第6話 探索開始
階段へと続く扉をくぐった瞬間に与一は寒気を覚えていた。
目の前には上層へと続く石造りの階段が闇の中に浮かんでいる。
臭気をはらんだ空気と
「ルーチェ、引き返そう。ここ……やばいよ」
「ええ」
短く答えてルーチェは後ずさりする。
与一は
わずか数歩の距離でしかないのに安心の度合いがまるで違う。
「あれがカバリア迷宮の本当の姿なんだね」
「うん。私たちがいるこの階層は迷宮の中でもかなり特別な場所だと思うわ。魔物も見当たらないし、肌に伝わる緊張感もまったく別物だもん」
与一は初めて見る闇の恐怖に、ルーチェは数日前に味わった圧倒的な暴力の記憶が蘇って背筋が凍る思いだった。
「上層から魔物が下りてくるってことはないのかな」
不安そうな与一を安心させるようにルーチェは笑顔を作った。
「それは大丈夫だと思う。魔物には縄張りがあるの。滅多なことで縄張りを離れる魔物はいないわ。それに、この階層はなにかに守られているような感じがするのよね。これは勘でしかないけど、魔物はこういう場所には近づかない気がするわ」
ルーチェは自分の考えに確信があったわけではない。
だが言葉に出してみると、それは本当に信じられるような事実のような気がした。
与一も冒険者であるルーチェの言葉を疑わない。
それから二人は高台へ出るために坂道を上ることにした。
見晴らしのいい場所なら周囲の様子がよくわかるはずだと考えたのだ。
すでに候補地やコースはルーチェが決めている。
与一が大学に行っている間にそうしたリサーチは済ませてあったのだ。
この空間の居住者は主に野生生物だ。
人間はルーチェと与一の他には誰もいない。
当然のことだが道というものはどこにもなく、二人は獣が作った道筋をたどりながら高台へと登った。
藪をかき分けながら急峻な坂を登れば五分もしないうちに玉のような汗が目の中へと流れ込んでくる。
与一は自分の持つ槍が時間の経過と共に重量を増しているように感じた。
「道の無いところを歩くのは生まれて初めての経験だよ。こんなことをするなんて空想すらしたことがなかった」
「今までどんな生活をしてきたのよ。森とか草原とかどこにだってあるものでしょう? 道しか歩いたことがないなんて、そっちの方が私には想像できないわよ」
ルーチェにとって、息を切らしながら嬉しそうに喋る与一は希少生物そのものだった。
やがて二人はとても登れそうにない傾斜の下にやってきた。
ここをどうやって登ったらいいのか与一には皆目見当がつかない。
ルーチェの真似をして大地を観察すると、土が蹄の形に抉れている場所があった。
よく見れば斜面の途中にも足跡は見られる。
動物はこの坂を駆け上っていったのだ。
「すごいな。こんな急斜面を登れるんだ」
「ええ。それに比べれば人間なんて非力なものよね」
ルーチェは剣を抜いてすぐ横の枝を払った。
坂道の
「ちゃんとついて来なさいよ」
一刀の元に枝を落としながら進むルーチェを見ながら与一は思う。
ルーチェに比べたら自分など非力なものだと。
だけど与一にも若者らしい
「ルーチェ、疲れたら交代するからね」
「……ええ、頼りにしているわ」
与一に顔を見られないように前を向いてからルーチェは苦笑した。
息も絶え絶えの与一が自分を手伝うと言ってくるのが可笑しくも嬉しくもあった。
この気持ちは何なのだろうとルーチェは考える。
恋愛とかとはちょっと違う気がした。
まるで出来の悪い弟を持ったような気分。
そうか、私は生まれて初めて保護する対象を手に入れたのだと思い当たった。
けれども更に考えてみれば、自分は食料や道具などの一切を与一に依存している。
その意味では保護しているというよりは保護されている側の人間だ。
私たちの関係って何と呼べばいいのだろうとルーチェは思う。
与一なら対等な人間関係とか相互依存の関係なんて呼び方をしたかもしれない。
だけどルーチェにはそれがわからなかった。
ルーチェにとって与一は不思議の塊のような人間だ。
与一が悪人なら自分を使用人や奴隷のように扱うことだってできるはずだ。
だけど与一は高圧的な態度を一切とらない。
まるで友人のように気さくに声をかけ、共に同じ食事を食べている。
たまにどういうつもりなのかと訝しく思うこともあるのだが、それが与一なのだとルーチェは考えることにした。
だからルーチェにとって二人の関係は「主従」でも「友人」でも「恋人」でもなく「私と与一」の関係であり、名前のつけようがなかった。
与一とルーチェはあまりに違う環境で生きてきた。
