1-8. 夢には永遠の雨が降る

 ……雨が降っていた。


 戦場にいつも雨が降るのはなんのせいなのだろうか。爆発のせいで雨雲ができるからというやつもいたが、本当かどうか彼にはわからない。ただ事実として、ぬかるみだらけの塹壕ざんごうに身をひそめ、泥濘に沈むようにして行軍する日々が続くだけ。


 フィルバート・スターバウはそのころ、連隊の指揮官だった。


 古竜と竜騎手ライダーの援護がなくなって、もう一週間は経つだろう。イティージエンの敵将は少数の暗殺部隊を送りこみ、ぬかるみを嫌って高台で野営していた十家の若君をやすやすと殺した。つまるところそれが戦略というもので、自分が敵の指揮官だったとしてもそうしているだろう。竜騎手ライダーのプライドはぎょしがたく愚かで、やつ一人が死ぬ分にはなんの痛痒もないが、こちらは最大の戦力を一晩で失ったわけだ。だからこうやってさっさと撤退している。軍法会議? 知ったことか。俺の兄は竜騎手長さまだぞ。十六歳からこっち、一度も口をきいてはいないが。


 行軍はびしょ濡れで力つきかけようとしている。兵士はみな若者のはずなのに、老人のように身をかがめている。生きているのかも、死んでいるのかもわからず、ただ歩き続ける満身創痍の小隊は、まるで生きながら半死人デーグルモールにでもなったかのようだ。


 稲妻が走り、一瞬、古竜の応援かと期待した。つかのまの雷が、錆びついた剣と盾、痩せた走り竜ストライダー、疲労しきった〈ハートレス〉たちといった、戦場を浮かび上がらせた。数瞬遅れて、雷鳴がとどろく。単なる自然現象だった。

 フィルは号令を叫んだ。死んだような状態の兵士たちが動き出す。ふたたび軍靴ブーツが泥を踏み、かろうじて前進しようとする――



 ――迎撃がはじまった。先陣を切っていた兵士たちがさらに一歩前進しようとしたとき、爆発がかれらを襲った。轟音。迫撃砲と手榴弾によって、文字通り兵士たちの手足がちぎれ、首がもげて飛び散る。榴散弾は内蔵を吹き飛ばすから、悲鳴を上げる間もなかった。抱えていた剣が泥の中に落ち、やわらかな泥に死体が降り積もる。


 


 いくつもの叫び声が響く。隊列がくずれる。兵士たちは武器をかまえて突進する。さらに多くの兵士が白熱する炎に呑みこまれて死んだ。

「散開しろ!」

 大声で命令したとたん、隣の部下の首が弾け飛んだ。あとには血まみれの切断面だけが残る。口のなかに血が飛んできて、フィルバートは死を味わう。

……



 けれど意識の片隅が、これを夢だと告げている。


 恐怖に満ちた、浅い眠りだ。早く目を覚ましたい。あるいは、もう永遠に眠ってしまいたい。この際、二度と目を覚まさないというのでもいいんだ。

 神聖なる古竜をかつて殺した。勲功をたてるため、自分の連隊をむざむざと死地に連れていった。いくつもの罪が、罰を下されないままになっている。


 死。処刑。裏切りの罰としての。痛いだろうか?


 目覚めが近いことを示すように、夢の中で彼は思考していた。あるいは、思考しているつもりになっていた。


 どれほどの苦痛の果てに殺されようと、かまうものか。いずれは終わるのだ。終わって、そして死ぬ。安らかな眠り。死。ああ、ネズミを忘れちゃいけないな。満腹のネズミ。あいつらは兵士の目と肝臓が好物だった。


 ――死は救い。そうか? 


 声は、扉を次々と開くように、過去の自分を呼び覚ましていく。


 ――いいえお母さま、僕には竜の声が聞こえないんです。


 ――竜祖と祖国を守るため……勝って、忠誠を証明しよう……竜王のほかに王はなし! われらは心臓を持たないハートレス。われらは何も恐れないフィアレス


 ――俺はやり遂げねばならない。誓いを果たさなければならない。


 ――ああ、誰か。


 夢の混沌のなかで、フィルは助けを求め、うめいた。



  ♢♦♢



 少し眠れたので、翌日の気分は晴れやかだった。ありがたいことに謁見えっけんの予定もないので、身なりに気を使う必要もない。午前の書類仕事を終えて調べものをしようかとリアナが図書室のほうへ歩いていると、にぎやかな声が聞こえてきて、足を止めた。客間のひとつがばたんと開き、巨大なアマガエルがけたたましく笑いながら目の前に飛び出してきた。


「ヴィク! 止まりなさい、ヴィク!」


 慌ててそのあとを追ってきた女性を見て、リアナは思わず目をぱちくりさせた。それはグウィナ卿だった。アップにした赤毛が乱れて、肩に垂れかかっている。ここのところ毎日彼女に会うが、そういえば城内に滞在しているのだったか?


「どうしたんですか、グウィナ卿? すごい騒ぎ」


「申し訳ありません、陛下」その王を露台から突き落としたときでさえ優美だった女性が、あわてて腰を折った。「息子が――」


 だが、最後まで言うことはできなかった。「ぼくがとび跳ねるところ見たい?」とアマガエルがジャンプしはじめ、いきおい余ってリアナにぶつかってきたからだ。

「きゃあ!」

「ねぇ見て! ぼくがとび跳ねるところ見たいでしょ!?」


 アマガエルのフードの下は、十歳にもならない年少の子どもの顔をしている。

「ヴィクトリオン、おやめなさい! 陛下の御前ごぜんですよ!」

 というか、その陛下のスカートに全力でしがみついているのだが。リアナは笑った。

「小さなアマガエルくん、とっても上手にジャンプできたわよ」

 ヴィクトリオンと呼ばれた子どもは王の称賛に礼を言うでもなく、さらにけたたましく笑いながらくるりと向きを変え、廊下を走っていった。そのあとを、女官たちが大慌てで駆けていく。ちょっとした台風みたいだ。


「竜神祭の仮装ですか?」

「ええ、そうですの」いくぶんぐったりした様子を見せて、グウィナがうなずく。「はじめてお目にかけますのに、あんな姿で、申し訳ありませんわ……お城に来たので興奮しすぎてしまったみたいで」

「いいえ。元気で、とってもかわいいです」


 リアナの言葉はあながちお世辞でもなかった。竜と人間とが共存して暮らす〈隠れ里〉では、子だくさんな家が多かったからだ。もっとも、後で知ることになったが、それは人間の多産さのおかげであるらしい。竜族の一家では、子どもたちのにぎやかな笑い声というのは珍しく、ありがたいものだった。

 

「叔母上! 早く戻ってきてくれ!」

 悲鳴のような男の声に、グウィナは我にかえった。「いけない」

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