第4話

 宗平を仲間に加えた一行は、街道脇の森の中に布を敷き枝に布と縄をかけて簡易の寝床を作り野営をしていた。時折、孝明がヒョウタンの水に意識を向けているかと汀に問うのを疑問に思った宗平が、なぜヒョウタンの水を気にかけるのかという問いに、こういうことが出来るようになるためだ、と野営場所に選んだ水場で孝明が水を浮かべて見せ、宗平は感心したように、不思議そうに首を動かし、眺めまわす。


「汀には、これが出来る資質がある。その訓練のために、ヒョウタンの水を気に掛けさせている」


「手妻では、無いのか」


「種も仕掛けもあるが、手妻とは違うな。気脈というもののことは、武芸をたしなんでいるのならば、知っているだろう」


「ああ。居合切りの時に放つ気や、触れずに相手を圧倒させるようなものだろう」


「それを、うまく扱えばこういうことが出来る」


「ほぅん……?」


 呆れたような、納得したような、不思議がるような声を発し、首をかしげて眺める宗平に、連日の稽古でヒョウタンの尻をくるくると難なく回転させることが出来るまでになった汀が、自慢げに自分の腕を披露する。


「ヒョウタンの中の水を回して、ヒョウタンの尻を回しているのか。なるほど、なるほど」


 原理はわかるが仕組みが分からないらしい宗平は、感心しながらも眉間にしわを寄せている。持ち上げていた水を下した孝明が、こういうことが出来るから汀は孝明の事を法師だと思っているのだと言った。


「なるほど。法力のようなものか」


「法の力を使っている気はないが、まあ、そう思うのが納得をしやすいだろうな」


「便利そうな力だな。重い荷物でも、ひょいと軽く運べるんじゃないか。旅で必要な水も浮かせて運べば、水場を探す苦労も無いだろう」


「そんな便利なものじゃあ無い。眠っている間も維持をするということは、出来ないからな」


「気を失っても、いかんということか」


「そういうことだ。常に気を張っていなければ、安定をさせられない」


「それは、疲れそうだな」


「けっこう、疲れるな」


 ぐるんぐるんとヒョウタンを回す汀に、二人の大人が目を向ける。


「汀。あまりそうしていると、どっと疲れが出るぞ」


「もっと、早く自在に操れるようになりたい」


「そうか」


 強いて止めることもせず、楽しげにしている汀から草を食む焔へと目を移した孝明に、宗平が声をかけた。


「あの馬は、いい尻をしているな」


「なんだ。人より馬のほうが好みか」


「馬鹿を言え。某とて武人の端くれ。良い馬を見分ける目は持っているつもりだ。そういうつもりで、言ったんだ」


「わかっているさ、宗平。汀の村で、馬を一頭欲しいと言ったら、焔を用意されたんだ。何処からどうやって手に入れたのかは知らないが、苦労をしただろうな」


「それだけの期待を、寄せられていると言うことだな。孝明は」

からかう声の宗平に、大仰にため息をついて見せた孝明が、うそぶいてみせる。


「これほどの重圧、耐えられそうも無い。いっそ、知らぬふりをして別の国へと逃れてしまおうかとさえ、思うぞ」


 ちら、と目を見合わせて似たような悪童の笑みを浮かべあう二人に、汀があくびをしながら「おやすみなさい」と言ってくる。それに答え、いつの間にか汀を挟んで眠ることが常となった二人も身を横たえ、宵闇よりもまだ暗く、森の息吹のように暖かな暗闇へと意識を沈めていった。



 街道の途中、ぽつんと見えた農村らしい姿に、あそこに立ち寄ろうかと孝明が声をかけると、宗平は苦い顔をした。


「なんだ――寄りたくない理由でもあるのか」


「いや――」


「じゃあ、どうしてそういう顔をする」


 ううむ、と言い淀み鼻の頭を掻いた宗平は、あの村は無人だぞと言った。


「行っても、誰も居ない。おそらく、村中で示し合わせて、どこかに逃げてしまったんだろうな。襲われたような形跡も無かったから、な」


「立ち寄ったことが、あるのか」


「三月ほど前だ。その時は、逃げたすぐあとだったのか村も田畑もきれいだったが、人の気配が少しも無くてな。牛なども連れて出たんだろう。家畜小屋には鶏が数羽いたのみで、繋がれていたらしい牛や馬の姿は、影も形も見えなかった」


