9.デッド・オア・アライブ
「光永さん」
後半開始早々、横須賀FWが光永に声をかける。
光永と接触した元同僚だった。
「たいしたことなかったみたいすね。よかった」
にやついた顔からは微塵も誠意が伝わってはこない。
光永は男の方を見ようともせずに、ずっと戦況だけを見つめていた。
ボールは横須賀陣内にある。
数的アドバンテージによってフリーとなった彼は、守備に参加することもなく一人北尾陣内で攻撃の機会をうかがっていた。
「光永さん。ハーフタイム、俺らが何て言ってたか教えてあげましょうか」
無視を決め込む光永。
するとおもしろそうに笑って男は続けた。
「もし、もしですよ、そんなことないでしょうけど、もし同点にされたら何とかしのいで延長にもち込もうって。そしたら俺らは全然動かないから、北尾の奴らにVゴール決めさせてやるんですって。でも試合が終わった後喜んで飛び上がるのは、北尾じゃなくて俺らなんすよねえ。要するに早く終わればそれでいいってことっすよ。こっから一時間くらいのホテルで、ビールかけの用意、もうしてあるんで。田舎ってほんと不便すよねえ」
光永は相変わらず相手にしていない。
それに業を煮やしてか、ちっと舌打ちして男は挑発するように言った。
「かったるいんすよねえ、J2なんて。よく自分からくる気になりましたね、光永さん。俺はこの試合に勝って、とっととおさらばしたいってとこですかね。ま、ここが一部に上がれば別に元のとこに戻る必要もないんすけど。そうだな。うるせえ監督もいないことだし、このチームならレベル低いから目立てるし、ま、いっかな」
「おまえらしいな」
「は?」
「どうせハーフタイム中も一人ではしゃいでいたんだろう。誰からも相手にされずにな」
「……どういう意味すか。光永さん」
「おまえ達の弱点がわかった」
その時、初めて光永が男の方を見た。
「おまえ達の中で必死に戦っていない奴がいる。このフィールドにいるプレイヤーの中で、たった一人だけな。そんな奴がいるチームに俺達が負けるはずがない」
「そうすか」こともなげに男が答える。「言ってる意味がよくわからないんで、試合が終わってからもう一度詳しく聞かせてくださいよ」
「あわれな奴だな」見下げるように言う。「何故おまえがチームから必要とされなくなったのか、いや、J1から必要とされなくなったのかわかる気がする」
「……。なんすか、そりゃ。聞き捨てなりませんね」
むっとなる元チームメイト。
光永は再び男から視線をはずし、淡々と続けた。
「そんな考えじゃ、どこへ行っても同じだと言ったんだ。目立てるのはぬるま湯に飛び込んだつもりでいる今だけだ。そのうち周囲が自分より熱くなって居心地が悪くなる。J1とここにいる彼らの差は紙一重だ。むしろ厳しい生存競争を生き抜いてきた彼らこそ、逆にJ1をぬるま湯と感じるかもしれん。彼らに勝つためにJ1の選手達が対抗できる唯一の手段は、己自身のプライドだけだ。プレッシャーが甘くなるたびにその限界までレベルダウンできるおまえにはそれがない。いっそそのままどん底まで落ちてみたらどうだ」
「その言葉、そっくりそっちに返しますよ」光永を睨みつけた。「元、日本代表の光永さん」
光永は男の方を見ようともせず、それ以上何も言わなかった。
後半二十二分。
横須賀ペナルティ・エリア内でわめき散らす良太を羽交い絞めにし、眉間に皺を寄せたラノスが引きずっていく。
良太の正面に立つ主審の手には、イエローカードが差し出されていた。
相手DFにエリア内で倒された良太に対し、主審はシミュレーションの判定を下していた。
常ならばタックルしてきた相手を逆に吹き飛ばすほどの頑丈さを誇る良太がペナルティ・エリアの中で倒れたことで、姑息な手段を用いたと誤解されたためである。
加えて、先の良太の態度が心象を悪くしていたことも少なからずあった。
「ちくしょう!」
「やめろ、良太」苦しげに顔をゆがめ、ラノスが血を吐くような想いで良太をなだめる。「おまえが正しいことはみんな知ってる。だが退場になったら意味がない。我慢しろ」
「くそ! くそ……」
悔しそうに唇を噛みしめ、無理やり自らをクールダウンさせる良太。
それを後ろから眺めるラノスのまなざしは、己の身体を引き裂かれんばかりに苦痛に満ちていた。
「……。良太、もし限界ならいつでも言え」
「聞きたくねえな、そんなのは!」
ラノスの言葉に反応し、怒ったように声をあらげる良太。
「言うこと、違ってんだろ、あんた。あとたった二十分しかないんだぞ」
「良太……」
「俺にできるのは、最後の最後までバカみたいに走り回ってチャンスを作ることだけだ。走り回って俺が三点取ってやる。あんたらこそ足手まといにならねえようにしっかりしろよ!」
肩で息をし、足を引きずるような良太の後ろ姿を、ラノスは心配そうに眺めていた。
後半三十七分。
「ああああっ!」
