第9話 罠
ルーチェとナウリマに別れを告げ、与一は自分の部屋へと戻った。
予定通り午前中に買い物に行くのだ。
釣りに関して与一は全くの素人なので、通販サイトで評価が高く、カスタマーレビューが多いセットを購入した。
残りの買い物は日焼け止めとアウトドア用である化繊の服だ。
吉祥寺駅の近くにアウトドア専門店があるとわかったのでバイクで行く予定だが開店にはまだ時間が早い。
そこで与一は父親の春彦に電話をかけることにした。
ナウリマの祖父であるカジンザがアルコールの強い酒を飲みたがっていると聞いたので、お中元にもらったどれかをもっていってやろうと考えたのだ。
酒造り自体はナウリマとカジンザの二人もしているのだが、出来上がった果実酒を蒸留することはできないでいる。
カジンザは迷宮に移住する前に飲んだ強い酒を懐かしがっているという話だった。
今日は日曜日なので春彦も仕事は休みだ。
「おはよう父さん。寝てた?」
「いや。ニュースを見ながら朝ご飯を食べていたよ。どうした、電話なんて珍しいじゃないか」
与一の反抗期は中学二年生の時に終わっている。
それからの二人は仲が良い。
母の病死という辛い時期を共に乗り越えて、二人は親子であると同時に戦友のような結びつきさえある。
「じつはさ、今日の午後友だちの家に遊びに行くんだけど、そこのお爺ちゃんがお酒が好きなんだって。だからお中元にもらったどれかをお土産に持って行こうと思うんだけどいいかな?」
「別に構わないよ」
春彦は家ではあまり酒を飲まない。
与一にいたっては飲んだことがない。
与一が人と距離を置くような性格になっていることに薄々気が付いていた春彦としては、息子が友人の家へ遊びに行くというのを聞いて内心嬉しく思っていた。
「酒に限らずお菓子でもなんでも持って行っていいからな。どうせお中元にもらったものの扱いは与一に任せてあるんだから」
「うん。ハムとかそのへんも貰っていくよ。皆でサンドイッチを作って食べるから」
「ああ。楽しんできな」
「帰ってくるのは再来週だっけ?」
「予定通りに行けばね」
「その時に見てもらいたい……いや何でもない」
与一はクローゼットの中のゲートを父親に見せるかどうか決めかねていた。
「どうした?」
「ごめん。本当に何でもないんだ」
「そうか。だったらいいけどな。何かあったら電話するんだぞ」
「うん。またかけるよ」
お酒を持ち出す許可はもらえた。
何も言わずに持ち出したところで春彦は気づきもしないのだが、こういうところで与一は生真面目だった。
アウトドア用の服と靴を買うのに与一は財布の中にあったほとんどの金を使ってしまった。
明日はATMで貯金を下ろさなくてはならない。
普段ならこんな時は納豆ご飯か、卵かけご飯で食費を抑えるのだが、ルーチェに納豆を食べさせるのはさすがに酷な気がした。
なんでも食べるルーチェなら或いは……という気もするが、それは後日試してみることにする。
食料はなるべく迷宮内で調達して食費を倹約しようと心に決めた。
カエルだってなんだって食べてやる! と、少し野蛮な気持ちでいる。
与一本人は野蛮なつもりでいるのだがルーチェやナウリマが知ったら鼻で笑われてしまうかもしれない。
カエルを食べるのは当たり前のことであり野蛮でもなんでもないのだ。
迷宮に戻った与一は二人と合流してナウリマたちの住む洞窟へと向かっていた。
隣人になるのだからナウリマの祖父であるカジンザにも挨拶をしておくことにしたのだ。
カジンザは穏やかで理知的な人だとナウリマから聞いている。
だがかつてはナウリマを誘拐しようとした冒険者たちの頭を一撃のもとに潰していったという逸話も聞いたので不安はあった。
手土産のウイスキーを喜んでくれればと与一は願っている。
どうせなら隣人とは良好な関係でいたいものだ。
人生を楽しくやるコツは「忘却」だ。
自己と他者の小さな罪を適度に忘れてしまうことにある。
酒というのは忘却の為の促進剤だ。
薬のくせに美味しいので困る人も多い。
この酒がカジンザの意識から与一の罪をどの程度忘れさせてくれるかはわからない。
与一は思う。
せめて孫娘と並んで歩くことくらいは許して欲しいと。
新しい服と靴で嬉しそうに与一は森を歩いている。
ルーチェにとってその姿は巣立ち直後の燕を彷彿とさせた。
まるで初めて空を飛び、怯えながらも風を楽しむ若鳥のようだ。
与一はなんとたどたどしく世界を楽しむのだろう。
幸せそうな与一は微笑ましくもあると同時に妬ましくもあった。
自分には世界を楽しむ余裕などこれまでなかったと思う。
物心ついたときにはもう自立することを求められていた。