 ふうむ、と宗平の言葉を受け止めた孝明は焔の背に居る汀を見上げた。


「汀――久しぶりに、屋根のある所で休みたくはないか」


「おれはどっちでもいいが、焔をきちんと休ませてやりたいな」


 ぽんぽんと馬首を叩く汀は、焔は野営の折には寝ずの番をしているものと、どうしてだか思い込んでいるらしい。野営の後には必ず、一番疲れているのは焔なのに、と一言焔に詫びを入れてから孝明に抱き上げられ、乗せられている。


「人のいない村には、物の怪がいるかもしれないぞ」


 声音を震わせ恐ろしげな音にして、にたりと笑う宗平に汀がぷくりと頬を膨らませる。


「おれは、物の怪など怖く無い」


「本当にそうか――? 汀は、物の怪に会ったことがあるのか」


「無い……けど、でも、そのようなもの、恐ろしくなんか無いぞ」


「ふうん? おれは、恐ろしいがな。あの姿を見たときには、総毛だって身動きが出来なくなってしまったぞ」


 おお、と身を大げさに震わせて両手で自分を抱き締めてみせる宗平に、焔の上から汀が身を乗り出した。


「――――宗平は、物の怪と会うたことが、あるのか」


「あるとも。旅をつづけ、山の中に眠ることも多かったからな。山の中で物の怪の宿に泊まったこともある」


 両腕をさすりながら、未だに恐ろしい気配を肌身に纏わせるふりをする宗平の目は、いたずらに光っている。それを見取った孝明が、口の端を薄く持ち上げた。


「物の怪の宿とは、どんな所だ」


 ぶるり、と口にするのも恐ろしいとばかりに大げさに震えてみせた宗平に、すっかり引き込まれてしまったらしい汀が、さらに身を乗り出した。


「見た目は、普通の民家なんだ」


 声を潜め焔の肌に肩をつけて、汀の鼻先に顔を寄せ周囲に目を配りながら、宗平が話しはじめる。


「ある峠を越えた先に、小さな家がぽつんと建っていてな、婆さんが一人、住んでいたんだよ。日も暮れかかって来たし、腹も減っていたんでな、ちょっと世話になれないかと声を掛けたら、息子を亡くして寂しいから、遠慮をせずに一晩泊まって行ってくれって言うんだよ。野宿をしなくていいってぇのは助かると思って、ありがたく泊まらせてもらうことにしたんだ。…………温かい汁もごちそうになって、ほっと心地よくなってな、風呂までわかしてくれて、息子が帰ってきたようだって婆さん喜んでくれてよぉ。おれも、悪い気はしねぇから世話を焼かれて、寝床に入ったんだよ」


 語尾で、さらに声を落とした宗平に、焔から落ちてしまいそうなほど身を乗り出した汀が、ごくりと喉を鳴らして話の先を待ち構える。


「夜中にな……シャッシャッて音が聞こえて、目が覚めたんだ。薄目を開けてみれば、土間で婆さんが庖丁を研いでいるのが分かった。なんで、こんな時分にって不思議に思ってな、寝たふりをして様子を見ていたんだよ。そうしたら、婆さんがブツブツ言っているのが聞こえて来てな」


 おどろおどろしい顔と声を作った宗平が、まっすぐに汀を見た。


「久方ぶりの、若い男の肉が食えるって……聞こえたんだよ」


「肉――?」


「そうだ、肉だ。どういうことかと思ってな、俺は今起きましたって演技をして、立ち上がって、ちょっくら用足しに行ってくらぁって立ったんだよ。荷物を持っていけば、怪しまれるだろうから、手には何も持たずに、外に出た。そんで、厠に行くふりをして家の周りに何か、怪しいものはないかと探っていたら厠の横に妙な樽が置いてあった。――――すげぇ妖しい雰囲気が、その樽から漂ってきていてな、そっと開けてみようかと手を伸ばしたら、いつの間にか背後に立ってた婆さんが声をかけてきたんだよ」


 そこで言葉を切った宗平は、わざわざ焔の足を止めさせ汀の顔を真剣に覗き込む。つられて本当に落ちてしまいそうなほど、焔の背から身を乗り出した汀の鼻先と自分の鼻先が付くほど近くなってから、宗平は大きな声を出した。


