第16話 終わりの始まり
駅が近づいてくると、どこからともなく焼き鳥の匂いが与一と由梨の鼻をくすぐった。
「お腹すいたぁ。今夜は何を作ろうかな」
与一の言葉に由梨は驚く。
「芹沢君が作るの?」
「うん。親父は単身赴任だし、母親はもう亡くなってるんだ。だからずっと自炊だよ。こう見えて料理はけっこう上手なんだ」
「そうだったんだ……」
由梨は改めて自分が与一のことをほとんど知らないことに気が付いた。
「いつも一人でご飯を食べているの?」
由梨に聞かれて与一は口ごもる。ルーチェやケンタウリーたちの顔が脳裏に浮かんだ。
「いや、なんというか……近所に知り合いがいて、最近はみんなで食べることが多いかな」
「そうなんだ……」
たわいもない会話が続き、駅の改札口が近づいてきた。
別れの時間が秒読み段階に入ってくる。
このままさよならだと思うと由梨はいたたまれない気持になっていた。
最後に与一の顔を目に焼き付けておこうと由梨は与一を見上げた。
与一の方がずっと背が高かったのだ。
与一は何かを決心した表情だった。
「塚本さん、お腹へってない?」
「え?」
予想外の発言に由梨はびっくりしてしまう。
「あのさ、塚本さんってラーメン屋に入ったことある?」
由梨は無言でブンブンと首を振った。
「やっぱり。塚本さんってお嬢様ぽいからそうなんじゃないかと思ったんだ」
「そんなこと……」
事実、由梨はラーメン専門店に入ったことはない。
中華料理の店で食べたことがあるくらいだ。
「荻窪ってね、ラーメンの有名店が多いんだよ。女の子を誘うならもっとお洒落なお店とかがいいかもしれないけど、よかったら一緒にラーメンを食べに行かない?」
由梨の中から感情は溢れ出すのだが、的確な言葉が出てこない。
パクパクと動く口から洩れるのは音声を伴わない空気だけだ。
「えっと、ラーメンは嫌だった?」
ブンブン。
首が大きく横に振られる。
「じゃ、じゃあ行こうか」
ブンブン。
今度は縦に振られた。
連れ添った二人は改札口を通り過ぎ、北口の方へと向かった。
夕方の早い時間だったが、既に10人くらいの客がラーメン屋の前で列を作っている。
だが由梨にとってそれは幸運なことだった。
それだけ長く与一と話していられるからだ。
与一と由梨がラーメンを待っているその頃、某国の軍事研究所の研究員が実験用のマウスに指を齧られた。
普段はおとなしいマウスがそのような凶暴性を持ったのは、最近投与された新薬の影響に他ならない。
「ああ、くそっ!」
血のにじむ人差し指を洗いながら研究員は毒付いた。
「どうしたのラオ?」
心配する同僚に研究員はおどけて見せる。
「マウスにまで求愛されてるのさ。こいつも僕の彼女と一緒でね、興奮すると噛みついてくるんだ」
「はいはい。ラオの私生活に興味はないわ。貴方の彼女にもね。消毒してあげるからこっちに来て」
女性同僚に手当てをしてもらいながら、傷口に染みるアルコールに研究員は再び顔を顰めた。
「実際のところ、この薬ってどうなのよ? やっぱり凶暴性が増すの?」
アルコールで同僚の指を消毒しながら胡散臭そうなものを見るように彼女はマウスを眺めた。
「ああ。ここだけの話、B群では共食いまで起きている始末さ。筋細胞の増幅と代謝率の増加は目覚ましいけど、フェーズⅠにもっていく前に廃棄されちゃうと思うぜ」
元々は兵士の活動能力を上昇させ、恐怖の感情を抑え込むための薬剤の開発だった。
しかし、その薬品が開発されることは永遠にない。
指をかまれた職員はこれより二十時間後にとある症状を発症させる。
死してなお肉体が行動し、生者を襲うような状態になるのだ。
そう、いわゆるゾンビの第一号となるのがこのラオという研究員だった。
また、ラオがゾンビ化する前に街の娼婦と交渉を持ったこと、突然変異したウィルスを保有するマウスが逃げ出したことも世界を破滅へと導く要因の一つになったことをここに特記しておく。
カバリア迷宮の安全地帯は既に日が落ちていた。
揺らめく焚き火の日に照らされながら、ルーチェはゲートを見つめている。
向こう側の部屋に明かりが灯り、与一が帰ってきた気配がした。
釘を買いに出かけてくると言ってから3時間近くが経とうとしていた。
「遅くなってごめん。お弁当を買ってきたよ」
「おかえり。何かあったの?」
「昔の友達とばったり会ってね。一緒にご飯を食べてきたんだ。これはルーチェにお土産。ハンバーグ弁当ね」
与一に渡された不思議な容器に入った食事はまだほんのりと温かった。
「ありがとう。いい匂いがするね」
「今日は外で買ってきたんだ。ここのお弁当はけっこう美味しいよ。釘も買ってきたけど作業は明日だね」
与一は真っ暗な森を見回した。
少しのんびりしすぎたようだ。
(塚本さんもそろそろ家へ着く頃かな?)
