8.プライド

 横須賀コマンターレは徹底的なカウンター狙いだった。

 横須賀はこの前後半九十分を負けなければJ1昇格が決まる。危険を冒してまで点を取りに行く必要はない。

 自陣の懐深く構えて守備に神経を集中させる相手に、焦りの色を隠せない北尾。

 点を取らなければ明日のない彼らは、とにかく攻め続けるしかないのだ。

 その焦りが裏目に出た。

 不注意から横須賀にボールを奪われ、決定的な局面でDFが相手FWに背後から危険なタックルを敢行してしまう。

 ペナルティ・エリアの中で起きた一瞬の出来事は、北尾の選手が一人一発退場、横須賀には一点を献上する結果となった。

 開始早々、一人少ない状況で戦うことを強いられるマッハ・エーティーエイト北尾。

 試合は確実に横須賀のペースとなりつつあった。

 人数で劣る北尾は精彩を欠き、横須賀に何もさせてもらえない状況が続いていた。

 いつもの波状攻撃はすっかりなりをひそめ、ゴリ押しの単発攻撃に頼るだけでは、現時点でJ2最強布陣と言われる横須賀の分厚い壁を突き崩すことは、誰の目から見てもほぼ不可能と思われた。

「リアルにやっかいだな、この一点差は」

 接触プレーで倒れたプレイヤーによって試合が中断され、水分補給をしながら津上が呪いの言葉をつらねる。

「俺達はマイナススタートだからな。相手より一点多く取って、初めてスタートラインだ。事実上の二点差みたいなものだな。二点差はリードしている方が危険だとかよく言うけどよ、勝たなきゃならない試合の二点差は、実際それ以上の心理的なビハインドだからな。開き直ってガンガン攻めろったって、どうしても相手のカウンター警戒して足がすくんじまう。無理をして点差が広がれば致命傷になりかねないし、そのうち足もとすくわれて追加点の自滅パターンだ。悪循環だな」