「アンタもその中に、入るんだよぉおお!」


「っ、あぁあああああっ!」


 一瞬、息をのんだ汀が叫び声をあげ、焔が耳を震わせて前足を浮き上がらせる。身を乗り出していた汀は、棹立ちになった焔の背から滑り落ち、宗平の腕に抱き止められた。


「うわぁあああああっ!」


 抱き止めた汀に顔を寄せて宗平が叫べば、驚いた汀も叫び声を上げる。


「あぁあぁああああっ!」


 二人の叫び声を聞きながら、興奮した焔をなだめる孝明が呆れた目を面白そうに少し細めた。


「からかうのは、そのくらいにしておけ」


 ぺろりと舌を出した宗平が、ぽんとひとつ汀の背を叩いて地面に下す。それで我を取り戻した汀が、口も目も大きく開いたまま宗平と孝明を交互に見つめた。


「からかわれたんだ」


 丸い声で孝明に言われ、確認するように宗平を見れば鼻先を掻きながら誤魔化すような笑みを向けられた。汀は頬を膨らませ、宗平の脛を蹴り上げた。


「っ、いてぇ」


 ぷいっと顔をそむけて道をずんずん進んでいく汀の背を見ながら、孝明と宗平、気を落ち着けた焔は止めていた歩みを再開する。


「あんなに、素直に騙されるとはなぁ」


「純粋なんだろう」


「某があのくらいの頃は、そうでもなかったように思うがな」


「宗平は、昔からひねくれていたということか」


「そういう言い方は、無いだろう。まるで、某の性格が悪いと言われているようだ」


「良い、とでも言うのか」


「――いや、そう言われると返答に困るけどな」


 ずんずんと前を進む汀は、怒りを全身で表しながらも、ちらりと振り向き、孝明らが来ているかを少し不安そうな目で確認してくる。孝明は大丈夫だと言うように頷いて見せ、宗平は小さく手を上げて握ったり開いたりをして見せた。


「……そういえば、宗平」


「なんだ」


「何故、おれには“某”と言うんだ」


「何か、おかしいか」


「いや、気になっただけだ」


 ふうんと宗平が、にやつきながら孝明の顔を覗き込む。それに、顎を引いて怪訝に眉をしかめた孝明が「何だ」と問えば、顎をさすりながら宗平は何か得心したように何度も頷いた。


「だから、何だ」


 いぶかりに少々の苛立ちを含めた孝明に、いやなに、と宗平が人の懐に入り込む子どものような顔をして、孝明の肩を叩いた。


「孝明も、人の子なんだなぁと思ってな」


「何だそれは」


「いや――今までの短い道中だが、常に同じような感じで少々の表情の変化はあるものの、喜怒哀楽を大いに示すこともせず、世の中の何もかもを知っているような顔をして、何でも平気でこなしているからな。某は貴殿を、悟りを開いた世捨て人のようなものだと解釈をしていた。だがなぁ、いや、そうか……うん、うん」


 自分の思い至ったことに満悦している宗平に、孝明はますます怪訝に眉根のしわを深くした。


「だから、何だと聞いている」


「うん? だって、あれだろう――汀には“おれ”と言って、孝明には“某”って言う事が気になったんだろう? もしかして、貴殿って呼んでいるのも気にしていたんじゃないか」


「まぁ、気にならなかったと言えば、嘘になるな」


「そうか、そうか――なんだ。そういうことなら、早く言えばいいだろう」

くすぐったそうにしている宗平が、孝明の肩に乗せていた手で肩を組んできた。


「なんだ――」


 ひとりでニヤつく宗平に、意味が分からないと孝明が顔中で示す。それに、嬉しげな顔を寄せた宗平が顔のままの声音で言った。


「さみしかったんだろう」


「はぁ?」


 珍しく、頓狂な声を上げた孝明に驚きながらも笑みを崩さぬ宗平は、孝明は寂しがり屋だったんだなぁと言いだした。


「何故、そうなる」


「一人、距離を置かれているようで寂しかったんだろう? 何かのっぴきならない理由があって、身分を隠して旅をしているのかと思って多少なりと礼儀を持って接していたんだが、そうかそうか――そういうことならば、遠慮せずに対等に口をきかせてもらうぞ」