ルーチェが晩御飯を食べている横で与一はお茶の用意をした。
空気が冷えていて温かいほうじ茶が美味しかった。
同時刻、ちょうど帰宅した由梨が連絡もせずに遅くなったことを母親に咎められていたが、もちろん与一は知る由もない。
「そういえばさっきナウリマが来たわよ。与一に稽古をつけに来たって言ってたけど」
「さっそく来てくれたんだ。留守をして悪いことをしたな」
迷宮の危険地帯でそんな話はしていた。
「なんかやる気をみなぎらせていたわよ。こっちの背中が凍り付きそうだったもん」
ケンタウリーは人間の何倍も強いのだ。
火炎魔法と身体強化がつかえるルーチェであってもとても敵わない。
「私だって初手を受けきれるかどうか……多分無理ね」
「攻撃が当たっても俺は死なないさ」
そうでなかったら与一もナウリマの指導は受けなかっただろう。
「そうだけど、与一がやられる姿を見るのは嫌だな……」
「ん……」
なんとなく二人は目を合わすことが出来なかった。
気まずい沈黙が流れる。
「ハンバーグ美味しい?」
「美味しいけど、与一の料理の方が美味しいかな」
「そっか。明日はご馳走にするよ」
「うん」
楽園の闇は静かにその濃さを増していった。
その晩のメールのやり取り。
――芹沢様
今日は芹沢君に会えてとても嬉しかったです。たくさん話せたのは初めてだったけど、いろいろ教えてもらえてすごく楽しかったです。ラーメンも初めてお店で食べましたがあんなに美味しいものだったのですね。スープの味に感動してしまいました。明後日の大学訪問も楽しみにしています。よろしくお願いします。
――
楽しんでもらえてよかったよ。また食べに行きましょう。明後日は九時にJRの改札口だったよね? でも、大学の中はあんまり見るところとかはないと思うよ。おすすめのランチの店とか古本屋さんとかも案内できると思うけど。
体に気をつけて勉強を頑張ってください。
ゾンビの映像が最初に確認されたのはインターネットの動画投稿サイトだった。
初めは現実の映像であることに懐疑的なコメントがついていたが、瞬く間にそれが真実であることを人類は認めざるを得なかった。
それほどまでに人間のゾンビ化は速やかに行われていったのだ。
感染した人間が健康体なら問題はなかったが、病気の人間や体力が低下している人はおよそ3時間から20時間で発祥した。
しかもキャリアが何らかの事情で死亡すればすぐにゾンビになった。
交通事故で即死した人間がすぐに起き上がったなどという例もあったのだ。
初めは都市の封鎖、やがて国の封鎖、大陸での封鎖を各国は試みたがそのどれもが失敗に終わる。
最初の動画投稿から20時間もかからずに極東の島国にもウィルスは到達していた。
不幸なことにウィルスを運んだのは、その国から帰国した外務省の職員だった。
彼が帰国前の思い出にとホテルに呼んだコールガールが発症前のキャリアであった。
駅から少し歩いた時点で、街がざわざわとした雰囲気であることを与一と由梨は感じていた。
二人が待ち合わせをしていた午前九時にはまだ平和だったのに、九時十分には上空を何基ものヘリコプターが飛び回るようになり、道路には警察車両と消防車両、救急車、果ては自衛隊車両が何台も行き来するようになり出した。
どうやらただ事ではない事態が起こっているようだ。
「おい! これ見てみろよ!」
学生らしき男が叫んで友人にスマートフォンの画面を見せている。
「マジかよ! これってゾンビだよな!?」
「ああ。池袋らしい」
与一も自分のスマートフォンを取り出して映像を確認した。
「塚本さん、すぐに家に帰った方がいいかも」
「うん」
由梨に帰宅をすすめたものの与一は地理的なものに懸念を抱かずにはいられない。
ゾンビが現れた池袋は由梨の住む目白まで山手線で一駅の距離だ。
「家の人に連絡を取ってみて」
由梨はすぐに母親に電話をかけた。
「お母さん! もしもし? お母さん!?」
電話は通話状態になったのだが、母親の返事はない。
人が階段を上るような音が響いているだけだ。
やがて扉を閉める大きな音とカギをかける音が聞こえた。
「由梨ちゃん」
「よかった。お母さんどうしたの?」
電話の向こうの母親は息を切らしているようだ。
「由梨ちゃん、今どこにいるの?」
「高田馬場駅の近く。何があったの?」
「こっちに戻ってきてはダメ。家の中に変なのがいるの。警察に電話もしたんだけど全然つながらなくて」
「大丈夫なのお母さん?」
「私は大丈夫よ。お父さんにもすぐに連絡するから、貴方は芹沢君と一緒なの?」
「うん」
与一に大学を案内してもらうことは親に教えてあった。
「芹沢君の家に避難させてもらうことはできるかしら?」
「え……聞いてみる」
通話の内容は聞こえていたので与一はすぐに了承した。
一人暮らしの自分の家に由梨を連れて行くのはどうかとも思ったが緊急事態である。
四の五の言っている暇はなかった。
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