ルーチェにとって迷宮は生活の糧を求める場であって楽しむところではない。
その意味においてはナウリマにも思うところはある。
このケンタウリーはどちらかと言えば与一の立ち位置に近い気がした。
つまり、ルーチェと違って人生に余裕を持っていた。
「与一は思っていたより体力があるのですね」
にこやかにナウリマが声をかける。
カジンザ以外と話をすることはあまり経験がないので興奮しているようだ。
「今日はなんか体が軽いんだよね。この世界に慣れてきたのかな。昨日は山の斜面を登っただけですごく疲れたんだけどね」
もしかしたらアウトドア用の服や靴のお陰かもしれないと与一は感じている。
綿シャツと違い速乾性のシャツはすぐに汗が抜けていき、とても動きやすい。
靴もゴアテックスという素材を使っているせいか防水なのに蒸れなかった。
だけど与一はそれだけじゃないような気がしている。
この迷宮の安全地帯が与一に特別な力を与えてくれているようなそんな感覚だ。
他者といても居心地がいいというのは与一にとって二年ぶりのことだ。
ルーチェやナウリマがいても与一は自然にふるまうことが出来ている。
それがどうしてかは与一にも説明がつかなかった。
突然の出来事だった。
「パチン」という乾いた音が響いた瞬間に与一の隣を歩いていたナウリマの身体が持ち上がり、宙吊りになっていた。
次の瞬間には矢が飛来して鎧をつけていない与一の胸に深く突き刺さる。
「与一!!」
ルーチェの悲痛な声が森に響き渡る。
与一の元へと駆けだそうとしたルーチェの動きを何者かが制した。
「動くな!」
藪や木の上から冒険者の一団が現れる。
その数、十二名。内二名の引き絞った弓矢がルーチェに狙いをつけ固定されていた。
「どういうつもり?」
精一杯の虚勢を張ったつもりだったが声が震えてしまった。
「お仲間には悪いことをしたが、こちらが本気だってことを見せたかったからな」
精悍な顔つきをしたリーダーらしき男が淡々と言葉を放つ。
その様子に油断や隙は一切ない。
この集団はプロの冒険者たちだった。
「ケンタウリーよ、こちらのお嬢さんの命が大切ならば持っているウォーハンマーを捨ててもらおうか」
ナウリマは宙吊りになった状態でも武器を手放してはいなかった。
「私を殺すというのですか? それならば武器を手放すわけがないでしょう」
ナウリマの言葉にリーダーは軽く首を振った。
「俺たちの目的はこれだよ。三つ前の階層でたまたま手に入れてね。どうせなら戦闘力の高い魔物か獣人につけようということになったのさ」
男が懐から取り出したのは「隷属の首輪」と呼ばれるマジックアイテムだ。
これを魔物や人につけると意のままに操ることが可能になる。
「どうする。おとなしくこれをつけるか、この女を殺すかお前が選べ」
ナウリマはルーチェを見た。
ルーチェは頷いて見せる。
「ナウリマの好きなようにして。どういう選択をしても恨みはしないわ」
ナウリマがこの状態では人数差がありすぎて勝ち目はなかった。
この階層には魔物がいないということで気の抜けた状態でいた自分にルーチェは腹を立てていた。
斥候役の自分が先頭を歩いていればあんなつまらないトラップにナウリマが引っかかることはなかっただろう。
そして与一が死ぬこともなかったかもしれないと考えると悔やんでも悔やみきれない気持になった。
肉と骨がつぶれる音がして弓を構えていた冒険者たちが二人同時に倒れていた。
その後ろにいたのは禿げ上がった頭に豊かな白いひげを蓄えた筋骨隆々のケンタウリーだ。
「おじい様!」
嬉しそうに叫ぶナウリマには何も答えずケンタウリーは黙々と冒険者たちを撲殺していく。
その動きは電光石火だ。
突如現れたカジンザの攻撃に冒険者たちは驚愕の声を上げた。
ルーチェはすかさず木陰へと移動し剣を抜いた。
手に魔力をためた冒険者が恐怖に上ずった声で叫ぶ。
「同族の命が惜しかったら武器をおけ!! アイスランスが宙吊りのケンタウリーを貫くぞ!」
カジンザはちらりと相手を見たようだったが、お構いなしに手近の冒険者たちを撃ち殺していく。
「クソ!!」
警告を無視されたことで冒険者が魔法を撃とうと構えると、何者かの手が彼女の両足首を掴み、うつぶせに転ばされてしまった。
すかさずルーチェが冒険者の喉笛を切った。
冒険者の足を掴んで転ばせたのは心臓のあたりに矢を受けて血を流している与一だった。
「与一! 貴方、動けるの?」
「ものすごく痛いけど……」
顔を見合わす二人は等しく不可解な表情をしていた。
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