第216話 【惨劇の雨編】:帝国の始まり

 獣国ネイツャート・カタルリア、王座の間。

そこに獣王セリオン、ミネルヴァ、そして幽閉の解けたアンナの姿があった。傍らには獣王の側近と士官の姿も見える。


「セリオン様、予てよりお伝えしておりました帝国からの文書についてですが……」


いつものように本日のお知らせを話す爺や。


「またその話か、よい、ウラノスは何を考えておるのか分からん。関わるだけ損をするのはこちらだ」


「いえ、そうではございません。今回お話ししたいのは、会談の文書についてではなく、傭兵委託の件でございます」


「傭兵の委託だと? 聞いていないぞ、なんだそれは?」


セリオンが聞いていないのは当然だ。爺やは何度も機会を窺い話そうとしてきたが、セリオンは帝国の名が出るだけで嫌悪感を示し、聞こうとしなかったのだから。


「はい、実は少し前から、また帝国より文書が届くようになりまして、その内容というのが傭兵の委託についてのものだったのです。つまりは獣戦士を帝国の兵として貸してほしいという内容でした。これについてはいかがいたしましょう?」


「論外だ! 戦士を貸す訳がなかろう」


ようやく話は聞いたものの、セリオンは即答で断った。それに対し、爺やは案の定というような表情を浮かべ、「分かりました」と引き下がる。


「獣王様!」


するとその時、大扉が突然に開くと、そこに血相を変えた衛兵が現れた。


「どうした?!」


その様子からただごとではないと察するセリオン。すると呼吸を落ち着かせ衛兵は答える。


「ご報告申し上げます! ただ今、侵入者にぃ!……ガハッ……」


だが次の瞬間、報告に訪れた衛兵の首を、背後から剣の刃先が貫いた。すると剣先が刺さったまま前のめりに倒れる衛兵。そして、そこに侵入者の姿が現れた。


「獣王セリオン、我の魔力に気づかぬとは、力が衰えたか? お主が来ぬから、我直々に来てやったぞ?」


黒の光沢を浴びたプレートアーマーに金色の線がいくつも見える。両肩がすっぽりと隠れるほどのマントを羽織り、その背中には、黒いドラゴンの姿が描かれている。だがドラゴンには首がない。2つの剣が交差するように描かれており、まるでそれが龍の首を切り落としたかのようなイメージを植え付ける。

ウラノス・ダームズケイル。そこに帝国の皇帝が一人、護衛も付けず、当然のように立っていた。

その姿を見たセリオンに驚いている暇などない。セリオンは王座から立ち上がり、すると衛兵に告げた。


「奴を取り囲め! 決して広間に入れるな!」


セリオンの表情には困惑、そして焦りが窺えた。ウラノスの体から漏れ出す魔力は凄まじく、魔法を交わす前でさえ、その力が強大であることは計り知れた。だがセリオンは今の今まで、何故ウラノスの魔力に気づかなかったのだろうか? ウラノスが話したように、力が衰えたことで魔力を感じなかったのだろうか? いや、そうではない、ウラノスは自身から漏れ出る魔力の波動をコントロールし、気配を隠していたのだ。そして広間に現れた直後から、その力を開放した。


「爺や! 2人を守れ、私がやる」


傍らで動揺しているミネルヴァとアンナを守るように告げるセリオン。2人では当然敵わないとそう判断したのだ。だがそれはセリオンとて同じこと。

だが、いきなり自分が抗戦すると言い出したセリオンに、後ろへ下がるように促す爺や。爺やとしては、ここで王を殺される訳にはいかないと、そう強く思っていた。だが相手は皇帝であり、セリオンには分かったのだ。ここにいる誰も、この男には敵わないということが。


「お母様!」


「母上!」


ミネルヴァとアンナは明らかにいつもと様子の違う母親の身を案じていた。だが2人にもセリオンの表情の意味は分かっている。アンナは魔法の才には恵まれていないものの、それでも皇帝の異常な魔力は感知できた。そして、もちろんミネルヴァもそうである。アンナよりも、はっきりと魔力を感知したミネルヴァは、セリオンを心配し、圧倒的な魔力差から、母親の死をイメージしていた。