 上機嫌な宗平を見ながら、こっそりと息を吐いた孝明は、まぁいいかと思いながら肩に乗った手を払う。そうすれば宗平が照れるなと言って再び肩を組んできた。


「歩きづらいし、重いから離せ」


「いいじゃねぇか、少しぐらいの歩きづらさはよ」


 振り向いた汀には二人がとても楽しそうに見えて、仲間外れにされているような気持ちになった。寂しさが湧き上がり、立ち止まって怒ったふうに声を上げる。


「早く、村に入るぞ!」


「おう」


 陽気に応えた宗平に顔をそむけ、孝明の横に来た汀は手綱に手を伸ばし掴んだ。そうしてほっとしたように寂しさをごまかすために作っていた怒り顔をゆるめた姿に、孝明も宗平も目元を和らげ、無尽の村へと入って行った。



 村の中の適当な家に勝手に上がり込み、簡単に掃除をした一行は、家の裏に焔を繋ぎ、囲炉裏に火を熾して残されていた鍋を使い湯を湧かし、干し肉と米を入れた。そうして、山菜を採ってくるから火の番を頼むと孝明が腰を上げた。一人で行くよりも二人のほうが良いんじゃないかと宗平も立ち上がり、汀が一人では心もとないだろうと孝明が言えば、宗平は男子たるもの容易に心細がったりするものじゃあないと、汀に笑みを向ける。


「留守番くらい、村でもやっていた」


 先ほど宗平にだまされ怯えたことを気にしているのか、孝明に子ども扱いをされたことが気にくわないのか、あるいはその両方か――汀は背筋を伸ばして一人の留守番を請け負い、それでも心配そうにする孝明を宗平が促して、これまた残っていた笊を片手に何かあれば焔の背に乗り、駆けて逃げろと言い置いて出て行った。


 二人の姿を見送り、火の傍に戻った汀はクツクツと煮える鍋を覗き込み、良い香りに目を細めてから首に下げているヒョウタンを両手で包んだ。ヒョウタンと竜の根付がカランと乾いた音をさせ、汀は目を閉じヒョウタンの中の水に意識を集中させた。


 ぐるぐる、ぐるぐると水の回る姿を想像する。そうすれば、ヒョウタンの尻が震えはじめてクルクルと回りだした。目を開けた汀は、そこから水が浮き上がるようにと念じていく。回転する水は共に入っている細石の力も借りて、勢いを増しながら持ち上がっていく。ヒョウタンの括れの部分に差し掛かり、そこからさらに上へ登れと念じた。細石がヒョウタンの内側にぶつかり、カラカラと音を立てる。そこからさらに上へ上へと念じれば、根付の竜の目が鈍い光を放ち始めた。それに気づかず、汀はただ一心に意識を水へと向け続ける。そこに、ガタンと戸を開く大きな音が響いて驚き、水への意識が寸断された。


「なんだぁ? 無人の村だと思ったら、ガキが一人かよ」


 入ってきたのは、孝明でも宗平でも無い男だった。湾曲した幅の広い刀を腰に差し、頭に布を巻いている。ごつごつとした印象を受ける体躯は四角く、饐(す)えた気配を漂わせている。汀の全身に警戒が走ると同時に、別の顔が覗いた。


「ん、良い匂いだなぁ。ぼうず、それは何を煮ているんだ?」


 鼻をひくひくとさせた、今度は小柄な男が粘着質のある笑みを浮かべて、四角い男の脇をすり抜け汀に近づいた。尻で少し下がった汀に、怖がることは無いと怖気が走るような猫なで声で、小さな男が声をかける。


「オイラたちは、旅をしているんだ。村が見えたから、一泊させちゃくんねぇかと思ってなぁ……なぁ、ぼうず。大人は、どうした――どこに居るんだ?」


 小さな男が近づくのと同じ速度で、汀はヒョウタンを抱きしめてゆっくりと下がっていく。けれど家の中では下がるにも限界があり、汀の背は壁に止められてしまった。四角い男が入口をふさぐように立っており、家の窓は高い位置に格子を嵌めた形でしか無く、汀は他に逃げられそうな場所は無いかと、せわしなく目を動かして家の中を探った。


