3.三匹の元サムライ
「津上さん、復帰するって本当ですか」
馴染みの記者から声をかけられ津上俊樹は振り向いた。
黙って頷く。
すると記者は嬉しそうに笑って言った。
「そうですよね。まだ早いと思っていたんです、引退なんて。津上さんは解説者なんかにおさまっているようなタマじゃないですからね」
その言葉ににやりと笑う津上。
「買いかぶりすぎだよ。自分から売り込むだけの実力はもうない。こんな俺でもプレイしてくれってチームがいるから仕方なくだ。駄目だったらすぐ引っ込むって条件つきだしな」
その表情が上辺だけの謙遜からはかけ離れた自信に満ちたものだということに、記者は気づいていた。
「どのチームなんですか」
「知りたいか」
津上の瞳が怪しく光った。
「光永さん! 光永さんっ!」
一回り以上年下の若者に引きとめられ、両肩に荷物をぶら下げた大男が振り返る。
睨みつける光永に、若者は切なそうな顔を差し向けた。
「どうしたんですか、いったい」
「フロントには自分の意志を明確に伝えてきた。奴らも厄介払いができて喜んでいることだろうよ」
「なんでまた急に……」
「おまえも知っているとおりだ。俺はもうここには必要ない。おまえがいるからな。別のチームになっても戦う機会は少ないだろうが、いつか俺はまた帰ってくる。おまえを引きずり下ろすためにな」
少しも表情を変えずに言う。
淡々とだが、その意志の強さだけは若者にもはっきりと伝わってきた。
最後にぼそりとつけ加えた。
「来年、同じリーグで戦えるといいな」
リーグ再開を一週間後に控えたマッハ・エーティーエイト練習場で、一際目立つ二人の選手の姿があった。
チームメイト達は触れることもできずに、ただ遠巻きに彼らを眺めるだけである。
「まさかこの歳になって、ルーキーと同じ年棒でサッカーやるようになるとは思わなかったな」
ボールをもてあそびながら津上が光永に声をかける。
光永はそれにこたえず、黙々とストレッチを続けるだけだった。
それでも充分にコミュニケーションは保たれていた。
二人はラノスが全盛期だった頃の日本代表メンバーの一員だった。
一部リーグでも十分通用する実力を持ちながら、歳を経たために第一線からは必要とされなくなった元代表メンバー。
格下のJ2で、それも小遣い銭程度の報酬で彼らはこの戦いに臨む決意を固めた。
その真意は、己のプライドのためだけに、である。
「おっさん達もわけわかんねえなあ」
振り返る二人。
そこでぞんざいに立ちつくす良太を、津上が訝しげに眺める。
光永はちらと一瞥くれただけで、またストレッチに戻った。
「こんなところで今さら何しようってんだ。元代表だかなんだか知らねえけど、試合中にちんたらしてやがったら承知しねえぞ……、ってーっ!」
後頭部をボールで弾き飛ばされ、キッと振り返る良太。
すかさずラノスの怒号が飛んできた。
「何さぼってんだあっ! ちんたらやってるならやめてしまえっ!」
「うっせー! わかってるってよっ!」
気まずそうに津上達を眺め、良太が駆けていく。
その様子をぽかんと見守り、表情もなく津上が呟いた。
「噂以上の大バカ野郎だな……」
練習場の片隅で良太はボールを蹴り続けていた。
口をへの字に曲げたまま、両足の甲で交互にリフティングを繰り返す。
「マッチャ・エーティーエイト、ココデスカ?」
片言の日本語が聞こえた方に良太が目をやる。
金網越しにラノスと同年代の、ラテン系の男の姿が見えた。
身長は良太より十センチ以上も低いが、ガッチリとした体型だった。
「なんだ、あんた……」
「ルイス!」
良太の声がラノスにかき消される。
二人は互いの顔を認め合うとどちらからともなく駆け寄り、歓喜の抱擁をするのだった。
良太をはじめ、そこにいた全員がその光景をあっけにとられるように見守っていた。
「元メキシコ代表のルイス・ネグラテだ」
ラノスに紹介されてネグラテが軽く片手を上げる。きちんと整髪された黒髪に白い歯が陽気な笑顔に映えていた。
「八十六年のメキシコで彼が決めた倒れ込みながらのボレーシュートは、大会のベストゴールだと俺は思っている」
言葉は通じないのに、ラノスの言ったことの意味が伝わったらしく、ネグラテは嬉しそうに笑ってみせた。
「知人を通じて知り合い、何度か交流する機会があった。いつかは同じチームでプレイしたいと思っていたサッカー選手の一人だ。熱烈なラブコールがようやく報われた」
「ロートル球団の平均年齢をまたまた引き上げてどうしようってんだよ」
ラノスが声の主に顔を向ける。
不服そうに二人を睨みつける良太の姿があった。
「彼の歳はおまえの倍だが、おまえの三倍は働くぞ」
「口だけじゃ信用できねえな」
「なら実際の試合で確認しろ」
「また無駄遣いじゃねえのか」
「言っておくが彼の年棒は、おまえのと大差ない」
「……」
良太の年棒は将来を有望視されたルーキーには酷なほどの低額だった。
静まり返った雰囲気の中、その笑顔を絶やすことなく、ネグラテは貧弱な日本語を口にした。
「ニポンデフットボールスルノ、ワタシノネガイデシタ、ミンナサント、ラノスト、コノマッチャデ、ビッグゲームシタイデス……」
第十九節。
満を持して挑む、折り返しの第一戦目だった。
二人の元日本代表メンバーを加え、話題性においてもJ2一となったマッハ・エーティーエイト。