 同じ顔をしながら、ラノスも呻き声をあげた。

「最悪なのは、やっとこ同点にした直後の失点だろう。あと一点と、また二点、は雲泥の差だからな。希望の後の絶望は、それこそ心ごとへし折られる」

「十人のチームにそれ以上のモチベーションを期待する方が酷ってもんだろ。完敗パターンがよぎっちまうからな」

「もうよそう」ドリンクを口に含みながら、ラノスが顔をゆがめた。「こんなこと考えてたってしかたがない」

「だな」

 その不安はまもなく最悪の形となって的中することとなる。

 ワンミスからのカウンターで、横須賀に簡単にゴール前まで持ち込まれる北尾。

 光永の好セーブで一旦は危機を脱したかに思えたが、DFのクリアミスによってボールを奪われ、ペナルティエリア内で敵FWとGKが一対一の状況となった。

 接触プレーも恐れずに果敢に飛び出していく光永。

 それが仇となる。

 相手より一足先にボールに触れようと伸ばした光永の左の手のひらごと、相手FWはボールを思い切り撃ち抜いたのだった。

 ゴールを告げる長い笛の音。

 追加点に喜び飛び跳ねる横須賀選手達とは対照的に、北尾陣営は失点以上の代償を支払わなければならなかった。

「光永さん!」

「タツ!」

 左手を押さえて倒れ込む光永に、心配そうに駆け寄る仲間達。

「審判、どこ見てやがる!」

 目をつり上げ、凄まじい剣幕で良太が主審に食いつき始めた。

「今の完全にチャージだろうが。なんで、ふぐうぐ……」

 ラノスに口を塞がれ、良太が引きずられていく。

 ラノスの神妙な表情と低姿勢な謝罪態度に、とりあえずのおとがめはなしとなった。

「ぶはっ!」

 呼吸困難から解放されるや、キッとなって、良太がラノスを睨みつける。

「なんで止める! 今のは!」

「ちゃんとボールにいってる。残念ながら、シュートコースに手を出して止められなかったタツの負けだ」

「でもよ、あいつ、わざと! あんなのわかっててだろ! 絶対よ!」

「絶対かどうかは問題じゃない。それを躊躇なく振り抜いたのは、あのFWの心の方が強いからだ。勝利に対する執念で俺達は劣っていた。それだけだ」

「あ……」

 押し殺したような声を噛みしめた奥歯の間から漏らすラノスに、良太は何も言えなくなった。

 気持ちはラノスも同様だった。

 ただそれを言ったところで判定が覆るはずもなく、逆にカードを出されかねない。

 それは勝たなければならない人間達の選択からは程遠い結末だった。

「もっとも最悪だな……」

 津上の呟きに、ラノスが恨めしそうな顔を向ける。

「日本語が間違っているぞ、ガミさん。だが」ギリと奥歯を噛みしめた。「今の状況を表すのに、それ以上的確な表現はないな……」


「大丈夫ですか、光永さん」

 接触した横須賀の選手が光永の顔を覗き込む。

 そこに誠意はかけらも見られなかった。

 先取点のペナルティ・キックを決めた、レンタルで横須賀に籍を置く、かつての光永のチームメイトだった。

「てめえ! わざとやりゃあがったな! ふぐうぐ……」

 再びいきり立つ良太の口に、ラノスが拳を押し込んだ。

 肩をすぼませながら、くわばらくわばらと立ち去って行く相手選手を横目で流し、ラノスが悲痛な声を押し出した。

「タツ、大丈夫か」

 答える余裕すらなく、光永が手を押さえ悶絶する。

「無理をしない方がいい」

 ラノスの諦めたような声に、光永はただ悔しそうに奥歯を噛みしめていた。

 そこへ良太がやって来た。

 光永を見るなり、眉を吊り上げて噛みつき出す。

「何やってんだ、おっさん! とっとと立ちやがれ!」

「良太!」

 ラノスの制止する声も届かなかった。

 良太は光永だけを睨みつけ、己の全てを叩きつけようとしていた。

「なんのためにこんなとこまでやって来やがった。ここでケツまくって、この先またずっと後悔するためかよ!」

 その叫びに光永の想いが隆起し始める。

「こんなとこでポシャっていいのかよ。あと一つじゃねえか。後で死んでもいいから、今だけ根性みせろよ!」

「良太っ! 無茶言うな! おまえにタツの選手生命を決める権利はない」

 ラノスが良太の胸倉を掴む。

 今にも殴りかからんばかりのラノスの激情にも動じることなく、良太はうずくまる光永をずっと上から睨みつけていた。

 ラノスがわずかに眉を揺らす。

 良太の表情から険が抜けていた。

 濁りのないまなざしで、ひたすら真っ直ぐ良太は光永の顔を直視していた。

「代表のゴールは死ぬ気で守れても、潰れそうなチームのゴールなんざバカらしくて守れねえかよ。それがあんたのプライドか」

 光永の背中がピクリと反応した。

「やれるだけのことやって、仕方なかったって誰かに慰めてもらえりゃ、それでいいのかよ。よくやったって認めてもらえれば満足なのかよ。そんなもんで満足できるくらい、あんたのプライドは安っぽいものだったのかよ。だったら好きにしろよ。そうやって過去の栄光いつまでも引きずってりゃいい。女々しくよ」

 ふいに光永がむくっと起き上がってきた。

 鬼の形相で睨みつけるその迫力に、さしもの良太も一歩退く。

「……な、なんだよ」

「小僧、言いたいこと言いやがって。女々しいだと。安っぽいだと。てめえに一体何がわかる」

 唸るように言い、光永がくるりと背中を向ける。

 それから何事もなかったかのように、ゴールに向かって力強く歩き出した。

「後でぶん殴る。覚えておけ」

 それをまばたきもせず、静かな表情で良太が受け止める。

「逆転できなかったら、好きなだけ殴らせてやらあ。そのかわり、これ以上点取られやがったら、俺があんたをぶん殴る」

「上等だ!」

 一度も良太の顔を見ずに、光永が吐き捨てる。

 怒りに打ち震えるその背中を眺め、津上が惚けたように言った。

「おい、タツ、手当はいいのか」

「そんなもの、後だ!」振り向きもせずに怒鳴り散らす光永。「こんな時に引っ込んでいられるか!」

 表情を正し、光永を見続ける良太。

 それに気づいて、ラノスは目を細めた。


 横須賀に押さえ込まれたまま、ハーフタイムがやってきた。

「タツ、たいしたことなかったらしい。ただの打ち身だ。それよりあいつの方が心配だ」

 津上がフィールドに目をやる。

 タッチラインの近くで良太が寝転んでいた。

「少しでも体力の消耗ケチって、あんなとこで休んでやがる。限界なんだよ、いくらなんでも。無理もねえな。まるまる一試合走り回ってきたばかりだからな。もう足がガクガクで、立ってるのも辛いんじゃねえのか。あのガキ、そんな弱音、絶対に吐かねえだろうがな」

 ラノスがそれを受けた。

「あいつはいるだけで相手を警戒させることができる。何をするか全く予想がつかんからな。それにあいつ自身が望んだことだ。あいつが自分から言い出すまでは好きにさせるさ」スポーツドリンクを口から遠ざけ、フィールドの脇でぜえぜえ喘ぐ良太の姿に目をやる。「益田監督も同じ意見だった。他の奴らもな」

「ラノさん……」

「わかってるだろ。あいつは一分しかないロスタイムで十点差をつけられていたとしても、最後の最後まで絶対に諦めない大バカ野郎だ。たとえ相手が誰だろうと同じだ。タイムアップの瞬間まで決して諦めたりしない。ガキのころからな。だから俺は、あいつとチームを組みたいと、ずっと思っていた」

「……なるほどな」

「一生懸命やっていれば必ず報われるなんて思わない。勝負の世界はそんなに甘くないからな。だが、何かが起きた時チャンスをものにできるのは、諦めが悪い奴だと昔から決まっている」

「そりゃラノさんのことだろ」

 一瞬笑いかけたラノスが、ふいに真顔になった。

「このチームはあいつが引っ張ってきたチームだ。死にかけてたチームが蘇ったのは、あの大バカ野郎のおかげだからな。俺にできるのは、最後まであいつにつき合ってやることだけだ」

 津上もラノスと同じ顔になった。

「相変わらずの浪花節だな、ラノさんは」

「当然だ。俺は日本人だからな」

「それもそうなんだけどよ」津上が思い出したように口にする。「あのこと、他の奴らに言わなくていいのか」

「ん?」すぐにラノスがピンとくる。「勝っても負けてもってことか」

「ああ。確かにそれ言っちゃ気勢をそぐことにはなるけどよ、それがわかってんなら坊主もタツにあんな無茶言わなかっただろうし、もっと気楽にいつものサッカーができるんじゃねえのか」

「いつものサッカーをしていて、彼らに勝てると思うか」

 ラノスが横須賀の控え室の方へと顎をしゃくってみせる。

「彼らは真剣にこの勝負に臨んでいる。大事な最終戦をアウェーで行うという不利な状況でな。負けなければいいというのは、負けてはならないということでもある。むしろ勝つしかないというシンプルな思考の俺達より、一見優位に立っている彼らのプレッシャーの方が何倍も重いんじゃないのか。それが二対〇という結果につながったんだと俺は思っている。負けられないと強く思っている方と、負けても仕方ないと思っている方、どっちが勝利に近いか、ガミさんならよく知っているはずだろう」

 ラノスに真剣に見つめられ、津上が口を閉ざす。

 二人とも過去の苦い経験を思い起こしていた。

「それにな、ガミさん。もし俺達が自分達の敗北を快く受け入れてしまったら、それを踏み台にしてステップアップしていった彼らとの差は、それこそはかり知れないものだと俺は思うよ。その差は来年一年くらいで到底埋まるものじゃあない。ヘタをすると一生追いつけないかもしれない。だから俺達にとって、今はこの試合のことだけを考える以外になんの意味もないと考えた。いや、むしろ言っても何も変わらないと思った」

「?」

「そんなことで折れるようなチームなら、ここまでこれなかっただろうからな。きっと良太は、それを知っていても同じことを言っただろうな。もちろん、タツも」

「なるほどな。だったら水を差すようなことは不要だってことか」

「そうだ、ガミさん。よくわかってるな」

 重々しく頷くラノスに、津上が苦虫を噛み潰したような顔になる。

「負けてもいいと思っていたのは俺だけか」

「たぶんな。前半の二点はガミさんのせいだ。責任は取ってもらうぞ」

「そういうことなら仕方ねえな」

 にやりと笑うラノスに、津上もにやりと返す。

「ラノさん」

「……」

「感謝してるぜ。俺なんかに声かけてくれて。最後の最後に、またこんないい夢見られるなんてよ。いい思い出ができたぜ」

「まだ思い出にされちゃ困るね」ふっと笑うラノス。「これからが本番なんだから」


 マッハ・エーティーエイト北尾のキックオフで後半が開始された。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る