6.譲れないもの
現在、良太はリーグの得点王だった。
二位の函館のザルドスに十得点近い差をつけており、もはやJリーグ全チームが認めるナンバーワン・ストライカーとも言えた。
高校在学中から現在に至るまで、J1各チームは良太の獲得に手を休めることはなかった。すでに集客効果も北尾で証明されている。莫大な移籍金を払ってでも、ぜひとも獲得したい選手の一人だったのだ。
そんな良太がナショナルチームの一員となるべく可能性を試されることは、当然の成り行きとさえ言えた。
これは喜ぶべきことである。
普通の選手ならば……。
「行かないってどういうことだ!」
ラノスの怒鳴り声がミーティングルーム内に響き渡る。
それを面倒臭そうに眺め、良太がこともなげに言った。
「だってよ、そんなの行ってもしようがねえだろ。ダイヤスキー・カップだか何だか知らねえけど、たかだかイギリスだかドイツだかと練習試合するためにヨーロッパまで行きたかねえよ」
「練習試合じゃない! 国際Aマッチだぞ!」ラノスが机をバンと叩いて立ち上がった。「サッカーの本場でのイベントだ。招待される他のチームはみな一流の国ばかりだ。それに日本が招待された。そのメンバーとして加わることができるんだぞ!」
「まだわかんねえよ。来週の合宿しだいでだろ。でも俺、行かねえけどな」
「何故行かない」
「だって来週試合あるじゃん」
「そんな試合、おまえ一人くらいいなくても勝てる」
来週はJリーグカップの決勝トーナメントが予定されていた。
ちなみに北尾の次の相手は、J1ファーストステージ優勝チームのマントラーズだった。
「来週はそうかもしんねえけどな、もし俺が本当に代表にでも選ばれちまったらどうすんだよ」
「何がだ」
「ダイヤスキー・カップの日程見てみろよ。来月の十四日から十日もあるんだぜ。リーグ最後の二試合にちょうど引っかかっちまう。ドイツとやった次の日が最終節の横須賀戦だ。いくらなんでもこりゃ辛いぜ」鼻をほじる。「てめえんとこの都合しか考えてないような大会なんざ、出る気にゃなんねえな」
「J1の中断期間中だ。どこの主催国が二部リーグの予定まで配慮する必要がある」
「それがおかしいって言ってんじゃねえか」
「国際Aマッチと二部リーグの試合とどちらが大事だと思っているんだ」
「んなの当然リーグ……」
「Aマッチだ!」
「なんでだよ!」
「そんなの当然だろうが!」
「わかんねえな! 俺には!」その時、言ってはならない言葉を良太は口にしてしまった。「たかが代表だろうが!」
ガタッ!
光永が立ち上がる。
その体は怒りに打ち震えていた。何も言わずに、良太に近づいて行く。
静まり返る室内で、良太やラノスも含め、全ての視線が光永に集中していた。
「なんだよ、おっさん……」
目の前に立つや、光永は良太の声を遮ってその胸倉を掴み、ぐいと締め上げた。
「何すんだよ、おっさん!」
「タツ!……」
止めに入ろうとしたラノスが言葉を失う。
光永の表情から珍しく感情があふれ出ていた。
その意味をラノスはよく知っていた。
「たかがだと! ……たかが代表だと。もう一度言ってみろ……」感情に押し潰されて消え入りそうな声。それが一気に噴出した。「もう一度言ってみろっ!」
「やめろ、タツ」
ラノスが光永の肩に手をかける。その悔しそうに歪む顔を静かに見つめた。
「もういい」
光永がギリと歯がみする。くっと一声呻いて良太の体を思い切り椅子の上に叩きつけた。
それからラノスの呼びかける声も聞かず、光永は激しく肩を怒らせたまま部屋から出て行った。
「タツ!」
「おーいて」良太が口をへの字に曲げる。「なんだありゃあ」
「良太」
「?」
津上が真剣な眼差しで良太を見ていた。ふいに淋しそうな顔になる。
「タツが何年か前までは、ずっと代表の正ゴールキーパーだったことは知ってるだろ」
「……だからなんだよ」
「俺やラノさんと一緒にいろいろな国と戦ってきた。結果が出せずに悔しい思いをしてきたことも腐るほどだ。だがな、俺達は代表であることにいつも誇りを感じていた。代表はサッカーをやる者全員の夢なんだ。願うだけで手に入るものじゃない。願っても届かない者達のためにも、俺達は精一杯戦ってきたつもりだ。別におまえがどう思っていようが俺はかまわん。だがな、そこに自分のサッカーのすべてをかけている者がいる以上、おまえの言葉は黙って聞き逃すわけにはいかんよ」
「やめろ、ガミさん」振り向きもせずにラノスが言う。「こいつにそんなことを言ってもわからんよ」
津上がちらとラノスを見た。それからまた良太に向き直る。
