プリンセス・マジカルワンズ
佳原雪
"princess's" -magical- wands
欠落。欠落。欠落。得たのは欠落、それそのものだ。
【マジカルワンズ】。それがおれに与えられた名前だった。女は去った。アニモは何も語らない。
アニモは小さな動物のぬいぐるみだ。何の動物かはわからない。長い尾からデフォルメされた猿のようだと結論付けたが、ここに一切の確証はない。それは背に羽を生やし、宙へ浮かんでどこへでもついてくる。アニモは何も語らない。おれは身の丈143センチの体をひらひらした紺の洋服に包み、つま先から踵までが異常に短い靴を小さな足に履いている。
平たい胸。貧相な体躯。成長途中の、いや、成長期に差し掛かる以前の、子供の体。欠落。おれは黒紫の靴で石を蹴る。転がった石は持っていた杖の先にぶつかって硬い音を立てた。
この不格好な銀の杖こそ、女のあたえた欠落だ。【マジカルワンズ】。ワンドは杖だ。マジカルは魔法だ。魔法の杖。王子の杖。それがおれに与えられた異能であり、おれの他人と違うところだ。銀の杖にはこぶが二つある。中空でやや軽い。人間の眼球ほどもあるこぶのふたつは繋がっていて、時計回りに回すと外れる。だからなんだと言うんだ? アニモは黙して語らない。
おれは喋らない。おれは笑わない。おれは”魔法を使わない”。おれが魔法を使うたび、おれという存在はこの妙で寸足らずな見掛けへ押し込められていくような心地がして仕方がない。そしてそれは恐らく気のせいではないのだ。傾斜のきつい靴も、軽すぎる体にも、段々と慣れて違和を感じなくなっている自分がいる。おれは恐れた。恐れるほどの心がおれの中にもまだ残っている。それははたして救いだろうか。
『女王を決める』と女は言った。女だった。女は【持てる】ものだった。乳房を持ち、豊かな髪を持ち、その手には【力】があった。女はその力でおれから【おれ】を奪っていった。そうしておれという存在そのものに欠落を結びつけ、去った。残ったのは欠落。おれであっておれでないおれと、アニモ、それから中空の杖。星明り一つない闇色の洋服。”途方もない【欠落】”。それが、おれの手にしたものだった。
猿のような見た目のマスコット、アニモは機械人形にも劣る。なにしろそこにいるだけだ。いないと言い切ってしまっても構わないだろう。ここにいるのにどこにもいない、アニモは全くの虚無だった。話しかけれど返事を返さず、全ての働きかけに対し一切の反応はない。ただただおれのあとをついて回る。アニモのするのはそれだけだ。顔のような部分に黒く開いた穴を覗き込めば、向こう側には無限のうろが広がっているとさえ感じられる。おれはぞっとした。ぞっとし、おれは考えるのをやめた。アニモは虚無だ。覗けば落ちる、そう思った。
女王を決めると女は言った。おれはおれをとり戻すため、女を探すことにした。【女王候補】は沢山いた。自分と似た見てくれの子供は、みな判で押したようにきらびやかな洋服を纏い、時に苛烈に、ときに気だるげに、刃を交えた。おれは、向かい来る有象無象を来た順番に切り捨てた。どれほど探し回っても、さしたる成果は得られなかった。年端もいかぬ女子供を相手取るのは良心が傷んだが、すぐにそれも摩耗した。おれは女を探し続ける。
手掛かりはなく、おれはひたすらに駆け回った。小さな体は小回りこそきくものの、膂力は劣り、持久力は言うに及ばず。外を歩けば舐められる。手をうんと伸ばしても網棚にさえ届かない、厭わしいほどに小さな体。魔法は、この”足りなさ”に対する補填だったのではないかと思えるほどの不利益。
おれを取り戻すことは急務だった。おれは女を探し続けた。
候補を切り捨て【女王】に近づけば、そのうちいつかはたどり着くのだろう。その時が早く来ればいい、とおれは思っていた。それがいつかはわからない。それが、いつになるかもわからないのだと思い知るころには、おれはおれの歳を忘れていた。やむにやまれず魔法を使うごと、おれの【欠落】は深くなる。おれの体は変化しない。成長も劣化もなく、ただあるがままが永久に続く。どれだけたった? 何年たった? 幼い少女のまま、おれは変わらない。おれは大人になれるのか、と問いかけるも、当然アニモは答えない。
おれは短いままの黒髪を掴む。耳の下まで伸びた髪がそれ以上伸びることはない。残りの【女王候補】は決して多くない。やる気のないもの、戦闘意欲の無いもの、知能のことさらに低いもの……情報を持ちえないそれらをおれは深追いしなかった。女王候補は、みな同じ年頃の子供の姿をしていた。それでも戦闘センス、頭脳の出来不出来はあった。天性のものだろうか、いや…………子供の姿? おれも女王候補の一人だったのだ。おればかりがイレギュラーだと思っていた。しかしおれの切り捨てた子供は、本当に子供だったのか? 思えば、子供の姿をした彼女らの中には介錯を頼んでくるものもいた。そうだ、あれは介錯だったのだ。女王を追うのにはもう疲れた、と。理由は……わからない、今の今までそんなことは考えもしなかった。わからないままでいたほうが良いと、おれに空いた穴の底からは聞こえてきた。おれは……その声に従った。だから、おれはいまでもわからないままだ。そして、恐らくこれからも。