夏休み中の日曜日ということもあってか、北尾スタジアムには遠方からも多くの観客がつめかけていた。
その日、観客動員数はチーム発足以来最高の八千人を記録した。
「監督」
ラノスに呼び止められ益田が振り返る。
その笑顔は破顔に近いものだった。
「なんです、ラノさん」
「この試合、俺に任せてもらえませんか」
すると益田が少し心外そうな表情になる。
「任せるも何も、試合が始まったらフィールド上の監督はラノさんでしょう。私には何もできませんよ。私が責任を取れるうちは好きにやってください」
ラノスがにやりと笑う。
かつてラノスの知る監督の中で益田ほど頼りない監督はおらず、また益田ほど信頼できる監督もいなかった。
「んだあ! 五・三・二ぃ!」
試合開始一時間前。
北尾控室で良太が素っ頓狂な声をあげる。
それすらものともせずに、ラノスは当然と言いたげに頷いた。
しかし良太はおさまらない。
「冗談じゃねえぞ! なんで格下の秋田相手に、そんなビビリみてえな布陣しなきゃならねえんだ! 地元のサポーター達の前で、俺らの腰抜けぶり披露しようってのか!」
「落ち着け、良太。誰が腰抜けぶりを披露するって言った」
「だってよお、こんなのいかにもベタベタの守り特化フォーメーションじゃねえか。ガッツリ守って、カウンター一本だけだろ」
するとラノスが面白そうに笑ってみせた。
「何がおかしいんだ、おっさん」
「いや、別に。ただおまえもまだまだサッカーのことがわからないヒヨッコだったんだなって、改めて思っただけだ」
「なんだと!」
「良太」
「……ん」
「おまえ本当にこれが守りの布陣だと思うのか」
「……おお」
少し自信がなさそうに良太が頷く。
するとラノスはますます満足そうに笑った。
「相手もおまえみたいに勘違いしてくれると楽なんだがな」
その言葉の意味がわからずに良太が難しい顔になる。
ラノスの言葉の真意を知る者は、この時点ではおそらく津上と光永、そしてネグラテだけだっただろう。
北尾の選手がフィールドに足を踏み入れた瞬間、スタンドからは嵐のような声援が降り注いだ。
そうした経験に乏しく、それまでホームにいてもアウェーのような気持ちで戦い続けたオリジナルのマッハ・エーティーエイト・プレイヤー達は、思わず身震いするほどだった。
「すげえな」
「これだよ、この快感だよ、求めてたのは」
「おお、今までやってきてよかったって感じだよな」
感動を素直に表現する選手達を尻目に、良太は一層ふてぶてしく行進する。
「国立を知ってしまっているから、これくらいじゃ何ともないか?」
ラノスの声に振り向いた。
「はん?」
「だが、悪くはないだろ」
「……まあな」
「国立にはおまえが目当てで来ていたサッカーファンもいるだろう。だが彼らは所詮観客だ」ラノスがにやりと笑う。「ここにいるのは全員我々の仲間だからな」
「都合のいい時だけのな」
「それを本当の仲間に育てるのが、俺達の仕事だ。こんなにやりがいがある仕事、他にはない」
良太もにやりと笑った。
北尾のスターティングメンバーはGKに新加入の光永、左のサイドバックに同じく新加入の津上を置き、三人のMFの中心に良太、左右にそれぞれネグラテとラノスがついた。FWの二人は良太より技術もスピードもはるかに劣っていたこともあり、それまでワントップ気味に最前線に君臨していた良太にとってこのフォーメーションは到底納得できないものだった。
キックオフ。
「良太、走れ!」
開始早々、ラノスは憮然とする良太を前へと押し出した。
「え?」
「なんでもいいから走れ、今までと同じようにだ!」
「ったく……」
わけもわからず良太が駆け出す。
その陣形はほぼスリートップと呼べるものだった。
良太の視界の隅にルーズボールが流れる。
同時に、そこへと走り込んで来る選手の姿も認めていた。
津上だった。
浮き球をうまく捉え、そのままドリブルで左サイドを走り抜ける。
「走れ! 坊主!」
「俺はボウズじゃねえっ!」
追いすがるDFを急ブレーキでオーバーシュートさせ、津上はペナルティ・エリア内の味方選手を確認した。
二人見える。
一人はおとりに使い、もう一人のファーサイドの選手に合わせようと考えた。
「頼むぜ」
絶妙のセンタリングだった。
頭で合わせようとした良太を一瞬の判断で阻止したのは、相手GKのファインプレーである。
「ナイス、ガミさん。まだ衰えてないようだな」
「昔はもっと精度があったんだけどな」
ラノスに振り返って、津上がばつが悪そうに笑った。
「そんなことない。まだまだいけるよ。今日はあのキーパー、当たってるようだ」悔しがる良太をくいと顎で指して、ラノスがにやっと笑った。「ボウヤはヘッドが苦手なんだ。今度はグランダーで合わせてやってくれ」
「なるほどな」
当然、良太のヘディングがチーム隋一であることを知ってのやり取りだった。
その日、マッハ・エーティーエイトは、難敵モンデミロ秋田に四対〇で快勝。
記録には良太の三得点と、途中までの出場ながら二アシストの津上が燦然と光り輝いていた。
サポーター達の大喝采の中、意気揚々とフィールドから引き上げてくる北尾イレブン。
次は敵地北海道で、J2最強軍団サボンドール函館との対戦が待っていた。
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