二人の関係に名前を付けるにはもう少し時間が必要だった。
行きつ戻りつしながら、高低差二百メートルを二時間以上もかけて二人は登り切った。
道なき道を進むとはそれほど困難なことなのだ。
間に休憩を何度も挟んだが主に与一のためだった。
汗を吸って重たくなったミリタリーシャツがべったりと肌に張り付き、体を動かすのを阻害してくる。
これは与一に限ったことではなくルーチェもレザーアーマーの下の服は雨に降られた後のように濡れていた。
高台のてっぺんは木々もまばらで遠くまで景色を見通すことができた。
与一の部屋につながるゲートを背にして右後方に上層へ続く扉があり、はるか左前方には大きな池が見えていた。
方向から察するにゲート近くの小川はその池から流れてきているようだ。
日に焼けてヒリヒリとする痛みに顔を
ルーチェもさすがにレザーアーマーを脱ごうとしている。
濡れたシャツのために腕を動かすのが窮屈そうだ。
「手伝うよ」
後ろから声をかけてレザーアーマーを上へと引っ張りあげてやった。
「ありがとう。ふぅ……」
鎧を外したルーチェはコキコキと首を回し……おもむろに上着を脱いだ。
顔や首は褐色の肌なのだが肩や背中は透き通る程に白かった。
「ああ、涼しい。風が気持いいね」
ルーチェは与一のことなどまるで気にしていないようにあっけらかんとしていた。
「ル、ルーチェ……、なにを……」
「え? ああ、大丈夫よ。この辺には危険な動物や魔物はいないわ。ちゃんと確認しているから」
どうやら与一は危険な動物とは認識されていないようだ。
もっとも与一がルーチェを襲ったところで返り討ちに合うのはわかりきったことではある。
だが、与一が言いたいのはそんなことではない。
今やルーチェは振り返り、与一にむき出しの上半身を晒していた。
「えーと、これってルーチェにとって普通のことなの?」
「これ?」
「男の前で服を脱いでいるから……」
二人の間をさわやかな風が吹き抜けていく。
長い雲の影が二人の足元を通り過ぎていった。
「……冒険者をやってるとよくあること……かな? ふつうは人前では脱がないね」
「そっか」
「嫌だった?」
「嫌というか目のやり場に困るかな」
ルーチェの説明によると、冒険者の女はわざわざ着替えるために隠れたりはしないそうだ。
迷宮ではどんな危険があるかわからないので、服を脱ぐからといって集団から離れることなどあってはならないことだそうだ。
「でも、欲情した男が襲ってきたりしない?」
「複数ならともかく一対一で女が男に負けることはないよ」
言いながらルーチェは手の上で火球を作って見せた。
この世界では魔法を使えるのは女だけなのだ。
のしかかられたところで近距離から魔弾を打ち込めば男は胃の中のものをまき散らしながらのたうち回ることになる。
ルーチェの話しぶりから推測するに、この世界では男が女の裸を見ても日本人ほどには反応しないようだ。
力のありようが違えば、男女のありようも違ってくるのだろうと与一は理解した。
地球でだって上半身を裸で生活する民族は結構いるのだ。
自分も気にしなければいいということか、と与一は思ったが……。
「与一は……私の胸をみて興奮しちゃうわけ?」
「そりゃあ……ね」
与一の言葉を受けてルーチェは背中を向けた。
「どうしたの?」
「急に恥ずかしくなってきた」
「いや、俺も慣れるよ。ルーチェが普通にしていてくれたら、そのうち見慣れるんじゃないかと……」
「もう無理」
多様性を認めるというのは美徳である。
だが異なる文化が交じり合う地においては、その独立性を保つことなど不可能だ。
時に片方が屈服させられ、時には緩やかに結びつきながら文化は姿を変えていく。
今回は自分が屈服させられる立場でも何ら問題はなかったと与一は思う。
だが、ルーチェが嫌ならばとやかく言うつもりはない。
再び服を着るルーチェの後姿を見ながらどこかで安堵している自分もいる。
その正体は独占欲だ。
ルーチェの肌を自分以外の人間に見られるのが嫌なのだ。
付き合っているわけでもないのに身勝手なものだと自嘲してしまうが、この気持ちを止めることがはできなかった。
ぼんやりと二人の関係を考えていた与一の耳に地響きが聞こえてきた。
「与一、山羊よ!」
嬉しそうに叫びながらルーチェが山の斜面を指している。
そこには岩場を飛び下りていく山羊の群れがいた。
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