第235話 親愛なる死へ捧ぐ
上空で大木は突然に静止した。
政宗も同じように目を向けるが、驚いていないようだ。
他の者とは違い、ただ退屈そうな感情が仮面の上からでも読み取れた。肩はぐったりと下がり、やる気がない。
風など吹いていなかった。強風にあおられたかのように、突然その全体が揺れ始める大木。意思を持っているかのようだ。人がフラフープをするかのようである。
大木から何かが落ちてきた。木だ。大木から切り離された木。
大木があまりに大きいため、それは枝のように見えていたが、そこらの山々に茂っている針葉樹などと変わりない大きさ。それがゆっくりとふってくる。
「あれは、なんですか……」
大木に目を奪われていた一条が、目を細めて言った。
理解しがたいものだった。木の枝に何かついている。
「あれは、人間? いや、あれは……」
すぐにそうでないと気づいた。
首吊り死体だった。木にロープが結んであり、その先端の輪に、誰の者か分からない人間の死体が縛られている。
やせこけた死体。白い肌が青紫色に変色している。縄で首が絞めつけられている。
揺れない木と、微かに揺れる死体。
首つり死体が目を開けた。
生きているのか。死体ではないのか、と一同は思った。
だが分からない。アマデウスは詠唱した。ということはこれは魔術だ。だが分からない。こんなものが魔法であっていいのか。
しかし魔法なのだろう。詠唱があったのだから。
人なのか、死体なのか、それ以外なのか。なにも分からなかった。
死体の目が開いていることを確認できるほどには、木は近くまで降りてきていた。
口を開き、死体が何かを言っている。
「びじべだぜいより、じんあいだるぜいを……」
手頃な岩の上に座り込んでいた政宗が、「惨めな生より深愛なる死を」と翻訳するようにつぶやく。ぼそぼそとしていて、他の者にきこえなかった。
一条だけがその声をかろうじて聞き取る。
不気味なものでもみるような目を、政宗――ニトへ向ける。
呟かれる度に首つり死体の目はますます見開き、目の際――内眼角と外眼角が裂けた。眼球が飛び出した。
「びじべにあごがでどゅぐだいなら、じんあいだるじを……びじべにゆべをみでゅぐだいだら……」
政宗がまた「惨めに憧れるくらいなら深愛なる死を、惨めに夢をみるくらいなら……」とつぶやく。
首つり死体が、飛び出た目でブラームスを見た。口元の裂けた笑みを向ける。死体は活舌よく、はっきりと言った。
「親愛なる死を、賛美なる笑みで迎えよ!」
何かの合図だ――ブラームスは感じ取る。
小さな木が、さきほど上空の大木がみせたように、強風にあおられたように体を激しく揺らしはじめた。
茂る葉と枝の隙間から、無数の丸い橙色の実が飛び散った。オレンジだ。首つり死体の頬に、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「みじめな生より親愛なる死を! みじめに憧れるくらいなら親愛なる死を! みじめに夢をみるくらいなら! 親愛なる死を、賛美なる笑みで迎えよ!」
執拗に、笑顔で泣き叫ぶ死体。
その痩せた体からは想像できない声量だ。
大量のオレンジが、ブラームスの真上の空を覆った。
アマデウスは両手を広げ、笑った。むせながら笑った。腹を抱えた。
ブラームスへ手をかざす。
「貴様に親愛なる死を与えてやる」
飛び散ったオレンジがブラームスとの周囲に飛来した。
次々と際限なく落ち続けるオレンジ。湿地帯のぬめりにはまる音と、叩きつけられ潰れる音が、交わり響く。
まるで咀嚼音だ。
人が口を開けなけがら、食べ物をくちゃくちゃと何度も咀嚼している不快な音。それが隙間なく聞こえる。聴覚を支配する。
ぬめりは時に落下の衝撃を吸収するも、その上からまたオレンジが降り注いだ。
潰れたオレンジ――中身は、色鮮やかなオレンジ色の果肉。ではなく。赤くドロドロとした、まるで生き物の内臓のようだった。
牛の死肉のような異臭を放ち――腐った牛乳の臭いにも似ている――もはやオレンジの面影はない。
周囲は死肉の臭いに包まれた。
精霊王ですら鼻をつまんだ。
ブラームスは止まぬオレンジの雨に頭を守り、身構え、アマデウスを警戒した。
途端に雨は止んだ。呆気なく。
「終わりとは悲しい。ただ喪失感だけを残し、まるで、それまでのすべてがなかったことのように過ぎ去っていく」
音の消えた湿地帯で感傷に浸るアマデウス。
「ならば終わらせなければいい」
広がる赤い水たまり。揺らぎがなく静かだ。そこから一斉に何かが飛び出してきた。
一見するとミミズだった。目を細めてもやはりミミズ。普通よりも良く育っていると思えるほどの、一般的な大きさのミミズ。
それらが一斉にブラームスへ飛びかかる。
体をよじらせ手で乱雑にはじく。体についたものを振り払った。
だが数が多すぎた。大量のミミズにまとわりつかれ、ブラームスの姿は見えなくなった。