横須賀陣内を縦横無尽に走り回る良太。
どこにそれだけのスタミナが残っていたのか不思議なほどだった。
ネグラテからの縦パスを受け、良太が一直線にゴールへと向かう。
途端に三人のDFが潰しにかかってきた。
パスコースを想定して動き回っていたラノスが、良太の動きに妙な引っ掛かりを感じて眉を寄せた。
これ以上の負担はかけられないと思った矢先に、一人をタックルで弾き飛ばした後で良太の身体が横にぐらっと傾く。
直後の矢のようなスライディングタックルを、良太はジャンプしてかわすことができなかった。
もはや跳ぶ力さえも残さないほどに疲れ切っていたのである。
スパイクアタックをまともにくらい、右足に激痛を認め良太が立ち止まる。人並みはずれた気力とバランス感覚で、崩れ落ちる寸前にくるりと振り返り、血反吐のようなパスを繰り出した。
アドバンテージを見た主審がファウルを流す。
後方からパスを受けたのはラノスだった。
ワンテンポ崩したフェイントでDFを抜き去り、キーパーと一対一になった。
「くそっ!」
飛び出すGKの防御パターンを冷静に予測し、ふわりと蹴り上げる。
ボールは緩やかな弧を描いて、そのまま無人のゴールに吸い込まれていった。
沸き上がる北尾スタジアム。
だがラノスはその直後、祝福のキスをするためのボールではなく、良太のもとへと駆け寄っていた。
良太は右足のふくらはぎを押さえてうずくまっている。
「大丈夫か! 良太!」
手をかけるラノス。
すると、ばっと顔を上げ、振り払うように良太が怒鳴りつけた。
「さわんな!」額に脂汗を滲ませるその表情に余裕は見られない。「こんな奴ら、昨日のメンルニゲやバッハブルトのプレッシャーに比べりゃ、屁みたいなもんだ。そんなこと言う暇があったら、とっととリスタートしやがれ。俺達には馴れ合ってる時間はねえんだろ。もう二点取らなきゃ、今までやってきたことがみんなパーになる。ここで勝たなかったら、ドンケツとかわんねえじゃねえか!」
「良太……」
「そんなことより、もっと他に言わなきゃなんねえことがあるんじゃねえのか。早く命令しろよ。あんたの言うことなら、なんでも聞いてやるからよ」ラノスを睨みつけ、良太が押し殺した声で告げる。「あんたが諦めない限りはな」
集まってきた津上達は、表情もなく二人を眺めるだけだった。
良太の決意に、ラノスが目を細める。
それは静かだが厳しい表情だった。
「おまえ、ドイツから同点ゴール決めた時、気持ちよかったか」
「はあ?」
ふいに話を始めたラノスに、良太が気の抜けたような表情を向ける。
「最高だっただろ」
「んなの……」
「それで満足できたのか」
「……」
言葉を失う良太に背を向けて、ラノスは淡々と続けた。
「昔、他のどんなゴールよりも、同点ゴールこそが価値があると言っていた奴がいた。何故ならチームの窮地を救い、瀕死の状態から蘇らせるのが同点ゴールだからだ。価値観の違いはあるが、完全に否定もできん。ジョホールバルの同点ゴールには、俺も興奮を隠せなかった。だが俺にとってもっと大切なのは、勝ち越しゴールだ。正直、その後の逆転ゴールには、嫉妬の感情しかわかなかった。おまえがどう思おうと勝手だが、俺はあくまでも勝つことにこだわりたい。今日の試合は特にだ。同点ゴールが記憶に残る試合には意味がない。逆転ゴールの興奮に打ち消されてこそ、同点ゴールの真の価値がある。時間内に一点取ってこい。それが今日のおまえのノルマだ。同点で満足するような欲のない選手には、それが精一杯だろう。それすら無理だと言うのなら、俺にあと二回チャンスを作れ。おまえは俺の逆転ゴールのお膳立てをしさえすればいい」
「……。約束しろ」
ラノスの眉が動く。
「もしあんたじゃなく、俺が逆転弾決めたら、二度とヒヨッコ扱いしないって」
「よしわかった。これからはおまえを一人前扱いしてやろう。認めてやる。おまえの勝ちだとな。だが悪いが、勝利のゴールはおまえには渡さない」
脂汗にまみれた良太の顔がにやりと笑った。
「その言葉、忘れるなよ」
よろめきながら立ち上がる。
「俺は必ずあんたに勝ってみせる。必ずあんたに、俺を認めさせてみせる」
周囲の視線も気に止めることなく、睨み合うチーム最年長と最年少の二人。
年の差はあれど、それはまぎれもなく、戦い続ける男の顔だった。
良太を置き去りにして、すたすたと歩き去って行くラノスを、津上が追いかける。
「おい、ラノさん、いくらなんでもあいつはもう無理だ」
珍しく気弱な様相だった。
「ただでさえ一人少ないってのに、エースがあれじゃあな。……俺達で取るしかねえか」
津上の膝もすでにガクガクと笑い始めていた。
「楽しいな、ガミさん」
「は?」
想いもよらぬ朗らかなラノスの声に、津上がその背中を凝視した。
すると一層楽しげに笑い、ラノスが振り返った。