「母上! 私が援護します!…「良い!」


戦いに加わるというミネルヴァ、だがセリオンはミネルヴァの言葉を遮った。


「自分の命を心配していろ。お前まで死んでしまっては、この国はどうなる? 次代の王はミネルヴァ、お前なのだぞ?」


「……」


ミネルヴァはそこに、セリオンの覚悟を見た。


(母様は分かっている。皇帝と戦えばただでは済まないことを……)


「フハッハッハッハッ! セリオンよ?! これはお主が招いたことだ!」


すると扉前で豪快に笑いながら、不意に話しかける皇帝ウラノス。


「我はこの数年の間、お主に何度も友好条約を持ちかけ文書まで送り、王としてのお主に敬意を表し、くだらぬ礼儀を尽くしてやったのだぞ? とは言え、お主が想像しておる通り、それは表面的なものに過ぎぬ。すべては軍だ。お主ら獣人こそが我の目的であり、そのために今日、我はここへ参った」


ウラノスの足元で血を流し横たわる衛兵に目を向けるセリオン。


「何故、殺した?! そんな必要がどこにあった?!」


「”分かり易く分からせる”ためだ。お主ら獣人は痛みを知らぬと、その本質に気づかぬであろう? その証拠にお主はまだ気づいておらぬ。もうこの国に希望はない。我が今日ここに現れたこと、それが何を意味するのか? それは……」


神妙な表情と高みから見下ろすような視線で、2人の王女と獣王を窺うウラノス。


「――王族の血を絶やすことだ。お主ら白猫族は今日、その長きに渡る歴史に終止符を打つことになる。少なからず国内にいる白猫族は終わりだ。未来永劫、この国に獣王が生れることはない。それに、既に一人、殺してきたところだ」


「……今……なんと」


ウラノスが言い放った言葉に、言葉を失いながらも問うセリオン。だがセリオンには、もう既にその言葉の意味が分かっていた。


「第二王女セレナだったか? ククク……良く調べておるであろう? そちらも調査済みだ。ここへ向かう道中、アノール・フェリアへ立ち寄ったのだ。稀有な人生だ、獣国の風習を拒み、そしてアノール・フェリアなどという無法地帯を好むとは……だがその結果、最初に命を落とすことになった……なんとも、嘆かわしい話だ」


自分で殺したと言っておきながら、眉間を摘み、わざとらしい悲しみを表現する皇帝。


「嘘だ……」


するとその時、広間の片隅にいるミネルヴァが言葉を漏らした。その表情は徐々に絶望へと向かっていく。悲しみをこえた絶望だ。


「第一継承者ミネルヴァか? 今、嘘と申したか? では教えてやろう、それこそ嘘だ。お主は分かっておるであろう? 表情にそう書いてあるではないか?」


するとミネルヴァの目を凝視し、ニヤリと笑みを浮かべる皇帝。ウラノスはわざと大袈裟にセレナの名を口にすることで、ミネルヴァやセリオンを煽っているようにみえた。狡猾な男だ、そして非常にして残虐。


「そうだ、残念だが嘘ではない。お主と同じ白い耳に白い尻尾、そして銀色の長い髪に透き通った白い肌。我はこの目でしかと見とどけたぞ? 王女セレナは死んだ――」


「嘘だぁああああああああ!」


その瞬間、ミネルヴァの足と体が動いた。どこからか赤く発光する刀を取り出し、正面に突き立てながら、一瞬で皇帝の目前に移動したのだ。皇帝を囲む衛兵を飛び越え、すると皇帝の目の前に下り立ったミネルヴァは、怒りの眼差しで躊躇いなく切り込んだ。


「元気が良い、まだお主に死んでもらっては困るのだ――」


だが皇帝がそう言い放った時だ。


「なっ!…………」


ミネルヴァは直前で足を止める。その手には先程まで持っていたはずの刀がない。すると金属音と共に隅の壁に突き刺さる刀の姿が見えた。


「そんな……」


ミネルヴァは驚愕の表情で固まったまま、疑問符を浮かべていた。今何が起きたのか、ミネルヴァにはまったく見えなかったのだ。


「刹那の話になる」


するとその疑問符に答えるウラノス。そう、それはまさに刹那の出来ごとであった。ミネルヴァは目でも感覚でも、一切反応することができなかった。気づくと刀を手放していたのだ。