「練習中にケガしてからだったよな。タツが試合に出られなくなったのは。ケガは一カ月もしないで治ったのに、その間に出てた若い奴の出来がよかったから、タツは試合に出られなくなった。実力はそんなに大差ない。ただタツよりも若くて人気があった。それから二年間、タツは控えにまわった。それまで当然のように代表入りしていたのに、以来ぷっつりだ。ピークをすぎて自分から泣きを入れて引退した俺なんかとは違う。タツは全盛期の自分を維持しながら、その力を政治によって封じ込められたんだ。おまえにだってわかるだろ。認められたくても、その機会すら与えられない者の悔しい気持ちが」
「……」
良太は何も言おうとしなかった。ただじっと己の拳を見つめ、悔しそうな顔で奥歯を噛みしめていた。
良太が夜の練習場に出向く。
そこで一人黙々と走り続ける光永の姿を、金網越しに見つけた。
良太は知っていた。
いつも一番最後まで残って、光永がトレーニングを続けていることを。
三十四歳の光永が、である。
光永が代表メンバーに選ばれたり、それまでのサッカー人生で脚光を浴びてこられたのは、こうした人知れずの、そして人並み以上の努力があったからに他ならなかった。
その希望を一方的に摘み取られる悔しさは尋常ではないはずだった。報われない努力をいくら続けたところで、戦いの場所へのエントリーさえ許されないのだから。
良太が金網を両手で掴む。
光永の胸の内が手に取るようにわかった。
「リョーター」
振り返るとそこにネグラテの姿があった。
いつもどおりの笑顔。だが少しだけ覇気がないようにも思えた。
「……ルイス」
沈んだ顔の良太に、ネグラテはうろ覚えの日本語を懸命につなげて自分の気持ちを伝えようとした。
「ダイヒョウ、ナテクダサーイ。ダイヒョウ、スゴイコト。ワタシ、ダイヒョウ、ホコリデシタ。チームノミンナモホコリデシタ、ワタシノコト。オナジチームノ、プレイシタノナカマー、ダイヒョウナルノ、ワタシタチモナルノトオナジコト。リョーターガダイヒョウナコト、ワタシタチノホコリ。ワタシタチ、ウレシンデ、シアイデキマス。チカラデマス、イッパーイ。ダカラリョーター、ダイヒョウナテクダサーイ。ワタシタチノタメ、ダイヒョウナテ」
「ルイス……」無理をして、にやっと笑ってみせた。「まかせろ、ルイス!」
良太が拳を突き出すと、ネグラテも同じポーズで陽気な笑顔を返してきた。
ネグラテが手を振って背を向ける。
その後ろ姿が小さくなっていくさまを、良太は静かに眺めていた。
それと入れ替わるように現れた人影があった。
「良太」
ラノスだった。
ラノスの横で金網にもたれかかって、良太が神妙な顔をする。
ずっと自分自身を見つめていた。
「おっさん」
「なんだ」
リフティングをし続けるラノスは、良太の呼びかけに振り向こうとはしなかった。
「俺は間違ってるのか」
「間違ってるな」
「!」
「おまえがどう思おうと勝手だ。だがそれを口に出すのは間違っている」
「……」
「前にタツは代表の試合で、親指を骨折しても最後までゴールを守り続けたことがある。泣き言一つ言わずにな。勝ったからいいようなものの、大事な試合でそんな自分勝手、許されるようなことじゃない。他に控えのキーパーもいるんだからな。自分のわがままを通すためだけに、仲間をバカにしているという声も出た。それでも絶対に他の人間にはゴールを守らせたくなかったんだろうな。あいつにとって代表の試合は特別なんだ。何があっても譲れない、あいつのプライドなんだろうな」
「そんなのよ、おかしいじゃねえか……」
「誰にだって譲れないものがある。おまえがそれを持っているようにな。同じだろ」
「……。あんたにとって譲れないものってなんだ」
「忘れた。どうせおまえに言ってもわからんよ」
「……俺は」良太が口ごもる。「……やっぱり、いい」
ハハハ、と高らかにラノスが笑った。
「……おっさん、なんでサッカーやってんだ」
「決まってるだろう。好きだからだ」
「……。そうか」
「いや、そうじゃない」
良太が顔を上げ、不思議そうにラノスを眺めた。
「確かにそれもある。だが本当のところは、俺にはサッカーしかなかったからだ」
「……」
「俺が生まれた国は貧富の差が激しい。そこでのし上がるには、誰にでもチャンスのあるサッカーを利用するしかなかった。それとサッカーをしている時だけは、みんなが俺を認めてくれた。他に取り柄がなかったからな」
「俺と同じじゃねえか」
「おまえの家も貧乏だったのか?」
「そうでもねえ。でも体動かしてる時しか、俺は誰にも認めてもらえなかったんだ」
「ははっ、おまえ頭悪そうだからな」
「笑いごとじゃねえよ」
「バーカ」ラノスがちらと良太の方を見る。「頭の悪い奴にサッカーができるか」
「……」
「おまえ、何故このチームに来た」
「!」
良太の動きが止まる。
ラノスは良太の顔をまじまじと眺めながら言った。
「おまえなら、もっといい条件でどの球団にでも入れたはずだ。それが何故マッハなんだ」
