10.そして…

 同点のまま、タイムアップは刻一刻と近づきつつあった。

 年齢の限界を越えて走り回る津上やラノス。

 良太は横須賀ペナルティ・エリア付近で、後ろを振り返りもせずに立ちつくしていた。

 もはや一歩すら踏み出す力も残されていなかったが、それでも戦うことを放棄したりはしなかった。

 最後の最後までゴールを睨み続けるのが、ストライカーとしての使命だからである。


 必死なのは横須賀も同様だった。

 終盤、息を吹き返したラノス達の勢いもあり、しだいに一人少ない北尾に押され始めていた。

 プレッシャーと疲労の中、追いつめられ後手にまわる展開が続き、対応の遅れがファウルの濫発を招いていく。

 一秒足りと気を抜くことができず、むしろ尻に火がついていたのは、北尾より横須賀の方が強くもあった。

 無理な攻めからカウンターをくらう事態だけは避けたい。

 持ち前の攻撃サッカーを捨ててひたすら守備に徹する現状は、彼らにとって屈辱以外の何ものでもなかった。

 だが、たとえサポーター達に落胆されようと、彼らは目の前の勝利を選択したのである。

 負けて喜ぶ者など一人もいない。どれだけみっともなくてもいい。地べたに這いずり、泥水をすすってでもこの試合にだけは必ず勝つ。

 それがプライドよりも大切なものだと信じて。


 ロスタイムの表示は三分間。

 ともに負傷者を出す極限の状況で、交替のカードもすべて使い切った。

 互いの譲れない想いとプライドが激突するこの勝負を、両チームのサポーター達は、まばたきも呼吸も忘れて見守っていた。

 ピッチ上の選手達と共有する、鼓動の高鳴りを真正面から受け止めつつ。

 すべての願いがつらなり、大空へと昇華していく中、決着の時は残りワンプレーまで集束しつつあった。


「しまった!」

 インターセプトを許し、ラノスが舌打ちする。

 最後の力を振り絞り、横須賀が攻めに出た。

 自陣でのキープは危険だった。

 後手にまわることで、北尾にワンチャンスを与える可能性が高い。

 横須賀にとって理想の展開は、相手陣内でのキープをタイムアップまで続けることだった。


 横須賀攻撃陣の高速パスまわしは、懸命に戻る北尾の薄い壁を完全に翻弄していた。

 鳥かごの中に閉じ込められたディフェンス陣に舌打ちしつつも、いつきてもおかしくないシュートコースを光永が警戒し続ける。

 この時間帯での失点は、北尾にとっての敗北を決定づけるに充分すぎるものだった。

 やがて数をそろえた北尾の猛烈なプレッシャーに押しこまれ、つまづきながら繰り出した苦し紛れのパスが中央へと転がり出る。

 それが前線に通るラストパスになると判断するや、ケガも恐れず光永が飛び出していった。

 勇猛果敢な軍神が向かい合うのは、かつてのチームメイトだった。

 光永の読みどおりならば、それをシュートにつなげても、またそうでないとしても、GKの手が届く範囲内には撃ってこないはずだった。

 少なくとも、残り時間を計算した上でのセオリーを守れる者ならば。

「うっとおしいんすよねっ!」今日二得点のMVP候補は、目を吊り上げ、光永の負傷した方の手目がけて、思いきりイージーボールを蹴りつけた。「ハット、いただき!」

「くっ!」

 大きく広げた光永の手の先に触れ、わずかにコースを変えただけのボールが、転々とゴール左隅へと転がっていく。

 先の負傷が少なからず影響していた。

「くそっ!」

 絶望的な表情で吐き捨てる光永。相手との接触でバランスを崩し、よろめく足で立ち上がってなお、ボールをつかもうと手を伸ばした。

 が、次の瞬間、その視界に飛び込んできたのは、ゴールライン寸前でボールをキープして笑う陽気なメキシコ人の顔だった。

「ナイスセーブ、ターツ」

 ニッと白い歯を全開にして、飛び込んで来た横須賀FWを軽くかわし、前を見据える。

 左サイドを駆け上がる津上に気づき、ネグラテは渾身の力でボールを蹴り上げた。

「ツガーミンッ!」

 五十メートルのロングパスを確実に受け止める津上。スピードを殺すことなく、そのまま現役ばりの直線ドリブルへと移った。

「まだ時間はたっぷりあるよな」

 ロスタイムに突入し、すでに二分以上が経過していた。

 顎が上がる。

 舌がヒリヒリし、へとへとで今にも倒れ込みそうだった。

 やけくそ気味に顔を上げると、中央に走り込むラノスの姿が目に映った。

「かあ~、たまんねえな、ったく。あんなとこ走ってやがるぜ」

 頻繁に時間を確認し始めた主審を意識しながら、自分とラノスとを結ぶ黄金のラインを見定める津上。

 ラストチャンスだった。

「坊主、見とけ。津上俊樹、一世一代のクロスだ!」

 左タッチラインすれすれから、津上が中央のラノスにセンタリングを撃ち放つ。

 得意なサイドからのその切れ味は代表当時と何ら違わない。