「ミネルヴァ!」


すると娘を心配するセリオン。


「動くな! 獣王よ、妨げればこの娘の命はないぞ?」


命がある保障などどこにもない。それを分かっていながらも、セリオンは動くことが出来ない。広間の隅でアンナは、皇帝の姿に怯えながらある者の名を呟く。


「オリバー……」


だがその声は誰にも聞こえない。


「我が求める者、それは強き戦士だ! 帝国の繁栄のためには、お主ら獣戦士の力が必要なのだ。どうだ? ここに、我に仕える気のある者はおらぬか? 名乗り出てみよ? 帝国に従う者を我は殺さぬ。約束しよう」


すると隣同士で顔色を窺い始める衛兵たち。その表情には迷いが見えた。皆、死にたくはないのだ。

すると一人、足を踏み出す者がいた。その者は多数の兵の中でも大柄で鎧の上からでも分かる強靭な肉体を誇っていた。

兜を取ると、皇帝に素顔を見せる衛兵。するとそこには『獅子』をイメージさせる長く伸びた“たてがみ”が見えた。


「ガゼル・クラウンと申します」


「ふむ……獅子族か、これは珍しい。それで?」


「ご助力いたします。我をお使い下さい」


「なるほど、それで? 何を求める?」


「退屈せぬ、闘いの日々です」


「ふむ……なるほど、実に良い答えだ。お主にはそれなりの地位を与えよう」


「感謝いたします」


衛兵の一人が寝返った。獣王はその様子に事態を飲み込めず、答えを求める。


「ガゼル……何故だ? 何故……」


セリオンは分からなかった。貧しい思いをさせたことなどないはずだ。

セリオンは良き王だった。民を思い、衛兵は勤務時間が長いこともあり、それぞれには十分なほどの報酬を与えていた。だというのに……


「何故だ?……」


「……刺激が足りぬ」


獅子の獣人ガゼルの口から最初に出た言葉はそれだった。


「刺激、だと?」


「平和、平和と……あなたは平和に憑りつかれ、戦士団すら組織しない。獣戦士校なるものを築いておきながら、どれだけ優れていようと戦士の未来は衛兵止まり、まるで報われぬ努力。どれだけの鍛錬を積み! どれだけの思いで! 我ら戦士がここまできたとお思いですか? 我ら戦士は国のお飾りではない。獣戦士だ! 平和は、結構なことです。だが、それでは刺激が足りぬ。生きている感触すらない。力は使ってこそのもの、多種族を寄せ付けず甘い汁を吸い、このぬるく刺激のない日々を送るくらいなら、我はウラノス様と共に、人間界へおもむきましょう。その方がマシだ……」


「では、私も行くとしましょう」


その時、また一人衛兵が申し出る。ウラノスはニヤリと笑みを浮かべ、兜を取るそのものを見た。毛の一切生えていない白い肌、だが透き通ってはいない。そして痩せこけたような頬に目の周りのくま。白い髪をオールバックにまとめているが横を刈り上げたようなツーブロックとなっている。


