2-6. かの人の不在


 リアナはフィルバートの部屋の窓際に立って、階下を眺めた。隣接する小塔と向き合っているため、同じような窓がいくつも上下に並んでいるのが見えるだけで、お世辞にも眺めがよいとは言いがたい。


 部屋のほうも似たようなものだ。城内にいくつもあるタイプの間取りで、王の執務室に近い階にあるので、官僚や中級貴族の仮住まい用として使われることが多い。続き間はあるが家具は最小限しかなく、簡素で、およそ生活感に欠けていた。侍女は、いつでも部屋に入って掃除をしてよいと言われていたと証言した。ここには重要なものは置いていなかったということか、それとも、もとよりそんなものはないのか。


 フィルバートが姿を消して、ひと月が経とうとしていた。リアナはついに、彼の私室を調査する許可を出し、それに付き添っている。

 ついに、というのは、なかなかその踏ん切りがつかなかったからだ――なにしろ、この掬星城きくせいじょうでフィルに与えられた公的な役職はなにひとつない。〈ハートレス〉が王の護衛をするのを嫌う貴族たちの手前、彼は"救国の英雄として"、"個人的に"、王の警護にあたっているいうという名目で動いていたためだ。つまり、彼がひと月や二月姿を現さないとしても、なんの職務怠慢にもあたらず、ひいては調査の名目も成り立たないのだった。


 だから部隊を再建させておきたかったのに、とリアナはいまさらながら恨めしく思う。かつて自分の率いた部隊で多くの戦死者を出したことを、フィルバートはいまでも悔いているようだったが、逆に言えばそれだけの責任を負う覚悟があったのだ。今でも連隊があれば彼のくびきになったに違いないのに。

(――どこに行ってしまったの、フィル?)

 

「続き間のほうは、調べ終わりました」


 フィルと同じ〈ハートレス〉の私兵、テオがそう声をかけた。

 続きの間に入ると、きちんと整えられた寝台が目に入った。奥にはローズウッドのチェスト。

 持ち主が選んだ意図を感じない寝具からは、かすかに彼の匂いがしたような気がした。願望のまじった気のせいかもしれない。

 リアナは嘆息する。「手がかり以前に、ものがまったくないのね」


「軍隊暮らしが長くなると、みんなそうなりまさぁね」テオは肩をすくめた。

「朝の訓練のあいだに、上官が部屋をまわってチェックするんで。寝具も制服も、たたんだ折り目がずれてるだけでどやされるんですよ。ものを増やすと管理がたいへんなんで、自然と減りますね」


「あなたたちにも何も言わずに出ていったなんて……」

 テオたちは、ウルムノキア時代からのフィルの部下だ。信頼の度合いはリアナたちよりもはるかに上だろうに、それでも、彼らにすら、フィルはなにも伝えていなかったのだ。

「いったい、どういうつもりなんでしょうねぇ」

 テオも首をかしげる。

 

 フィルバート・スターバウがやったことは、恋愛よりも生殖を重んじる竜族においては、白眼視される行為であったのは間違いない。

 繁殖期シーズンに参加するのは、成人を迎えた翌年から、というのがオンブリア社交界の暗黙のルールだ。だからこそ、リアナはデイミオンと公認の恋人同士と目されていなかったのである。

 特に医学的な根拠があってのルールではないし、犯罪に分類されるわけではないが、多産を願う竜族たちのふるい慣習からきていて、五公十家のあいだではとくに大切にされているしきたりだ。


 そういうわけでデイミオンは怒り狂っているのだが、そうはいっても本人が見当たらなければ怒りの向けどころがない。最初の一、二日こそ、やってしまったことの重大さにおののいて逃亡したのだろうと言われていたが、ことここにいたって、完全に姿を消しているとしか考えられない。しかも、事前に準備をしていたとしか。


「彼がいまどこにいるのか、心当たりはないの? テオ」

 何度も聞いたことを、またリアナは尋ねた。返事もわかっている。


「……ウルムノキア時代から、あんまり自分のことを語るタイプじゃなかったですからね……それに、職務上あちこちで隠密行動もしてたんで、ある意味では行くところはいろいろあるんですよ。やつが本腰入れて身を隠したのなら、見つけるのはほとんど不可能でしょうよ」


「でも、どうしてなの……?」


 リアナは自問した。彼のしたことは、結局は王の胸三寸で、罪に問えるようなものではない。竜族の社交界での立ち位置を、彼がいまさら気にするとも思えない。逃亡する理由などどこにもないのだ。


「さあ……俺らにもさっぱり分かりませんが。――陛下、こちらを」

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