「そんなに怖がらなくても、お兄さんたちは悪い奴じゃあ無いよ。なあ、ぼうず……大人たちは、どこに行ったのか教えちゃくんねぇか」


 小さな男が手を伸ばしてきた。それを躱して、這うように逃げ出そうとすれば男の手が汀の腰帯を掴み、捕まえる。


「あっ――」


「逃げなくても、いいだろう――――ん?」


 汀を捕まえた男が、ヒョウタンを抱える汀の腕の隙間から見えた根付に目を落とし、入り口に居る四角い男に目配せをして、顎で近寄るように指示をする。


「なんだぁ?」


 近寄った男に、小さな男が見てみろよと促せば、四角い男は目を見張った。


「こいつぁ、なかなかのシロモンじゃねぇか――おい、ぼうず。その根付は、どうしたんだ? 誰からもらった……他に、そういうモンがここにはあるのか」


 身を固くした汀は口をつぐみ、男二人を睨み付ける。下卑た笑みを張り付けた男たちは、汀の腕を掴んでヒョウタンを奪おうとし始めた。


「っ、離せ――離せぇえ」


「おとなしくしろって! おい、オマエはガキを押さえつけてろ」


「あいよォ」


 身を捩り、足をばたつかせて暴れるが、四角い男に抱きすくめられ、動きを封じられる。小さな男が汀の腕を掴み、ヒョウタンを奪おうとしてくるのに、汀は口を大きく開けて指を噛んだ。嫌な感触が顎に伝わる。


「いってぇ!」


「こいつっ――ッ! いてぇ」


 四角い男の腕も噛んで、ひるんだところに体を回し、額を相手の顎にぶつけて腕から逃れる。顎を抑えて目を吊り上げる四角い男が腕を伸ばしてくるのに、小さな男の股下をくぐって逃げた汀は、そのまま家の外に転がるように飛び出した。


「焔ッ――」


 家を周り、焔の居る裏へと向かえば答えるように焔がいななく。それにほっとした瞬間、足をもつれさせ、汀は地面に倒れ込んだ。すぐさま起き上がり、焔の伸ばした手が手綱を掴もうとした瞬間に、汀の体は強い力で後方に引かれた。


「あっ」


「このガキ。優しい声を出している間に、言う事を聞いてりゃあ良かったんだ」


 四角い男が汀を掴み上げ、身動きを封じる。くやしそうに顔を歪める汀の顔を小さな男が覗き込み、おやと片眉を持ち上げた。


「よく見れば、悪く無い顔をしてんなァ。よし、彦佐。このガキごと街に運んで、金に換えよう。根付とガキで、当分は何もしないで遊べるぐらいには、なるだろうぜ」


 言いながら、小さな男が警戒をしながら焔の周囲をぐるりと回り、良い馬だなとつぶやく。


「又七、ほかの家は見て回らないのか」


「どういうわけか、今のこの村にはそのガキの姿しか見当たらねぇ。今のうちにトンズラかましちまったほうが、面倒は無いだろう」


「そうか、そうだなぁ」


 納得をした四角い男――彦佐が汀を抱きしめ直し、きょろりと周囲を見回して井戸に目を止めると、汀を小脇に抱え直し傍に寄った。


「おい、どうするんだ。彦佐」


「縄で、ガキを縛っとくんだよ」


「なるほどな」


 彦佐が片手で釣瓶を掴み、太い指で器用に縄をほどく。そうして解いた縄で、捕まってからおとなしくなった汀を縛ろうと、抱えていた腕を緩めた瞬間、汀が彦佐を蹴り付けた。


「あっ」


「おいっ」


 彦佐の体はびくともしなかったが、汀の体が蹴った力で腕からすり抜ける。空中で支えを失った汀の体は井戸の木枠にぶつかり、暗く長い井戸の中へと落ちて行った。


「ああっ! ガキと根付が」


 汀を捕まえようと伸ばされた彦佐の腕は空を切り、あわてて駆け寄り覗き込んだ小さな男――又七の顔が遠ざかるのを、汀は見ながら水の中へと沈んだ。


「ぷはっ」


 すぐさま浮き上がって上を見るが、とても登れるようには思えない。頭上に見える白く光る場所が、果てしのない空のかなたのように思えて、汀は不安と恐怖に胸を詰まらせた。鼻の奥がツンとして、こみあげてくるものを堪えるために、ヒョウタンを強く握りしめる。ぷかりと水面に浮かんで見上げる光の中に、覗き込む二人の男の影があった。