「お主は、何と言う獣族だ? 外見からして……」


それはウラノスでさえ分からなかった。


吸血鬼ヴァンパイアです。名を、ギド・シドーと申します」


相手を愚弄するような癖のある口調に不敵な表情、それがギド・シドーだ。


「なるほど、これはまた珍しい。既に絶えた種族と思っていたが、よもやここで出会えようとは、クックックッ……これは好機か」


「いえいえ、これは私にとっても好機でございますよ、皇帝? 理由はガゼルさんと同じであります。この“おり”から抜け出したい……」


「フハッハッハッハッハッハッ! 檻か! 獣王セリオンよ! お主の築いた国は檻であると言われておるぞ?!」


離れていく兵、戸惑うセリオン、だが引き留める術がない。セリオンはこの瞬間、王としての自身を失ったのだ。

すべて十分だと思っていた。だが兵は離れ、嗤う皇帝は見捨てられた国の王を“見下ろす”。そして、この間にも次々と寝返る戦士たち。


「お前らぁあ! それでも獣族かぁあ?! 獣人としての誇りはどこへいった?! そいつは人間だぞぉお?! 人間に加担すると言うのかぁあ?!」


一人の衛兵が裏切る獣人に怒号を浴びせた。すると、ニヤリと笑みを浮かべ、ギドが振り向く。


「“人間に加担”ですか? やれやれ、だからこの国は成長しないのですよ? 人種差別など、もう時代遅れなのです。獣人が多種族よりも優れていると豪語できた時代はもう、とっくの昔に終わっているのですよ。では、この現状を見てください? 獣王は人間であるウラノス様に何もできないではありませんか? ただ一つ、それでも誇れる長い寿命と生命力ですが、それもこの温室では何の意味もなさないでしょう。ガゼルさんの言った通りですよ、刺激がなければ死んでいるのと同じ。生き地獄から抜け出したいと思うのは当然ではありませんか?」


ギドは完全に寝返った。そして

その時、戻ってこいと嘆願していた衛兵の首が飛んだ。ウラノスだ。その一瞬に、ウラノスはギドの腰にあった剣を使い、考えを変えぬ衛兵を殺した。ギドはあまりに早さに不敵な笑みを浮かべつつも、冷や汗を浮かべる。


「獣人の生命力、寿命か。確かに人間にはないものだな、それどころか“アダムスの意志”に従うのなら、長寿は悪しきものだ。しかし限りある命でも、獣王よ? お主よりも我なら意味のある時間を提供できよう」


するとこれ以上は待っても無駄だと判断したのか、ウラノスは手を掲げた。


「これより、獣国は帝国の傘下となる。――【枝分れする稲妻ゲゼル・インドリーゴ】!」


その瞬間、ウラノスの手の平より上空に放電する雷の球体が出現する。魔法陣すらなく、詠唱以外の前触れもなく魔法が放たれた。


「無……無詠唱だと?」


その魔法に目を見開き驚愕するセリオン。


「ふっ、我には容易いことだ。我を何と心得る?」


「“終焉帰り”の……大魔導師」


「そうだ……そしてこれがお主にとっての最後となる。冥土の土産に見せてやろう、“ビクトリア”の魔法を――」


その時だ――


「――――」


それは刹那の出来ごとであった。あまりに突然のことで、セリオンは言葉を失っていた。

放電する球体を発生源に、広間全体を埋め尽くす“枝分かれした稲妻”。それらが、側近、士官、衛兵、そして、獣王セリオンの心臓を貫いていたのだ。


「ゴフっ!……」


心臓に稲妻が刺さり、口から血を吐くセリオン。体に“稲妻”が流れ痙攣している。


「お母様ぁあ!」


先程まで怯えていたはずのアンナの声が広間に響いた。ミネルヴァはその様子を、身動きもできずにウラノスの傍らで見つめている。


「母様……そんな」


自然と歩み寄っていく足、その先には母親のセリオンがいる。だが……


「おっと、お主はここにいてもらおう。最後の別れくらいは用意してやる」


ウラノスは近づくことを許さない。すると稲妻を解除するウラノス。だが解除したところで刺された者たちは地に伏せ、起き上がらない。中には既に死んでいる者もいた。


「セリオンよ、お主は死ぬ。そして今日よりミネルヴァ? お主が獣王となるのだ」


ウラノスはゆっくりと王座で胸を抑えながら肩を震わせるセリオンに近づいていく。セリオンは身動きができず、ただ荒い呼吸を繰り返すだけだ。


「我の要求を無視した報いだ。これより獣国は我のものとなり、お主は死ぬ。そういえば、王族が一人残っていたなぁ?」


すると茶色い猫族アンナの方を見るウラノス。


「王族でありながら一人、茶色い姿で生まれた不遇な者か……ミネルヴァよ、お主が我に従わぬことは目に見えている。しかし我もそう馬鹿ではない」


すると後退りしながら震えるアンナに、容赦なく人差し指を向けるウラノス。


「やめろ……やめてくれ!ぇえ……」


ミネルヴァには分かった。これからウラノスが何をするのか。王座のセリオンはその様子に、苦痛の表情を浮かべながら見つめているだけだ。もうセリオンは息絶えようとしていた。