 疲労からくるコースの乱れさえなければ。

「!」

 飛び上がるラノスの頭上をボールが越えていく。このままゴールラインを割れば、もう一度攻める時間はなくなるだろう。

 ラノスの脳裏を諦めがよぎる。

『終わったのか……』

 それは安堵の気持ちにも似たものだった。

『そうか……。これですべて……』

 その時右サイドを飛び出した人影があった。

「!」

 ゴールライン目がけて突き進む全身緑色のシルエット。

 良太だった。

「くそったれっ! まだやるのかっ!」

 苦々しい顔でラノスが悪態をつく。

 そのポジショニングを、最高のセンタリングに合わせるべく微調整しながら。

「バカヤロー! 行けー! 良太ーっ! 諦めるなーっ!」

 良太が大きく足を繰り出す。

 長い長いストライドはエンドラインギリギリでボールに追いつき、ラインを割る直前で鉤状になった右足の甲がボールを捉えた。

「がっ!」

 無理な体勢のまま、ペナルティ・エリア内で待ち受けるラノス目がけて折り返し、良太が咆哮する。

「おっさんっ! ブチ込めっ!」

「まかせろっ!」

 背中から吹き飛んでいく良太の姿を視界の隅におさめながら、ラノスの神経は緩やかな弧を描いて飛来する一個のボールに集中していた。

 ちらと後方を確認する。

 サポートの選手はまだ届いていない。

 今日までたった一つのボールを三十年以上も夢中で追いかけ続けてきた。

 たかがボール。

 だがその一蹴りは決して軽いものではない。つかみ切れない軌跡一つに、何度も運命を左右されたのも確かだ。

 そして、この良太が身を犠牲にして奪い取ったセンタリングこそが、行く道を決めるラストボールであることも知っていた。

 自分だけではない。

 そこに夢を託す者すべての願いがこもった、ラストチャンスなのだ。

 必ず決めなければならなかった。

 眼前のゴール裏から全身全霊の願いを込めてスタジアムを揺らす、十二番目の仲間達のためにも。

 疲労も年齢も飛び越え、大きく高く伸び上がるラノスの身体。

 絶好のタイミングだった。

 ブラインドから飛び込んでくるDFさえいなければ。

「ふざけるなっ!」

 ラノスにつられて飛び上がったGKが不思議そうな表情になる。

 ヘディングをしようとしたラノスが、すっと頭を引っ込めたからだ。

 そして後頭部にわずかに触れたラストボールは、ラノスの目の前に飛び出した敵DFの後方にポトリと落ちていったのである。

 自分とDFのプレッシャーに負けてラノスがミスをしたと思ったGKが、すぐさまはっとなった。

「なっ!」

 DFの背中をなぞる誰にも触れられないボールを、GKは恨めしそうに見続けていた。

 その軌跡を断ち切るように滑り込んで来る小柄な影を、まるでスローモーションのように感じ取りながら。

 一瞬、時が止まったかのようだった。

 すべての視線が注目する中、ヘッドから飛び込んだネグラテごと、ネットに突き刺さったボールがゴールラインから転がり出てくる。

 同時にタイムアップの笛が鳴り渡った。

 渦を巻くようにうねり、地鳴りのように響く絶叫。

 スタンドで見守る熱い心達は一斉に弾け、何物にもとらわれない一つの塊となった。

「ルイスー!」

「よっしゃーっ!」

 ネグラテに覆い被さって歓喜の雄叫びを撒き散らす北尾イレブン。

 ある者は笑い、ある者は叫び、またある者は泣いていた。

 この瞬間、マッハ・エーティーエイト北尾の、Jリーグ一部昇格が決定したのである。

「やった、やったー!」

「よかったよな。俺達やめないでよかったよな……」

 喜びと絶望の狭間を、ラノスは表情もなく一人歩き続けた。

 熱狂に包まれる仲間達とは正反対に、精も根もつき果て、がっくりと項垂れる横須賀イレブン。

 そこには涙を浮かべながらふて腐れる、光永の元同僚の姿もあった。

 それを責めようとはせず、落胆と悲愴を胸の奥に押し込んで、横須賀サポーター達は選手達にいつまでも熱い声援を送り続けた。

 よくやった、来年こそは、と。

 やがて北尾サポーターからのエール交換に応じ、スタジアム全体に大合唱が巻き起こった。

「いいチームだ……」

 ゴールラインを越え、ラノスがその足を止める。

 尻餅をつきながら良太がラノスを見上げていた。

 ボールを蹴りつけた後、良太は足元をすくわれるように体を捻り、コマーシャルボードに激突していた。

 『北尾のお茶』の広告を真っ二つに割り、そこに腰掛けるようにして動けなくなっていたのだ。

「スポンサーに対して失礼なやっちゃな」

 ぼそりとラノスが言う。

 すると顔を歪めて良太が吐き捨てた。

「よく言うぜ、ヘディングもまともにできねえくせに」顔をそむけ、残念そうに悪態をつく。「せっかくウイニング・ショットくれてやったのに……」

「立て、良太」

