第20話 呪われた夜
真っ白な髪をした奥さんが与一の手を取り、涙ながらに話し出す。
「与一ちゃん、良かった。ちゃんと帰って来られたのね」
「はい。昨日の内に戻ってきました」
管理人の吉田も嬉しそうだった。
「よかったよ。交通機関は麻痺しているし、あちらこちらで道が封鎖されていて住民のほとんどが戻ってきていないんだ。さっき与一君の部屋のチャイムも押したんだけど返事が無かったから心配していたんだよ」
吉田は与一たちがカバリア迷宮に行っている間に来たようだ。
このマンションは二十八戸が分譲され、全ての部屋は埋まっている。
だが、吉田の話ではマンションに残っている人は与一を含めて八人しかいないそうだ。由梨をいれれば全部で九人になる。
しかも吉田と与一を除くと他は女性である。
仕事がある人はそうそう職場からは離れられないし、子どもなら学校で避難誘導がなされる。
そんな事情で住民はいずれも帰宅していなかった。
事態が悪化する前に徒歩で戻ってこられた与一たちは運が良かったのだろう。
「それはともかく、さっき警察の人が来たんだ。午後からこの辺りのゾンビを駆逐するから決して外には出ないようにだって」
「駆逐」つまり、国はゾンビを人間とは認めない方針を取ったわけだ。
「わかりました。ところで屋上から周囲の様子を見たいんで鍵を貸してもらえませんか。建物の周りにゾンビがいないかどうかも確かめたいし」
「ああ、そういうことか。だったら私も一緒に行こう」
吉田はいったん戻って鍵束を持って引き返してきた。
そしてエレベーターに乗り込む。
与一も一瞬ためらったが一緒に乗り込んだ。
「吉田さん、このマンション内にゾンビはいないんですね」
「たぶん大丈夫だ。警察からの連絡を伝えるために全ての部屋を回ったからね。部屋の中までは分からないけど通路にはいなかったよ」
与一も七階から下の階段は確認している。
確認していないのは七階から八階までの階段だけだ。
八階が最上階になる。
八階のフロアに来るのは始めてだった。
この階にはオーナーの部屋しかないので普通はエレベーターでは来られない。
鍵を使って特別な操作をしなければここには上がってこられないのだ。
今回は管理人の吉田が一緒だったから来る事ができた。
フロア横の扉から非常階段へ出ると連続する打ち上げ花火のような音が聞こえてきた。
二人には何なのかわからなかったが、それは89式小銃が連射される音だった。
自衛隊と警察によるゾンビの駆逐作戦は別地域ではすでに始まっていたのだ。
屋上に設置されたソーラーパネルを避けて東側を見るとうっすらと煙があがっている。
「与一君、あれは銃声だぞ」
吉田はフェンスから身を乗り出して東のかなたを見やる。
「生存者の救助には来てくれないんですかね?」
「どうかな、杉並区だけでも五十六万人が暮らしているからね」
半数が生きていたとしても二十八万人を安全地帯へ避難させることなど不可能だ。
例え生存者がもっと少なかったとしても、相対的にゾンビの数は増えてしまう。
当面は屋内にじっと避難しておくしか出来ることはないようだ。
「吉田さんあれを見て下さい!」
環八通りをこちらに向かって進む自衛隊の車列が見えてきた。
装甲車が先頭を走っている。
「あれは朝霞駐屯地からやってきたんじゃないか?」
吉田の声は期待に弾んでいた。
結果から言えばゾンビの駆逐は失敗した。
何と言っても数が多すぎたのだ。
空気感染もするウィルスは全ての人の身体に潜んでいる。
健康ならば問題ないが、キャリアとなった人々は免疫力が著しく低下したり、普通に死亡するとゾンビになって蘇った。
風邪で倒れた人がゾンビとなりうる可能性さえ出てきてしまったのだ。
発症者数は日々増え続け、一週間後には全国で三〇〇万人を超えた。
水や電気の供給も止まり、街で補充しようとした人たちが次から次へとゾンビに襲われてその数を増やしていく。
それでもみんな餓死するよりは屋外へ出ることを選んだ。
さらに食料をめぐる人間同士の争いも頻発した。
人々は武装して争い、傷つき生命力が低下した者、死んだ者も次々とゾンビになっていってしまった。
全国のゾンビが五〇〇万人を超えた頃、日本は臨時政府をゾンビ発生が比較的少なかった北海道の千歳基地に置き、何とか防備を固めようとしていた。
話は少し遡る。
自衛隊のゾンビ駆逐作戦が失敗に終わった夜、与一の住むマンション(タウンハウス・桃井)では吉田の呼びかけで残された住人がエントランスロビーに集まっていた。
