一は理解した。


「気にしなくてもいいからね。テレビも自由につけていいし、冷蔵庫の中のものも自由に飲み食いしていいから」

「うん……」


許可を出したとしても由梨は遠慮してしまいそうだ。


「コーヒーか紅茶をいれるけどどっちがいい?」

「コーヒーをお願いします」


与一がキッチンに向かうと由梨も手伝うためについてきた。

そのまま朝ごはんの準備をする。


与一は由梨にカバリア迷宮の話をするかどうかでずっと悩んでいた。

もしもこの場所が人に知られたら皆が安全な迷宮に殺到してくるかもしれない。

ましてや今は地球規模でゾンビが発生している状態だ。

人々が新天地を求めてここにやってきても何の不思議もなかった。

だがいくら安全地帯が広く、食料が豊富とはいえ、キャパシティーには限界がある。

迷宮内でゾンビへの感染が広がることだって考えなくてはならないだろう。


(たけど、塚本さんなら……)


与一は覚悟を決めて朝食を作り出した。


 三人分のサラダを作る与一を見て由梨は思わず聞いてしまう。


「芹沢君が二人分食べるの?」


だが、それなら与一の分を大盛にすればいいだけの話だ。


「実は紹介したい人がいてね。この家の隣人って感じかな」


ご近所に食事を届けるようだ、由梨はそう思った。


本日の朝食


グリーンサラダ

スクランブルエッグ

カフェオレ

トースト

バター

マーマレード


 三人分の朝食が乗ったトレーを二人がかりで運んで与一の部屋の前へとやってきた。

まさか、隣人というのは与一の部屋にいるというのか? 

そう考えて由梨はキュッと心臓が握られたような気分になる。

男の人? 

それとも女の人? 

二人はどんな関係だというの?


「あの、ここって」

「うん。俺の部屋。ちょっと汚れているけど我慢してね」


心臓の音がやけに大きく、耳の下の血管がドクドクと波打つのを由梨は感じた。


 ものすごく緊張したというのに部屋の中には誰もいなかった。

由梨は与一がどういうつもりか分からなくなる。

そんな由梨にはかまわず与一はクローゼットの扉に手をかけた。


「これから見せるものは秘密にしておいて欲しいんだ」


 開いた扉の向こうには木製のフレームが見えていた。

あれは鏡? ではない。

絵画? とも違う。

しいて言えば縦長の液晶画面のように見える。

どこか自然あふれる風景が映っていた。


「怖がらなくて大丈夫だから、スリッパのまま俺についてきてね」


与一はそう言ってフレームを跨いで画面の中へと入っていった。



「あら、やっぱりこちら側に連れてきたのね」


 目の前の外国人女性は由梨よりも少し年上のようだった。

きつい目つきをしているがかなりの美人だ。

Tシャツの襟から大きな胸元がのぞいている。

驚いたことにブラジャーをつけていないようだった。


「いろいろと説明しなければならないんだけど、まずは紹介するよ。こちらはルーチェ・イリス。カバリア迷宮を探索している冒険者の一人。こっちは塚本由梨さん、俺が前に通っていた学校の同級生ね」