その問いかけに、良太は答えようとはしなかった。
ラノスが良太から目線をはずし、遠くを見つめた。
「小学生の時だったかな。その時はウェルビィに入団したいって言ってたと思ったが」
「! なんでおっさん、そんなこと知ってんだよ」
「おまえ、俺がスクールに行ったチームにいたろ」
「……。覚えてんのかよ」
「まわりより格段に目立ってたからな。おもしろい奴だと思った。今ほど目茶苦茶じゃなかったが」
「あー、思い出したぞ! 滅茶苦茶はあんたの方だろうが。小学生相手にムキになりやがって!」
「おまえが、将来日本代表になってセレソンに勝つ、とかぬかしたからだ。芽は小さいうちに摘み取るのが得策だからな」
「そんなマジにとんなくたっていいだろうが。いくら自分がブラジル人だからってよ」
「そうじゃない」
「は?」
「おまえが代表になりたいと言ったからだ。だったらライバルだからな。早めに叩いておこうと思っただけだ」
「あんた、自分のことばっかだな、ほんとに。次の世代を育成しようとか頭にないのかよ」
「そんなものあるか、バカたれ」
「はあ!」
「俺が現役である以上、すべてのサッカー選手がライバルだ。誰が敵に塩を送るようなマネするか」
「敵って……。大人げねえな、小学生相手に」
「なんとでも言え。それと俺は日本人だ。生粋のな」
「生粋じゃねえだろ……」
「ま、引退して指導者にでもなったら、おまえみたいなバカモノにも俺の秘伝を授けてやってもいいがな。ハハハーッ!」
「……」
ラノスの憎まれ口も、良太の耳には届いてはいないようだった。
意外だった。
そんなに前から、ラノスが自分のことに注目していてくれたことが。
「このチームが好きなのか」
「いや、そうでもねえ……」口ごもる良太。「正直言って、最初は後悔した。なんでこんなとこに来ちまったんだろうって。でも今は違う。なんだか居心地がいい。自分の場所を見つけたみたいな感じだ。最初はムカついたが、他の奴らも結構真面目にサッカーやってるしよ。このチームでJ1に上がりたいって、マジで思う」
「俺と同じだな」ラノスがふっと笑う。ふいに真顔になって良太を見つめた。「良太。日本代表に選ばれてこい。そして試合で世界中に認められてこい。それがこのチームから一流のサッカー選手が育った証しになる」
「おっさん……」ふいに良太が眉を寄せる。「ポシャったら解散なんだぜ。代表になっても帰って来る場所がないんじゃ、意味ねえだろ。俺、そんなのやだよ。それにおっさんだって……」
「後のことは心配するな。俺達だけでなんとかしてみせる。約束する。おまえがヨーロッパから帰って来た時、俺達はJ1の新加入チームとして、必ずおまえを迎えてみせる」
良太が頷く。
真摯な眼差しの奥に、言葉にできない想いがあった。
「良太、一対一だ、来い」
夜のグラウンドを照らす照明と月明かりの下、良太の前で華麗な切り返しを披露するラノス。
良太もラノスからボールを奪うべく走り出した。
交錯する遠き想い。
幼き頃、一人の選手に憧れてサッカーを始めた。
周囲の他の仲間達が目標にする、派手なプレーをしたり格好のいい選手達など見向きもせずに。
目指すスタイルは異なるが、ひたすら熱く、ひたむきにプレーするその姿に魅了され続けてきた。
彼と同じチームでプレーすることだけを目標に打ち込んできた。
幾年か前、彼ら代表メンバーは国際舞台で苦汁をなめることとなった。
悔しくて涙が出た。
そこには光永や津上の姿もあり、自分がそこにいて、彼らの手助けができなかったことが歯痒くて仕方がなかった。
彼らと、否、彼と同じ日の丸のユニフォームを着て、雪辱を晴らすのが良太の夢だった。
その選手が今、良太の眼前にいた。
夢はあと数センチで叶うところまできた。
しかし肝心の彼は、もう同じユニフォームを着ることはない。
それどころか、もし一部に昇格できなければ、すべてが消えてなくなる。
どんな形になろうが、何一つ望めなくなるよりはいい。
しかしそれすらなくなるのだ。
昇格できなければ……。
「ハッハーッ、まだまだだな、良太。おまえのフェイントは超見え見えだ」
「うるせえよ、いいトシして超とか言ってんじゃねえ」
ラノスからボールを奪おうと懸命に追いかける良太。
何も見えなかった。
汗を拭うついでに、目尻の涙も一緒に拭い取った。
それでも想いは次々にあふれてくるようだった。
「どうした、そんなことじゃ代表どころか、Jでもおはらい箱になっちまうぞ」
「うるせえよ、おっさん……」
その後の言葉を飲み込んだ。心の中で繰り返す。
『やめないでくれよ』
「ハッハーッ、どうした、どうした……」
『やめないでくれ……』
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