直面する危機に立ち向かうためには全員の協力が不可欠だったからだ。
このときはまだ電気の供給は止まっておらず、天井のLEDは柔らかな暖色の光で室内を照らしていた。
話し合いを呼び掛けた吉田が全員を見回した。
「金本さんが来ていないな。ちょっと呼んでくるからもう少し待っていてください」
金本は五〇代の主婦だ。
夫と二人暮らしだが、その夫はあの日、ゴルフに行ったまま帰ってきていない。
吉田がエレベーターで去り、全員は言葉少なに二人を待った。
エレベーターが五階で停止し、扉が開くと目の前に金本が立っていた。
「ああよかった。お見えにならないので迎えに来たんですよ」
吉田は金本に声をかけながら一階のボタンを押す。
「……」
金本は吉田をじっと見つめる。
そして、おもむろにエレベーターに乗り込んで吉田に襲い掛かった。
完全に不意を突かれた吉田は首を齧られた。
ゾンビの力は生前よりも強くなる。
人間の筋肉は脳にあるリミッター機能が働いており、普段はその力を100%出し切ることはない。
身体を守るための防御機能の一種だ。
だがゾンビとなるとこの機能が働かなくなり、見た目以上の力を発揮できるのだ。
小柄な金本が吉田を床に押さえつけて肩の肉を再び噛み切る。
吉田は絶叫するが金本を跳ねのける力は出なかった。
そして、エレベーターの扉は閉まった。
表示パネルに下向きの矢印が示された。
どうやら吉田が戻ってくるらしい。
今後のことを話し合う大事な会議なので与一は由梨を同行させた。
この先どうなるかはわからなかったがしばらくは一緒にいることになるだろう。
皆に紹介しておくにはいい機会だと思った。
もっとも、この場にいる半分は与一も初めて会う人だ。
管理組合の会議などに出ない限り、都会のマンションの住人などほとんど顔を合わせることなどない。
軽い電子音が響きエレベーターが一階に到着した。
与一は蜻蛉切を部屋に置いてきていた。
マンションの住民が集まるのに武器を持っていくことは躊躇われたのだ。
自分の危機管理の無さを反省はしたが、もし武器を携帯していたとして、あの混乱時に金本の頭部を攻撃できたかの自信はない。
その日のタウンハウス・桃井は呪われていたとしか思えないほどに運が悪かった。
エレベーターが停止し、口から胸にかけて血だらけの金本が出てきたのを見ても、すぐに動ける者は一人もいなかった。
獲物を求めて金本は周囲の匂いを嗅いでいるように見えた。
こちら側の様子はよく見えていない。
誰もが一言も発せず、沈黙がロビーを包んでいた。
だが次の瞬間に電気の供給が止まった。
最悪のタイミングでの停電だったのだ。
光源は非常口を示す誘導灯のみとなる。
天井にも非常灯はあったのだが、いつの間にか電球が切れていた。
責任を追及されるべき管理人は床に倒れており、数分後にはゾンビとなる運命だ。
「ギャーー!!」
誰かの意味のない叫び声が上がりゾンビとなった金本が反応する。
若い与一は誰よりも早く動けていた。
迷宮で魔物に襲われた経験が生きていたのかもしれない。
由梨の腕をつかみ非常階段へと走る。
「おとうさん! おとうさん!!」
吉田の奥さんの声を振り切るように与一は扉を開けた。
この場は見捨てるしかない。
武器が無ければ蛮勇をふるったところで悪い結果は見えていた。
「みんな逃げて!!」
扉をくぐる前に、その声を上げるのが与一にできる精いっぱいだった。
階段を二階まで駆け上がった与一は下の様子を窺った。
同じように階段を上がってきたのは一人だけだ。
佐伯という三十代前半の主婦だった。
普段は落ち着いていて、しっとりした感じの美人なのだが、顔面が蒼白に固まっている。
与一と同じ七階に住んでいる住人でもあった。
「佐伯さん、他の人は?」
「わかりません。ドアのところで私の後ろから出ようとした人が捕まって……」
どうやら出口をゾンビに塞がれてしまったようだ。
非常階段への入り口がエレベーターの近くだったことが災いしてした。
たまたま与一たちと佐伯は非常口に一番近いところに立っていたのだ。
ロビーの椅子に座っていた人がどうなったかは考えたくもなかった。
「とりあえず七階に避難しよう。武器を持ってくる」
三人は足早に階段を上がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます