1.ミスマッチ

 一九九九年一月某日、国立競技場、選手控室前通路にて。


 背後から声をかけられ、高校サッカー選手権MVP、神林良太が振り返った。

 声の主は、今日、この国立の地で良太達に完敗したチームのエースだった。

 大会前はナンバーワン・ゲームメイカーの呼び声も高く、次代の主力となることを期待された有望株でもあった。卒業後はサングラッチェ広島への入団が決定している。

「おお、小沢か」

 するとその少年はじろりと良太を睨めつけて言った。

「おまえには失望したぜ。馬鹿にしやがって」

「何がだ」

「とぼけるな!」

 しばし良太が考える。

 しかし何故なのかまったく思い当たらなかった。

 それにムッとなる小沢。無理やり心を落ち着かせて、言葉をつないだ。

「本気なのか。J2に行くって」

「ああ。本気だ」こともなげに言う。「超本気だ」

「あー、おまえ! 人が真剣に話している時に超とか言うな! 俺はそういうのが大嫌いなんだ。いや、自分が何言ってるのかわかってるのか。二部だぞ、二部。二部だ」

「くどいぞ、おまえ。二部、二部って」

「しかも北尾だと。J1全球団のオファーを断って、それか。ふざけやがって」

「ちょっと待て。なんでおまえがそんなに怒ってやがるんだ」

 小沢が奥歯を噛みしめる。

 小沢には希望する球団からのオファーはなかった。

「見てろよ。おまえがくすぶっている間に、俺はJ1の舞台に華々しくデビューしてやる。開幕スタメンを華麗にもぎ取って、いきなりリーグ得点王をとってやる」

「俺はくすぶってるつもりなんかねえぞ」良太が胸を張る。「俺だってJ1への憧れはある。昇格したら一年後には絶対Jリーグで優勝してやるよ」

「それが無理だって言っているんだ」

「なんでだ!」

「マッハ・エーティーエイト北尾は、毎年最下位争いをするような弱小球団だ。名前だけが無駄に長い。おまけにJ2一のロートル球団でもある。北尾は力のなさをかろうじて経験で補っているにすぎない。ラノスとかいう前の世代の代表に頼ってな」

「ラノスはまだ超現役だぜ」じろりと小沢を見る。「でもって、去年最下位だったのは決してラノスのせいじゃねえ」

「おい、超はやめろ! ムカつくだろ! もう四十二歳だ。J1、J2通じて最もロートルな選手だ」

「いやあ、たいしたもんだよなあ」

「そうじゃない。いつリタイヤしてもおかしくないような選手に頼っているチームの現状が問題なんだ」

「だから俺がいくんじゃねえか。この超大物ルーキーの神林良太様が」

「だから、超言うな! 貴様、さっきから昔の女子高生みたいに、超、超、超、超と! ……いや、今のはいいのか?……。いや、自分で自分のことを超大物とか言うな。俺はそういうのが大嫌い……」

「うるせえ奴だな」

「こんな奴に超高校級プレイヤーの呼び声高かった俺が負けたかと思うと、悔しくて情けなくて腹が立ってくる!」

「自分で言うのはいいのか……」

「おまえ、知っているのか」

「はん?」

 良太を見上げ、ようやく感情をコントロールした小沢がそれを口にする。

「来年一部に昇格できなけりゃ、北尾は解散だぞ」

 良太の目が一瞬、点になる。それからすぐに笑い飛ばした。

「うっそだろお」

「嘘じゃない。運営が苦しいらしい。いくつかあったスポンサーもあいそをつかして次々に撤退しているっていうしな」

「じゃあ、ラノスは」

 ふいに良太が真顔になり、小沢の胸倉を掴んで締め上げた。

「期限つきレンタルで北尾にいってるラノスはどうなるんだよ」

「知らねえよ。離せよ」

 良太の手を引きはがし、不機嫌そうに小沢が顔を歪めた。

「どこも引き取り手がないっていうのなら、引退するしかないんじゃないのか」

「引退……」

 途端に良太の勢いがなくなる。

 凄まじいショックを受けたように、目が虚ろになっていた。

「ああ。期限つきレンタルって言ったって、もともと口うるさいラノスを厄介払いするために追い出したようなものだからな。期限なんてあってないようなものだ。当のラノスにしたって、今さらウェルビィが呼び戻してくれるなんて、これっぽっちも思っていないだろうしな」

「引退。ラノスが……。引退……」

「おい、おいっ!」

 放心したように控室に消えて行く良太。

 それを怪訝そうに眺めて、小沢は吐き捨てた。

「俺も相当なサッカー馬鹿だと思っていたが、おまえには負けるよ。おまえは本当の馬鹿だ。ただの大馬鹿野郎だ!」

 良太からの反撃はなかった。


「ラノスさん」

 チームメイトの呼びかけに、ラノス・甲斐は週刊誌を読むのを中断して顔を向けた。

 呼びかけた当人はというと、すこぶるおもしろそうに笑っていた。

「昨日本当に来たんですって。例の馬鹿が」

 ラノスが眉を寄せる。困った時に彼がよく見せる仕草だった。

「で、どうだって」

「ええ。一応フロントも了承したみたいなんすよ。ただし、条件つきでね」

「条件つき?」

 ラノスの顔を見て、彼は噴き出しそうになるのを懸命にこらえながら言った。

「うちは今期限りのチームだが、それでもいいのかって。ぶっははは!」

 ラノスに表情はなかった。

 少し気まずくなり、ばつが悪そうな顔を彼がする。

「で、ボウヤは諦めて帰ったのか」

「とんでもない」再び輝き始める表情。「あの野郎、こんなふうに言ったんすよ。『一部に昇格すればチームは残るんだろうな!』 だって。さすがにこれにはうちのお偉方達も度肝を抜かれたみたいで、本気であいつの頭の中身を心配してましたよ」

 ふうむとラノスが考え込む。

 彼を見上げ、ぽつりと言った。

「無理かな、やっぱ」

「そりゃもう、無理っしょ」

 無粋な狂喜に歪む彼の顔。

「みんな、来年からの就職先探すので必死っすよ。半分は地域リーグでもいいから、他のチームに拾ってもらおうって思ってるみたいっすけどね。ま、俺なんか、もともとポシャったら実家の酒屋継ぐって約束ですし。練習休んで、他の会社の面接に行ってる奴もいるくらいすよ。……? ……ラノスさん ……?」

 組んだ手の上に顎を乗せ、ラノスは彼を眺めていた。

 あきれたように、諦め切った表情で。

 そこに期待などは微塵もない。

 やがて顔をそむけ、彼を追い払うように手を振った。

「なんでもない。よくわかった」


 一カ月後。

 期待の大型ルーキー神林良太は、マッハ・エーティーエイト北尾練習場の大地に下り立った。

 最初に良太を出迎えたのは、にこやかに笑う初老の男だった。

「ようこそ北尾へ」

「あ、いや……」

「マッハ・エーティーエイトの益田です。短いつき合いになりそうですが、よろしく頼みますよ」

 良太が立ちつくす。

 驚いたのは益田の腰の低さだけにではなかった。小柄で愛想がいいだけが取り柄のようなその男は、プロリーグのチーム関係者と呼ぶには到底似つかわしくない格好、薄汚れた作業服のような衣服を着用していたのだ。

 胸元には『北尾茶園』と記されていた。

 そんな良太の心中を見透かしたかのように、益田は笑顔のままでガイドを始めた。

「驚いたでしょう、あまりにも田舎で。ここ北尾郡北尾町はお茶の生産でもっているようなところですからね。見渡す限りのお茶畑なんですよ」

 良太がゆっくりと首を動かす。

 町でたった一つの小さな駅を背にした途端に、視界の隅々までが緑に染まった。

 これがすべて茶畑だと言うのだ。

「いろいろなところに出荷しているみたいですよ。有名どころへもいくつか。今では北尾茶そのものがブランド化していますが、かつては全国至るところで『ゴースト何とか茶』なんて呼ばれていたみたいですね。おかげで県内でも有数の黒字地区なんです。だから忙しいお茶摘みのシーズンには、地元との交流も含めて、選手達もお手伝いをすることになっているんですよ」

 益田が胸の『北尾茶園』に目をやる。

「……。ラノスも?」

「彼は去年の今頃はまだウェルビィでしたからね。私達のユニフォームの胸元に何て書いてあるのかご存じですか」

 良太が考えを巡らせる。

 緑のユニフォーム、確かスペルは、M・M・A・C・H……

「抹茶!」

「ご名答」

「ずっとマッハだと思ってた……」

「エイティじゃなくて、エーティー。スペルはAとお茶を表すティーですね。続けると抹茶っ茶になります」

 益田が嬉しそうに笑う。それから腕白な子供を優しげに見守るように続けた。

「人口も少ないこんな小さな町ですが、昔から少年サッカーだけは強くて、何度も全国大会に出場しているくらいです。ただそれが続かない。子供達の才能を伸ばせるような環境ができていないんですよ。それで町おこしの意味も兼ねてこの土地にサッカーが長く根づくような環境を作ろうとした。地元の有力な選手達を中心にしてね。まさに手作りのチームなんですよ、北尾は。が、しかし、現実は甘くはなかった。Jリーグ発足時の選考に漏れると、当初の勢いもしだいに失せて、リサーチ不足で獲得した外国人選手も期待を裏切ってばかりで。JFL最初の年にリーグ七位に顔を出したのを最後に、ここ数年は序盤でシーズンが終了するほどのていたらくです。有望な選手も思うように獲得できず、若い選手も育たず、おかげでチームの平均年齢も他のチームと比べて四歳も五歳も高い。こうなると選手達の士気は下がる一方で、となれば一部の熱烈なサポーターを除いて客足も遠のいて、一万五千人も収容できる北尾スタジアムはガランガランの空きばかりです。去年の観客動員数の平均は七百人ちょっとだったかな」

「なな!……」

「赤字続きの累積がここにきてついに、という感じでしょうね。私もチームがなくなったらここの関係企業に拾ってもらえることになっています。製茶の手伝いをしてきたのがこんなふうに役立つとは思ってもみませんでしたがね」

「……」

「もう少しですよ。スタジアムと違って、練習場は駅からここを通り抜けた方が早く着く」

 茶畑の合間をぬって歩く二人。

 この先に練習場があるらしい。

「仕方がないんでしょうねえ」

 呟き声に良太が顔を向ける。

 還暦を間近に控えた穏和な男の体が、さらに小さく映った。

「いいチームなんですけれどねえ。自信と誇りを取り戻すきっかけさえあれば……。私、思うんです。一度でいいから、あのスタジアム一杯の観客の中で彼らに試合をさせてやりたいって」

 力無く益田が笑う。

 良太の前で初めて淋しそうなそぶりをみせた。


 益田の横にふてぶてしい良太の姿があった。

 その前に選手達がだるそうに整列していた。

「来月からいよいよリーグが開幕します。十チームで四回戦ずつの総当たり戦を行い、二位以内に入って一部リーグ昇格を果たさなければ、自動的にうちは解散となります。事情はみんなも知っているとおりです。最後のシーズンになるかもしれませんが、悔いのない戦いをしましょう。うちは二戦目でいきなり本命の函館と戦わなければなりませんが、諦めずに……」