 手を差しのべようともせずに憮然と告げるラノスに、良太が言葉を失った。

「どうした。立てんのか、良太」

「うるせえよ」歯がみし、ギリとラノスを睨みつけた。

「一人で立ってみろ。そしたら一人前と認めてやる」

「上等だ」

 最後の力を振り絞って良太が立ち上がろうとする。

 が、八十キロの体重を支える力はもうどこにも残ってはおらず、ふらついて倒れる寸前にラノスがようやくその手を掴んでにやりと笑った。

「まだまだヒヨッコだな」

「よけいなことしやがって……」

「さっきの話な」

「あん?」

「同点ゴールが最高だと言ったのは、俺だ」

「……」

「同点ゴールは、逆転ゴールの歓喜の渦に埋もれてこそ、最高に美しい。ヒヨッコすぎておまえにはわからんだろうがな」

「……。何言ってやがる。どうせ自分のゴールなら、なんでも最高なんだろ」

「当然だ」憮然と良太を見据える。「それと言い忘れていたことがある。チームの勝利には、何よりも価値がある。目の前のハット・トリックを捨ててでも、俺はチーム全員で勝ち取る勝利を迷わず選ぶ」

「さっきと言ってることが違うじゃねえか……」

「サッカーをすることさえできれば、ハットのチャンスなんかいつでもあるだろ。しまったと後悔して落ち込むのは、ビールかけの後からでも遅くはない」

「……けっ」

「同じ代表経験者が言うんだ、間違いない」

 舌打ちする良太。

 津上達が後ろからそれを眺めていた。

 一歩前に出る光永。

 その厳しい表情を静かに受け止め、良太は制裁を覚悟した。

 しかし、光永は良太の前で片膝をつき、背中を差し出してきたのだった。

「乗れよ」

「いらねえよ。一人で歩けらあ!」

 やや顔を赤らめながら良太が憎まれ口を叩く。

 その様子を面白そうに眺めながら津上が言った。

「素直におぶられてやれよ。タツの恥ずかしい愛情表現なんだからよ」

「気色悪ぃんだよ、おっさんどもわあっ」

 抵抗も空しく、光永は無理やり良太を背負って歩き出した。

「……。あのな、おっさん、手……」

「後でぶん殴るからな」

「やっぱ殴んのかよ……」

 津上やラノスを見てにやっと笑う光永。

 ばつが悪そうに良太が顔をそむけた。

「やってらんねえよ、ったくよ」

「そう言うなよ」津上が面白そうに笑って言った。「まだまだおまえら小僧どもには、俺らの世代の力が必要なんだよ」

「来年からあ、そうはいかねえぞ。覚悟しとけよ、おっさんども」

「問題ない」ラノスも笑う。「おまえが三倍働けばいいだけのことだ」

「バカ野郎、もう面倒みてやんねえぞ!」

「さあ行くぞ、監督が胴上げされるのを待っている」

「ったくよ……」

「リョーター、ナイスプレーデス」

 ネグラテが良太にキスをしようとしていた。

 光永に背負われているため逃げ場所がない。

「やめろ、ルイス、マジでやめろ!」

「ワタシニホンニキーテ、ホントーノヨカタデスー、コンナビッグゲームデキテー、シヤワセデース……」

 良太の頬にゲットした逆転弾だった。


 昇格祝いのビールかけに全員が酔いしれ、幸福な夜がふけていったその二日後、ラノスのウェルビィへの復帰移籍が決定した。


 マッハ・エーティーエイト北尾寄宿舎の薄暗い廊下を、ラノスは一人で歩いていた。ラフな格好に、小さなバッグを一つだけぶら下げている。

 J1昇格の正式な認定を前に行われた派手な祝賀会の後だけに、その姿は一層ひっそりと映った。

 最後に交わされた、ラノスへの惜別を引きずるように。

 奥で壁にもたれかかり待ち受ける人影があった。

 良太だった。

「ほんとに行くんだな。やっぱりウェルビィの方がいいかよ」

「そうじゃない」

 睨みつけるようなその顔に、疲れた笑顔を向けるラノス。

「戦いたいチームができた。これしか方法がなかっただけだ」

「よく言うぜ。俺達の手の内を知りつくしてるくせによ」

 複雑な心境で良太が吐き捨てる。素直に送り出すことができなかった。

「今度会う時は敵同士だな」

「そんなに堅苦しく考えるな。たかだか同じリーグのことだろうが」

「だが別々のチームだ」

 するとラノスは面白そうに笑った。

「なあに、またすぐにチームを組めるようになる。もっと大きな舞台でな」

 途端に拍子抜けしたようにラノスを眺める良太。

「あんた、まだ日の丸背負えると思ってんのか?」

 真剣に驚いていた。

「当然だ。まだまだおまえらなんかに任せてはおけない」

 頭を掻きむしる良太が、ラノスの顔を見てふっと笑う。

 すべてをふっ切ったような笑顔だった。

「あんた大バカだな。正真正銘の大バカだ」

「おまえほどじゃない」

 にやりと笑い合う。

 薄暗い廊下に二人のウイニング・タッチが木霊した。


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