ミネルヴァは酷く動揺した表情と、おぼついたような足でウラノスに近づく、だが止めることができないことは分かっている。


「殺しはせぬ、だがお主のかせとしよう。今後、お主は我に背けぬ。背けばお主は、すべてを失うことになるからなぁ?」


ミネルヴァには分からない、ウラノスの言葉の意味が。だがそれは直ぐに分かった。ウラノスがその瞬間に放った、その魔法で――


「【解けぬ呪いの氷結晶ハー・ブエスト・アイスエイジ】!」


「やめろぉおおおおおおお!」


ウラノスの指先から小さな白い光が飛び出した。それは真っ直ぐに向かい、アンナの胸元に入ると、触れた瞬間に氷となり、勢いよく広がりながらアンナの全身を包み込んだ。


「時間凍結魔法だ。この魔法は、術者が解術せぬかぎり、つまり、我が死のうと解けることはない。この魔法は受けた者とその周囲の者の時間を奪う。ミネルヴァよ、仮にこの者が目覚めた時、お主は生きておるかな?」


ウラノスはミネルヴァの目を真っ直ぐ見つめ、笑みも浮かべず語った。すべてはその目に書いてある。――“従え”と。


「獣国は……我は王として、お主を……許さぬ」


すると真っ青な顔でそう呟くセリオン。それはセリオンの最後の力だ。


「まだ生きておったか、やはり獣人なだけはある。生命力が違う。だがもうお主の時代は終わりだ。この国は飾りの王ミネルヴァが治め、支配するのは我だ」


すると次第に、セリオンの視界が衰える。しばらくして、完全に獣王セリオンは動かなくなった。

そして、広間に残された者へ、ウラノスは指示を出す。帝国の戦士となった者たちへの最初の任務だ。


「国民に告げよ! この国は皇帝ウラノスの物であると、そして帝国に従う者に、我は手を出さぬ。我の意志に従う者を正門前に集結させよ、その後、帝国へ帰還する」


その言葉に従い、広間を後にする戦士たち。そして皇帝ウラノスは、地に両手をつき項垂れるミネルヴァに最後の言葉を与える。


「さあ、新たな獣王ミネルヴァよ。我のために戦士を生産せよ」


「それが、狙いか……」


ミネルヴァの目はウラノスを見ていない。まるで口が勝手に動いているようだ。


「帝国にはまだ兵が足りぬ。だが生憎、時間はまだ十分なほど残っているのだ。その間、お主は戦士を生産し帝国に提供し続ける。それさえ守ればアンナの命は助けよう」


「セレナは? セレナはどうした?……」


「先ほど申したであろう? 殺したと、王女セレナは死んだのだ。それだけは変わらぬ。もうあの町に生きている者は一人たりともおらぬ」


「ネムは……」


「ネム? はて、一体それは誰のことだ?」


――皇帝はネムを知らない。項垂れながら、ミネルヴァはそれに気づく。


「兎に角、我の意志は絶対だ。セレナは我に従わなかった。だから殺したのだ。お主も従わぬなら殺す、だがその時はアンナも同じだ」


すると言葉だけを与え、返答も待たず、ウラノスは広間を後にする。ミネルヴァが最後に漏らした”ネム“という単語だが、ウラノスには興味がなかったのだろう。

だが一つだけ分かった。ウラノスはネムを知らない。ミネルヴァはそれを胸に、ゆっくりと立ち上がり、“誰もいなくなった”広間を見渡す。


「アンナ……」


だが氷に封印されたアンナから返答はない。


「母様……」


獣王セリオンは既に死んでいた。


「皆……」


もうそこには、ミネルヴァただ一人しかいない。ミネルヴァの愛する者は殺され、アンナは氷漬けにされてしまった。だが……


「ネム……」


ネムはまだ分からない。

そして、ミネルヴァは涙に濡れた顔を拭い、皇帝が去ったことを確認した後、一人、ネムを探しにアノール・フェリアへと向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る