2-5. もしも俺ではなく、あいつを選ぶなら、俺は

 怒りのあまり、低く一言ずつ区切って聞こえる。背後でばたり、と音がした。廷臣の一人が恐怖で気を失ったのだ。が、若い侍女は平然と答える。


「ですから、王太子殿下は陛下と〈ばい〉の絆で結ばれておりますので――」

「ミヤミ! は、はやくお答えしろ!」死にたいのか、という警告は飲み込んで、侍従長が命じた。

「――お分かりになるのではと。つまり、わたしどもにも分かりませんので。フィルバート卿は『陛下とレーデルルを飛行訓練にお連れしてくる』とおっしゃっていましたが、場所までは」

 デイミオンはそれを聞いて低くうなった。王たる者がろくに護衛も連れず、所在もわからない状態になることなど人間の国ではまずありえないだろう。だがオンブリアでは長い間この〈ばい〉の仕組みが貴族・官僚から使用人にいたるまで広く知られている。

 つまり、王の所在は、王太子の管轄下にあるのだ。これは、ある意味では自分の失態だった。


 デイミオンは、『今すぐ世界が滅んでほしい、なんなら自分が滅ぼしてもいい、まずはおまえだ』というような荒みきった目で侍従長を見た。

「――陛下はいま、〈ばい〉の届かない状態にある」


「デイミオンさま」侍従長がほっとした顔で声をかける。

「殿下は繁殖期シーズン中ですし、ご存知ないかもしれませんが、ふだんですと陛下はもうそろそろお休みになっている時間帯で――」


 一時的に〈ばい〉が届かない状態、の意味は通常、意識がないということを指している。侍従長は黒竜大公のいら立ちを、王の安否への心配と理解してそう説明したのだが、もちろんデイミオンの怒りと懸念はそんなところにはない。

 かといって、自分以外の男と同衾していることへの怒りなどという不面目なことを口には出せない。

「――竜騎手を連れていくぞ。明け方までに王を探す」

 いくぶん冷静さを取り戻した声でそう告げると、来た時同様、大きな音を立てて出ていった。


 周囲はぼうぜんとそれを見送るしかない。

 

「ミ、ミヤミ……」

 侍従たちは黒竜大公が去ったあとの水たまりを拭いている。本人と同じく巨大な水たまりだ。侍従長はそれを見ながら気づかわしげに呼びかける。


「なぜ閣下にお伝えしなかったんだ? フィルバート卿が陛下をお連れしたのは、西の森の数珠湖のひとつだろう? 秋にクランベリーを採りにいくあたりの……違ったのか?」

「いいえ、その湖です」ミヤミは平然と答える。

「では、ちゃんとお答えすべきだっただろう。あんなに心配をしておられたのだから」

「はい、ですが」めずらしく、何か考えるような間を一瞬だけ置いて、侍従の少女は付けくわえた。

「わたしは可能なときにはできるだけ、自分の意に沿わない場合でも、フィルバート卿の味方をしようと思っていますので……」


 そこまで言われては、さすがに気がつかないはずもない。侍従長は目を見開いたあと、「そういうことか……」と深く嘆息した。

「やれやれ、つくづくわたしはこの仕事に向いていないと気づかされることがあるよ。陛下と閣下は魚釣りに行っていると、言葉通りに信じてしまっていた」


 侍従長の言葉に、ミヤミはなにも返さず、

「……ではわたしはそろそろ失礼します。当直勤務の途中ですので」と立ち去った。


 近衛と官僚が去り、侍従が片づけを終えるころ、侍従長は一人つぶやいた。


繁殖期シーズンにはいろいろなことが起こるものだ。この年になってもまだ驚かされる。陛下とフィルバート卿が……」


  ♢♦♢


 しとしとと降り続けている雨の音で、リアナは目を覚ました。


 最初に考えたことは、静かだということだった。ふだんは城内で生活していて、周囲には音が絶えない。そういう生活に慣れてしまっていたから、朝の静けさが新鮮だった。雨音はするが、嵐は去ったのだろう。部屋のなかは灰色に暗く沈んでいる。


 共寝の翌朝というのは、横に恋する男がいるものだ。少なくとも、乏しい知識のなかで夢みるかぎりはそうだった。恋人の腕のなかで目ざめ、額にあいさつのキスを受ける。それから二人で起き出して、一緒に朝ごはんを食べるのだ。たぶん……そうじゃないかな。


 でも、彼はいない。


 隣を見るまえから、フィルがそこにいないことはわかっていた。目を覚ましたときの空気の冷たさで。だが、寝床に手をふれると、そこにはまだぬくもりが残っている。フィルは絶対に彼女を、安全でない場所で一人にすることはない。だから、遠くには行っていないという確信があった。朝ごはんを作ってくれているのかしら?


 そのとき、思わず飛びあがりそうな大きな音を立ててドアが開き、デイミオンが姿をあらわした。身体を起こしかけていたリアナと目が合うと、一瞬だけ気まずい沈黙が流れる。


「……フィルはどこだ!?」


 低く、とどろくような男の声が静かな空気を破った。「なぜ、こんなところにいる? なにをしたか、自分でわかっているのか!」


「怒鳴らなくても、わかるわ」リアナは落ち着いた声で言った。「なにをしたかだってわかっているわよ。あなたがなにをしているか、知らないとでも思っているの? フィルはどこ?」


 胸の前にシーツを引きあげて、左右を見まわした。


 デイミオンは思わず鼻白む。「それを聞きたいのはこちらだ」


「なにがあったか聞きたいならフィルを探してきて。わたしも探すから」さらに、きょろきょろとする。「あと、ちょっとあっちを向いてて。服を着ないと……」


 が、予想に反してデイミオンはずかずかと近寄ってきた。ドレスを取ろうとしていた右手を掴まれる。「おまえはまだ繁殖期シーズンに入っていない」


「無理やりされたのか? あいつを拒まなかったのか? どちらなんだ。言え」


 吐く息がかかるほど近くに迫られて、リアナは思わず息を呑む。怒りにぎらついたプルシアンブルーの目が、フィルの欲望を思い起こさせて、一瞬どきりとする。さっきまでは自分のほうも怒りにまかせてしまったが、なぜこんなことになっているのか、完全にわかっていないのは自分のほうも同じなのだ。


(フィル、どうして?)


 わたしたちはたぶん、少しずつ間違ってしまった。それでも、フィルとのことを後悔はしていない。目の前で怒り狂っているデイミオンのことが好きな気持ちに変わりはなくて、フィルは親友で護衛で、恋人ではないと思ってはいたけれど。


「デイミオン」


 それを説明しようとしたのに、デイミオンはなぜか急に目を泳がせた。にらみつけていた青い目がはずされ、わずかにうつむいたせいで表情が変わって見える。

「……言うな」リアナの手を掴んだまま、彼女の肩ごしに壁に頭をつけ、ほとんど消え入りそうな声でつぶやいた。

「もしも俺ではなく、あいつを選ぶなら……」

「デイ、」

「俺はやつを殺すかもしれない」


 リアナは本当に、誤解を解きたかった――少なくとも、その試みくらいはしたかった。しかし、それは叶わなかった。



 その日を境に、フィルバート・スターバウはオンブリアから姿を消した。



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