女王候補はどこにいる? 女王は? おれは靴を脱がないまま、散らかったベッドに寝そべった。いつからこのままなのだろう。いつまでこのままなのだろう。端の折れたピンナップは埃だらけで、袋を破らないままの写真集は色褪せる。おれの体は変化しない。
女王はどこだ、とおれは言った。女はどこへ消えた、とおれは言った。実際は口を動かしただけだ。おれは喋らない。おれは、今の自分の声がひどくきらいだ。きらいだったのだ。この高く掠れた聞き慣れない声が。
「あ……」
僅かな眠りから覚め、細く甲高い声が漏れる。畜生。おれは形だけ毒づいた。目を開けると、女がそこにいた。ふっくらとした白い乳房と背に広がった長い髪。大人の女。それはずいぶんと長く目にしていなかった、大人の女だった。女は笑った。おれは、ベッドから飛び降りた。ずっと、ずっと求めていた姿がそこにあった。おれは女に近づいた。きっと呆けたような顔をしていたに違いない。俺は腹へと顔を寄せ、少しためらってから白い腹へとワンドを刺した。刺すときに、じくりと胸と腹とが傷んだ。ずっと、この日を夢見ていたのだ、と、おれは数秒遅れでそのようなことを考えた。ずっと、夢見ていたのだ。この瞬間を、おれは。
おれは歓喜を自覚する。おれは”与えられた””欠落”を”手放した”。そう思った。”欠落を返納”し、”あるべき姿を取り戻す”。そう思った。それがおれの悲願だった。固く閉じられていたと思っていたネジが抜け落ち、うつろに入り込んだ血が逆流して溢れた。紅い血が、紺の洋服の腹を濡らした。ひらひらした服が血に濡れて色を変えた。
苦しそうな声が聞こえた。女はふっくりとした唇を歪め、息を吐いて苦しそうに呻いた。おれはずっと動かしていなかった表情筋が力なく笑いの形へ歪むのを感じた。頬が引き攣って痛かった。女は呻く。呻く。呻く。呻きの合間に女は、次の女王はお前だ、と途切れ途切れに言った。おれの笑顔は凍りつく。おれは慄いた。それは女が言葉を発したからではない。女の言葉が恐ろしかったからではない。
おれは呻いた。今度はおれが呻く番だった。平たかった胸が、小さな足が、短いままだった髪が、変化しないと思っていた体が急速に膨らみ、その稜線がぐにぐにと強烈に歪んでなだらかな曲線を描いていく。おれは恐怖した。もっちりとした肌のやわらかなテクスチュアとは裏腹に、ぎしぎしと骨が軋む。骨の隙間がふわふわと覚束ない。頭皮がぞわぞわと粟立つ。膝が熱い。絞り上げるような内臓の痛みに背がうねる。体を覆う厚い皮の内側がむず痒い。それがいっぺんに体を突き回し、おれの思考を掻き乱す。腰が骨に突き破られるのではないかという錯覚を覚え、おれはぜいぜいと息を吐いた。肺を押しつぶされたみたいに息が苦しかった。
少女から女王へ。大人になる、大人になると言うことがどういうことだか考えもしなかった。この女が女王なら、女王候補の体がことごとく子供のものだったのも条理というものではないか? おれは目の前の女と似た姿へ急激に作り変えられていく。内臓がねじ切られるような苦しみと、強烈な違和感。苦しい。苦しい。苦しい!
おれは倒れ、埃の積もった床を転げまわった。喉からは引き絞った悲鳴が上がる。体は熱を持ち、全身が、鈍く、鋭く、痛み続ける。いつまでそうしていたのか。いつまで続くのか。それともおれはこのまま死ぬのか。訳もわからず叫び続け、甲高く耳に刺さる声は次第に掠れ、ひび割れた。
いつまでそうしていただろう。燃え盛るような痛みが引き、おれは知らず閉じていた目をばちりと開いた。顔を拭うと、ぬるりと血を撫ぜたような感触があった。手の甲でごしごしと顔を擦れば、濡れた手には埃混じりの汗が残っていた。おれは床に手をついて起き上がろうとした。体が重い。頭も重い。後頭部に手をやると、さらさらとした感触があった。腹に目を落とせば、視線を遮る二つの丘陵。
おれは言葉を失った。白い乳房。豊かな髪。大人の女。しなやかな肢体は己の首とつながっている。おれは絶句する。”奪還に失敗した”。確かなことはそれだけだった。視線を感じて顔を上げると、アニモがこちらを見ていた。……こちらを見ていた。ずっと何にも反応を返さなかった冷たい虚無が。じっと。
おれは黙して語らないアニモの口が開かれるのを見た。開かれた口が広がり続け、虚無が顔を覗かせるのを見た。虚無の闇が迫るのを見た。
『おれはもう元の体には戻れない』、それがおれの最後の意識だっただろうか。おれはアニモに飲み込まれ、存在そのもの【欠落】となった。
プリンセス・マジカルワンズ 佳原雪 @setsu_yosihara
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