 選手の一人が隣の人間にこそこそっと耳打ちする。

「最後のシーズンになるかもしれないってよ」

「もう決定だってのにな」

 ぷっと噴き出した。

 別の誰かが咳払いをすると、二人は気まずそうに姿勢を正した。

「監督」

 咳払いをした選手が手を挙げて益田の注意をひく。

 益田が顔を向けると、長身で髭面のその選手は、良太の方を見て値踏みするように言った。

「そのレンタルの選手、若そうだけど使えるんだろうね。冷やかしだったらゴメンだよ」

 その言葉に良太がむっとなって、彼を睨みつけた。

「俺はレンタルじゃねえし、冷やかしでもねえ。このチームを優勝させるためにやって来たんだ」

 静まり返る一同。

 やがて方々から噴き出すような笑い声が漏れ出し、それが爆笑の渦へと変わるのにさして時間はかからなかった。

 それを目の当たりにし、さらに激高した良太が辺り構わずわめき散らし始めた。

「何がおかしい、てめーら! 恥ずかしくねえのかよ。それでもプロかよ!」

 そんな良太の様子を声も出さずに見守る選手が一人だけいた。

 彼は冷静に良太を見据えると、薄笑みを浮かべて言った。

「口では何とでも言えるからな」

「さっきから何なんだよ。そんなに俺が気に入らねえのか」良太がギロリと睨み返す。「ラノスさんよ」

「気に入らないね。この世界も長くいるといろいろな奴に会う。中でも一番多い人種は口ばかりの奴らだ。威勢がいいのはおまえみたいに最初だけ」

「何だと!」

「おまえプロがどうとかって言ったな」

 ラノスの栗色の瞳が鋭く光る。

 その迫力にさしもの良太も一歩退いた。

「その言葉、忘れるなよ。要は結果を残してなんぼってことだ」

 その輝きは逆に良太の闘志をかき立てることとなった。

「ったりめーだ。もしできなかったら、この茶畑全部、俺が刈り取ってやる」

「ほう、おもしろい」ラノスがにやりと笑う。頼もしげに良太を見つめながら。「だがな、ボクチャン。お茶は摘み取るものだ。刈られちゃ困る」

「うるせえよ! それぐらいの勢いだってことだ!」

「おいおい、会話になってないぞ」

「ほんとだ。元ブラジル人のラノスさんの方がよっぽど日本語うまいぜ」

 合いの手の後に巻き起こる爆笑。

 真っ赤になって突進しようとする良太の襟首を、にこにこと嬉しそうに笑いながら益田がつかんで引き止めた。

「まあまあ、神林君も長旅で疲れているでしょうから、今日はもう寮に戻って休むといい」

「言っておくけどなあ! 俺はボクチャンじゃねえ、神林良太だ。覚えておきやがれ」

「ああわかった」ラノスがにやりとする。「覚えておくよボウヤ」

「あのな、おっさん!」

 益田に背中を押され、後ろを振り返りながら良太がぶつぶつと何事かを呟き続ける。その姿が見えなくなるまでチームメイト達の笑い声は途絶えなかった。

 ただ一人、真顔で良太を見守り続けるラノスを除いて。

「ラノスさん」目尻に涙を滲ませながら、一人の選手がラノスの肩を楽しそうに叩く。「とんでもねえのが来ちまいましたね。俺はこのチームを優勝させるためにやって来た! だって。笑いがとまらない」

「あのボウズ、俺のことをおっさん呼ばわりしやがった」

「元日本代表もかたなしっすね」

「おまえ、高校生のチームから五点取る自信があるか」

 腹を抱えて笑い転げる彼を冷ややかに見つめ、ラノスがぼそりと言った。

「へ?」まじまじとラノスの顔を見る。「何のことすか」

「俺は自信がない。選手権であいつはそれをやってのけた。そういうことだ」

 背中を向け、じろりとチームメイトを睨めつけた。

「ただし」

 もはや誰も笑ってはいない。

「俺ならば六点アシストしてみせるがね……」


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