「ブラームス!」
焦る表情と共に、呼びかける精霊王に、「ボルート様、稲妻です!」とフィオラ。
「わ、分かってるわ!」
ボルートはすぐにブラームスへ青い稲妻を浴びせたが、ミミズはびくともしない。
ミミズを攻撃するのではなく、ブラームスに着せていた稲妻の鎧へさらなる稲妻を与え、強化した。だがミミズは全くダメージをうけなかった。
ミミズのチョコレートフォンデュの中から、ブラームスの悲鳴が聞こえる。
アマデウスが腹を抱えて笑っている。ブラームスの悲鳴が聞こえるたびに、それが笑いのツボにはまったように笑う。
高笑いが湿地帯に響く中、突然に赤黒い波動が、ブラームスをおおっているミミズを皆殺しにした。
ブラームスのみならず、それは周囲の柑橘類と、異臭の原因だった物体と液体のすべてを消し飛ばした。
《
「茶番は終わりだ」
解放されたブラームス。衣服のすべてがなくなっていた。
血まみれだ。体の皮膚はおろか、肉が食い荒らされたようにぼろぼろだ。全身に無数の小さな穴があいている。
一瞬で変化した景色。
「お前……」
アマデウスの赤い目が、政宗を捉えた。
「ブラームス、しっかりしなさい。契約が弱まってるわ。このままじゃ」
「ボルート様、契約をきりましょう。この、ままでは、ボルート様まで」
ブラームスの声は弱々しい。
ブラームスの足元に黄緑色の魔法陣が現れた。彼の体を同じ黄緑色の光が包んだ――政宗の治癒魔法だ。
それはブラームスを癒し、急速に傷は塞がっていく。
悲しみにくれていたボルートが、政宗へ「ありがとう」と戸惑うように言った。
「どういう、つもりだ?」アマデウスが訊いた。
ジークの背後に三つの魔法陣が現れた。転移魔法陣だ。
姿を見せたのは豊王シュナイゼル。二人の金騎士を護衛に引き連れている。
「ニト殿!」
シュナイゼルはすぐさま周囲の状況を確認しつつ、政宗の姿を見つける。
政宗は聞こえているが、応えない。
「次から次へと……」
うんざりしたようにアマデウスが言った。
アマデウスはシュナイゼルの姿を確認すると、先程までの意気揚々とした様子から一変、深いため息を吐いた。
「どこを見渡しても人間か。疲れる」
そう言ったアマデウスの体が、赤黒い影に覆われた。
体が、取り込まれたように圧縮していく。最後には見えなくなった。
アマデウスは、姿を消した。
消えるとき、赤い目が政宗を睨んでいた。
また何かの魔法かと身構えていたジークだったが、アマデウスに逃げられてしまったこと理解する。
だが、逃げられた、と考えるほど愚かではない。
助かった、とそう思った。
逃がしてもらったようなものだ。
「ニト、なぜ逃がした?」
咎めているわけではない。ジークはただ純粋に分からなかったのだ。
彼にはアマデウスの気配の消失が分かっていたはずだ。なぜなら魔力を感じ取れるからである。
ニトなら少なくとも手傷を負わせられたはずだ。
「俺は……」
政宗は、何かを答えようとしているようだった。
だが何故か言葉を詰まらせている。
「もう俺を呼ぶのはやめろ」
それが最初に出てきた言葉だった。
「俺にも用事があるんだ」
まるで他人事のようだ。
アルフォードの死に、何も感じないのか。
そう言ってやりたかったが、ジークはこらえた。怒ってはいない。ただ言葉をおさえた。
「アルフォードのことは、すまないと思ってる」政宗は言った。「俺がもう少し早くきていれば、助かったかもしれない」
「奴を放ってはおけない。アルフォードのためにも……。ニト、お前はそうじゃないのか? お前にとって、アルフォードは仲間じゃないのか」
「どう、だろうな……」
ジークは政宗を凝視した。目を細めただけのようにも、睨みつけているようにも見える目つきだ。
シュナイゼルの声がした。「ニト殿!」と呼んでいる。返事のない政宗に対し、
「その愛想のなさ、ニト殿で間違いないな」
シュナイゼルは冗談交じりに言った。少し歩いただけだが息が上がっている。
ジークへの返答がないまま、政宗はシュナイゼルへ言った。
「数日前に会ったばかりだな。先に言っとくが。シュナイゼル。あれはお前のこれまでの人生が招いたことだ。俺の問題じゃない」
「何の話だ?」
返答はなく、政宗はダンジョンの渦を出した。
ジークへ振り返り、
「これまで何度も貢献してきたはずだ。偶然、毎回、縁のある国だったこともあるが、俺はお前らを助けてきた。お前の要望にも答えてきた」
「ニト、俺は……」
「俺に頼りすぎだ。お前はリーダーだろ。これはお前が招いたことだぞ。俺のせいじゃない。お前のやり方次第では、アルフォードは今も、お前の隣にいたはずだ。それが不可能な、この現状を生み出したのは、お前自身だ」
政宗の姿が渦の中へと消えていく。
「俺に関わるな」
ジークは何も言い返せなかった。
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