「こんな時だというのに、協力し合うどころか、噛みついて張り合ってくる奴が味方にいる。諦めている場合じゃないだろ。俺は今、横須賀のどの選手よりも、あのバカに勝ちたくて仕方がない。きっとタツも同じ気持ちだったんだろうな」
「……」
「これは俺とあいつのマッチアップだ。誰にも邪魔はさせない。ガミさんにもな」
あ然とし、言葉を失う津上。それからあきれたように笑い、いつもの調子を取り戻した。
「まったく、ついてけねえよ、ラノさんには。どっちが噛みついてたのか、わかったもんじゃねえぞ」
「そう言いながら、いつも俺をアオッてくるのは、どの口だ」
「さあね」
疲れも焦りも、見上げる空の彼方へ押しのけ、二人が楽しそうに笑った。
後半四十四分。
誰もの脳裏に諦めが浮かび上がり出した頃合いにそれは起こった。
横須賀DFのクリアしたボールをカットし、ライン際を走り出す良太。
疲労はピークに達し、スピードもパワーも、いつもの面影は見られない。
だがよろめきながらも良太は走り続け、フリーキックを獲得することに成功したのである。
相手のスライディング・タックルをまともに浴び、両膝をガクリと折る。それでも片手をついて身体を支え、また走り出したところを、別のDFに後ろからチャージされて吹き飛ばされたのだった。
かなりハードな接触ではあったが、決定的な局面でもなく、ゴールエリアからも離れたポイントだったため、イエロー・カードの提示で済まされる。
当然良太の心象補填も加味された結果だった。
決して横須賀が好んでダーティなプレーをしてきたわけではない。それだけ彼らも必死だったのである。
それは良太を始めとする北尾の選手達にもよくわかっていた。
「良太!」
受身もとれずにフィールドの外へと弾き飛ばされた良太に、仲間達が心配して駆け寄っていく。
その声すらも耳に入らぬ様子で、良太はゆらりと立ち上がり、何ものかを目で追い始めた。
ボールを探しているのだ。
三十五メートル先にそびえる、横須賀ゴールへ蹴り込むための。
ラノスが良太の足もとをちらと見やった。
良太の両足は誰が見てもわかるほどに、大きく揺れ続けていた。
もうこれ以上、一歩も歩くことすらままならぬほどに。
「貸せ、俺が蹴る」
ボールを無理やり奪い取り、良太を睨みつけるラノス。
良太もそれ以上の激情をまなざしに乗せ、ラノスを睨み返した。
「好きにしろ」
ぼそりと告げ、良太がラノスに背中を向ける。
ほっとするよりも、哀しみをたたえたような顔つきで良太を見守り、ラノスはボールへ祈りを込めた。
試合はロスタイムに突入しようとしていた。
両サポーターの応援は絶頂とも言える騒がしさだった。
そのさ中、ラノス一人が何事も届かぬ無の空間にいた。
ライン右側から、壁とキーパーのブロックによってさらにマウスの狭まったゴールを見据える。
針の穴のようなそれは三十五メートルという距離以上に遠く感じ、カミソリ一枚とて入る隙間が見当たらないイメージを否応なしに押しつけてきた。
ゴール前に飛び込もうと身構える味方達の姿も、ひたすら小さく映る。
フリーキックなら腐るほど蹴ってきた。だがこの距離から狙って枠に入れた記憶はなかった。
集中を高めるラノス。
すうー、と深呼吸し、活目した。
そしてもう一人。
良太は何もかもを忘れ、その背中だけを見つめていた。
野次も応援も聞こえない。
ただ目の前の人物の姿だけを、その記憶に刻みつけようとしていた。
たとえそれがどんな結果になったとしても。
二人の呼吸は、どこか剣術の居合のそれに似ていた。
一瞬の交錯で雌雄が決する、生死をかけた対峙。
その消耗は正に、まるまる一試合分以上のプレッシャーに相当するものだった。
このピッチ上に、その重圧に耐えられるプレイヤーはもはや存在しないはずだった。
たった二人を除いて。
二人だけが共有する極めて静かな空間の中、激しい打撃音をともない、ひしゃげたボールが空高く舞い上がる。
それは次の瞬間、綺麗な弧を描き、反り返るキーパーの手のひらから逃げるように、横須賀ゴールの一番深い場所へと吸い込まれていった。
同時に巻き起こる歓声と飛び上がる仲間達。
その一部始終を、外側の世界から良太が眺めていた。
決して忘れないよう、しっかりと目に焼きつける。
過酷な戦場を自らの意志で渡り歩き、何も伝えずに去って行く英雄の姿を胸に刻みつけるように。
『勝てるわけねえだろ、こんなの……』
喜びもさておき、決死の形相でボールを掴み取ったラノスがセンター・ラインまでダッシュしていく。
ラノスに続く仲間達の勇姿も視界におさめた。
「もう一点取るぞ!」
咆哮するラノスのシルエットがぼんやり滲み出す。
『勝てるわけ、ねえじゃねえか……』
どこまでも高く青い空を仰ぎ、良太が、ぐっと唇を噛みしめた。
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