1-5. フィルと秘密の魚釣り

 森のへりまでたどり着いたのは真昼近くだった。


 歩きやすい、よく踏み固められた道からはじまって、しだいに小径がだんだん細くなっていき、まもなく林が途切れた。

 密集したミモザの藪が木漏れ日を通し、池までトンネルをつくっていた。森のなかとは思えないほど開けていて、目を凝らすとアネモネやノイバラ、紫の花をつけた野生の林檎まである。春の森がこんなに心浮きたつ場所だということを、リアナはしばらく忘れていた。


 この森の東側に、釣りにちょうどいい池があるらしい。フィルは森のなかを歩きながら、南にはない植物を見つけてはリアナに名前を教えてくれた。そのクライマックスがこの黄金色のトンネルというわけだ。


「城からそんなに離れてないのに、こんな森があるなんて……」腕を伸ばして、木漏れ日がつくる光と影を楽しむ。

「ここはあなたのとっておきの場所でしょ?」

 通りすがりにミモザの黄色い花房がドレスをかすり、一面に花粉をまぶした。


 里にいたころのように、踊るようにふわりと一回転するリアナを、フィルは笑顔で迎える。「気をつけて。そこに枝が……、ああ、遅かった」


 フィルの近くに戻るまでに、ミモザの枝を折ってしまった。樹液だろうか、つんと鼻にくる匂いがこぼれる。

「あなたが山のなかを駆けまわっていたことを忘れていましたよ」

 腕についた花粉を、フィルが払ってくれた。「体重がない人のように回るんだから……筋肉をしっかりつけているおかげでしょうね」


「誰が山育ちの子猿ですって? 不敬罪を適用してあげるべきかしら?」笑顔のまま、ぐっとにらんでやる。

「それは勘弁してほしいな」

 フィルもおどけて笑った。形のいい口もとがデイミオンに似ている。血縁関係を感じさせない二人の、はじめて発見した共通点に、リアナはふとどきっとしてしまう。同時に、気恥ずかしくもあった。朝の抱擁は、小さな女の子が兄に抱きつくようなものではあったが――それでも、フィルは単なる保護者ではなく、デイミオンと同じような男性なのだと気づかされた。


 そして、ゆくてに小さな湖が開けた。

 岩山と崖に囲まれた、美しい湖だ。花が落ちて実がつきかけた桜が、崖から湖面近くに傾けるように一本、立っていた。


「ここが、その湖? 何が釣れるの?」

「カワカマスの主がいるはずだよ……それにウナギも」

「ウナギ!」リアナは叫んだ。「本当にいる? わたし、見たことないわ」

 というよりも、隠れ里では魚を釣ったことがない。


 フィルは湖に突き出ている細長い地面のほうへとリアナを招いた。ブーツを脱いでズボンを膝の上までまくり上げる。それを見て、リアナも同じようにした。スカートの裾をひっぱって後ろで結ぶ。


 釣り竿は、重りなど少しずつ違うものが何本か用意してあった。フィルは手慣れた様子で竿を確かめたあと、そのうちの一本を彼女に渡した。

 

「竿をかるく握って」フィルは少し離れたところから指示した。「人差し指で、軽く抑えるようにして」

「こう?」

「そう。左手を下げて、竿の先端を引っ張って。軽くしなるくらいに……」

 リアナが言われたとおりに握りなおそうとした。


「こうするんです」がさりと身体を動かす音がして、フィルがうしろに立ったことがわかった。彼はそのままリアナの手の上から竿を握った。

「このあたりで手を放して、鉤を投げる……それから、右手で竿をちょっと押して……うん、うまく落ちた」

 ほとんど触れそうなほど近くに、熱い体温を感じる。フィルは男性なのだ。デイミオンと同じに。


「フィル」リアナは思わず呼びかけた。

繁殖期シーズンのあいだ……あなたはどうしていたの?」


 そうとわからないほどかすかに、フィルの緊張を感じた。


「デイミオンは毎晩、テキエリス家に通っているわ。貴族たちは、みんなそうしている……それが繁殖期シーズンのつとめだから……でも、あなたは?」

 後ろから抱かれるような格好をしているときにすべき話ではないと思ったが、いまを逃せば二度と聞けないかもしれない。


「フィル、あなたは――」


 答えを求めるように、首をまわして見あげた。フィルの顔からはおよそ表情というものが読み取れなかった。

「昼から聞きたいと思うような話じゃないですよ」

 やんわりと言い、リアナから手を放して後ずさった。「……もう大丈夫みたいですね」


「相手を詮索するつもりじゃないのよ」リアナはあわてて言った。

「パートナーがいるなら、それはそれでいいの。でも、夜会でもぜんぜん姿を見なかったから――ねえ、恋愛のことで〈ハートレス〉が差別されているとか、そんなことはないわよね? わたし、気になって――」


「リアナ、俺は――」

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