驚愕のために一言も口をきけなくなっている由梨にルーチェは優しく微笑んだ。


「よろしく」

「あ、はい。よろしくお願いします」


挨拶をしたものの由梨にはいろんなことの理解が追い付いてこない。


「びっくりしたと思うけど、とにかく俺の話を聞いて」


与一は長い説明を始めた。



 ルーチェの皿だけが空っぽになり、由梨が一口も飲まなかったカフェオレがすっかり冷めきった頃、与一はようやく説明を終えた。


「――というわけだ」


与一の説明が終わっても由梨は黙りこくっていた。

話の内容は理解できるのだが、あまりのことに自分がどう反応していいのかがわからない。


 話の切れ目を狙ってルーチェが口を開く。


「で、そっちの騒動はどうなっているの?」

「多分、悪い方向に進んでいる」


朝食を作りながらテレビをつけたが、どの局も放送がなくなっていた。

インターネットもつながらなくなり完全に情報が遮断された状態だった。

電気・水道・都市ガスは生きているが、長くはもたない気がする。


「場合によっては家の扉を完全に封鎖して、こっちに移ってくるつもりだよ」

「わかった。二人がいつこっちに来てもいいように私も準備するわ」

「悪いねルーチェ」

「先に助けられたのは私よ。気にすることはないわ」


与一と由梨は部屋に戻って各部屋の窓を開けてみた。

少しでもいいから情報が欲しかったのだ。

この部屋は南東向きのいい物件だったが、最初に事件が発生した池袋は北の方角にありよく見えない。

その代わり東の新宿の方に大型のヘリコプターが何基も飛んでいるのを見ることができた。

周囲に目をやると与一たちと同じようにベランダから街を観察している人がいっぱいいた。

向かいのマンションの住人が手を振っている。

もちろん顔も知らず喋ったことなどない人だ。

世界の破綻を目前にして、都会の人間は本能を取り戻したかのように群を作ろうとしていた。


「おおーーーーい!! そちらから何か見えますかぁあああ!!?」

「新宿の方に、大型のヘリがたくさん飛んでまぁああす!!」


向かいの住人がしきりと南の方を指さしている。

何事かと思えば建物の切れ間にぞろぞろと動く蟻の集団のようなものが見えた。

与一と由梨は同時に息を飲む。

それはまさにゾンビの集団だった。


「部屋から出たらダメだぞぉおお!!」

「わかりましたぁあああ!!」


原始的な通信方法が終わってから与一はふと思った。

大声につられてゾンビがこちらにやって来るということはないよな? 

家の周りにどれくらいのゾンビがいるのかも確かめたい。


「塚本さん、ちょっと出かけてくる」


由梨は思わず与一の腕をつかんだ。

初めて触れる与一の身体だったが感動よりも恐怖が勝っている。

由梨は何も言えずに与一の顔を見つめた。


「大丈夫だよ。外に出るわけじゃない。屋上から周囲を偵察しようと思っているだけだから」


与一は笑顔を作って宥めるように由梨を落ち着かせた。



 このマンションは最上階のペントハウスにオーナーが住んでいる。

さらに上の屋上には非常階段から上がれるのだが、鉄製の扉には鍵がかけられていて普段は立ち入り禁止だった。

こんな事態だから管理人に頼めば鍵を開けてくれるだろう。

与一はそう考えて、最初にエントランス横の管理人室へ行くことにした。

出かける前に少しだけ考えて武器も携帯する。

管理人を怖がらせてしまうかもしれないが、扉の向こうが安全だとは限らないのだ。


「鍵をかけてからロックガードもしておいてね。俺以外の人が来ても開けない方がいい」

「うん。芹沢君が帰ってきたらすぐに開けられるようにここで待機しているね」


由梨の表情が真剣すぎて与一はかえって肩の力が抜けていくような気がした。


「頼りにしてるよ」


ドアスコープから廊下の様子を窺うが人気はなさそうだ。

ロックガードをしたままわずかにドアを開けてみたが誰もいない。


「行ってくるね」


与一は静かに廊下へと出た。


 エレベーターは使わずに非常階段を下りていく。

このマンションの入り口は数年前に防犯ガラスに交換されている。

完全ではないが破られる率は低い。

管理人のところに行く前に調べてみたが、ドアはきちんと施錠されていた。

先ずは一安心だ。

続いて与一はエントランス横にある管理人室へと向かった。


「吉田さん」


与一は受付の小窓から小さな声で管理人の名前を呼んだ。

吉田夫妻は与一が小学生の頃からこのマンションの管理人をしている顔なじみだった。

管理人室にも何度か遊びに行ったことがある。

与一の母が亡くなった時など本当に親身になって心配してくれた人たちだった。

 返事がないのでチャイムを押してみる。

室内からチャイムの鳴る音が聞こえてくるのだが、やはり応答はなかった。

ひょっとすると既にゾンビに……。

与一は手にした蜻蛉切をぎゅっとつかんだ。


「与一君!」


後ろから突然声をかけられて与一は飛び上がるほど驚いた。

振り返ると人のよさそうな顔を痛々し気に歪めた吉田夫妻の姿があった。

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