1-3. 夜の、その温度のなかの

 夜は繁殖期シーズンの約束がある。デイミオンは日が沈む前に出かけるつもりだった。


 副官のハダルクに、夜間の警備について確認した。王であるリアナを守る近衛兵の選抜が進んでおらず、相変わらず信用できるごく数人だけを王の警備にてている。気にかかるのは、もっとも信頼できる護衛フィルバートが不在だということだった。テオとケブは、ウルムノキア時代から彼と生死を共にしてきた〈ハートレス〉だというし、大丈夫だろうとは思うが……。


(何をしているんだろうな、あいつは……)


 考えながら、いつもの長衣ルクヴァに袖をとおす。弟の秘密主義はいまにはじまったことではないが、〈ハートレス〉という理由で彼を追い出した家の当主という自分の立場を思うと、奇妙な負い目のようなものを感じて聞きづらいところもある。当時の当主はもちろん、自分ではなく父だったわけだが。


 竜車に乗りこみ城を出た。最近は城にばかり詰めていて、自分のタウンハウスにしばらく戻っていないが、仕方がない。着替えを取ってこさせなければと頭の片隅に書きこんだ。タマリスは王城を見あげる坂道ばかりの街で、東側に小さな湖があり、ときおり建物の隙間からそれが見える。太陽は湖にオレンジ色をまき散らしながら沈んでいく。


 テキエリス家のタウンハウスは壮麗で、町のはずれにある。当主夫妻が早くに亡くなって、跡を継いだ息子とその妹しかいないため、繁殖期シーズンを盛りあげようと親戚一同が押しかけていた。訪問のたび、彼らの熱烈な歓迎を受けるので閉口する。娘のセラベスは、社交的だった両親に似ず内気で本ばかり読んでいる夢見がちな娘で、それもデイミオンの気を重くする一因だった。


 すっかり慣れてしまった館のなかを歩いていく。


 どの貴族も、繁殖期シーズン中には財力を誇示する家が多いが、テキエリス家も娘の部屋まで惜しみなく蠟燭ロウソクともしていた。デイミオン・エクハリトスが娘婿になれば、これくらいの投資は回収できる、というわけだろう。彼が歩くにつれ、当主の趣味だというガラス細工の動物たちが、闇の中でゆれる明かりを反射して鋭く輝いた。


 ノックして娘の部屋に入る。ここにも、ガラス細工と、たくさんの燭台。そして、高価な本が並ぶ書棚。

 テキエリス家の跡取り娘、セラベス・セラフィンメア卿は、女性ものにしては大きい書き物机について本を読んでいたが、彼が入ってくるとぱたりと閉じた。


「デイミオンさま

 声がかすかにふるえている。繁殖期シーズンがはじまって、彼が訪れるのは三度目だが、彼女のほうはいっこうに慣れる様子がなかった。


「お早いお越しですね」

「あまり遅いと、あなたも疲れるでしょう」


 早く済ませれば、それだけ城に戻って休む時間も早くなる、というのが本音だが、さすがにそれを口に出すほど無神経ではなかった。


「何を読んでおられたんですか、今日は?」

 社交辞令の問いだが、娘の顔がぱっと明るくなった。

「戯曲の脚本です。王都座でいま、公演している……『暁の恋人たち』と言って。ご存知ですか?」

「知りませんな」

 興味もない、とは言わない。ハダルクに口を酸っぱくして叩きこまれた、繁殖期シーズン中のマナーのうちだ。


「流行りの本はふだん、あまり読まないのですが。これは、侍女のマリーがとても面白いと勧めるもので、読みはじめたのです。夢中になってしまいましたわ」

 分厚い眼鏡をへだてて、大きな緑の瞳が輝いた。本の話題のせいか、明かりの反射かはわからない。

 その瞳の色と真逆のスミレ色を思い出すまえに、デイミオンはそっと彼女の本を取り上げ、ささやいた。「本はもう、ここまでに」


 ♢♦♢



 リアナは眠れなかった。


 軽くてあたたかい羽毛入りの布団も、つやつやとしたマホガニーの寝台も、肌にとろけるような絹のシーツも、ひとつも彼女の助けにならなかった。せわしなく体の向きを変え、なにも考えるまいとつとめる。夜に考え事をしてはいけないと、養父イニはよく言っていた。夜のなかでは、どんな暗いもの思いも真実になりうるからと。

 

(明日)そう自分に言い聞かせる。(また明日、考えれば……)

 が、次の瞬間には薄暗い思いに包まれる。


 ――そして、デイミオンを目にするのか。


 朝のまぶしい光のなかにあらわれる、背の高い男の姿。横を向いてあくびをかみ殺す姿にすら、傷ついてしまう自分がいる。自分ではない女性と、自分の知らない遠い夜を過ごしている。

 

(どうして、〈血のばい〉なんかがあるんだろう)


 震えながら一人、ベッドのなかにちぢこまって待つ。今のリアナは、自分が経験したこともない繁殖期シーズンが心底おそろしかった。竜とヒト、二つの心臓が鼓動を早め、汗がひいて身体が凍りつく。

 もう何度この瞬間を迎えただろう。そして、あと何度耐えられるだろうかと思う。


 ――デイが女性を抱く瞬間、自分にはそれがわかる。

 

 古竜すら制御できる意志の持ち主であるデイミオンは、共寝ともねの夜には注意深く〈ばい〉を遮断している。ふだんなら聞こえる感情も、強い思いも、この時には聞こえない。でも、生理的な興奮までは遮断できないことを、彼は知っているのだろうか?


 それは、あの襲撃の秋にアーダルが暴走したときの感覚にも似ていた。自分よりもはるかに強い力を持つ存在が、脳に直接命令してくるような、割れ鐘のような大きく原始的な声だ。


 だから、リアナはが恐ろしい。

 波が高まり、また引くように、興奮が訪れる。頭のどこかが焼ききれそうなほどの快感が襲ってくる。


(もういや、もうやめて、デイミオン)


 最後に残ったプライドで、どうにか、その言葉だけは押さえ込む。そして、疲れきって朝を迎えるのだ。


 新たな苦痛のはじまりでしかない朝を。


 

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