「おうい、生きているかぁ」


「すぐに、縄を下すから掴んで上がれぇ」


 うわわんと男たちの声が響いて耳に届く。しばらくして、縄がするすると下りてきた。これに掴まれば、上がれる。それは同時に、二人に捕まることになる。それは避けたい。けれど、他に上がれる方法が思いつかない。


 どうしよう――と、迷う汀の手の中で、カランと根付とヒョウタンが打ち当たり音を立てた。思わず見れば、根付の竜の琥珀の瞳と目が合った。


「――ぁ」


 その目が、汀の胸を震わせる。他にも方法があるだろうと、告げてくる。でも、と弱気になる汀の背を、大丈夫だと押すように竜が微笑んだ――ように、汀には見えた。


 きゅっと唇を引き結び、深く息を吸いこんだ汀は意識を自分を取り巻く水に向ける。ヒョウタンを、根付を両腕で抱きしめて、一心に念じる汀の周辺の水が震えだし、水音をさせはじめる。


「おうい、早く縄を掴めぇ」


 上から降ってくる声を無視し、汀は強く強く水に向けて念じた。震えていた水が、風も無いのに波立ち始め、立てる水音に覗き込んでいる男二人が顔を見合わせる。そんなことなど知る由も無く、汀は意識を凝らせる。腕の中のヒョウタンに詰まった石が、根付の竜が、汀の意識を受けとり増幅させて水へとそれを伝えていく。


 ざわめく水が一つの塊になり、生き物のように汀を包んで一気に押し上げた。


「ひっ……」


「う、ぁあ」


 ずぱん、と水が噴き上がり汀が迫ってくることに、背を逸らした男二人はそのまま空を仰いで尻もちをつく。あまりのことに声を失い、うねる井戸水が蛇の胴体のように汀を包んで浮き上がらせていることに――汀の腕の中で竜の根付が輝いていることに、腰を抜かした。


「も……もっ――――物の怪だぁああああッ!」


 外部の感覚を全て寸断するほどに意識を集中させていた汀は、彦佐の叫び声で我に返った。はっとして見たものは、這うようにして逃げていく男たちの姿と、自分を包む水の塊。そして、輝く竜の根付だった。


「おれは……」


 呆然とする汀を、水の塊は大切に地面へと下す。汀が降り立てば、水はするすると井戸の中に戻っていった。あわてて覗きこんだが、先ほどの事は白昼夢であるようにシンと静まり返っていた。


「おれ……」


 呆然と呟き、何処も濡れていないことを確認した汀は、かすかに光を放つ竜の根付を持ち上げ、まっすぐに竜の目を見つめた。


「――力を、貸してくれたのか」


 汀の問いかけに、竜の根付は目の光をゆっくりと鎮めて行き、やがて暮れはじめた日の光を反射するだけになった。


「……あぁ」


 落胆の息を漏らし、汀はじっと竜を見つめる。何の反応も示さなくなった竜に、にっこりと笑いかけて「ありがとう」と告げると、火の番をしなければいけなかったことを思い出し、あわてて囲炉裏端へと走って戻った。



 そんな汀の様子を、木の陰に隠れて見ていた宗平が、ぎこちない声を出す。


「おい……今の――――」


「やはりな。汀は、水の気脈に触れる資質があると、踏んでいた通りだ」


 共に様子を見ていた孝明は、満足そうにつぶやくと林を抜けて家に向かった。


「あ、おい……――――なんなんだよ、こいつら」


 呆れや苛立ち、驚愕と困惑を綯交(ないま)ぜにしながら孝明の後を追う宗平には、恐怖や拒絶といったものは一切浮かんでいない。それにも孝明は満足を得たようで、立ち止まって彼が横に来るのを待ち構えた。


「共に旅をするのが、嫌になったか?」


「ならねぇよ――むしろ、アンタが何者で、汀に何をさせようとしてんのかに、興味が湧いてきたぜ」


「そうか……ならば、良かった」


「なんだよ。――ああ。もしかして、おれが怖がって逃げ出すんじゃねぇかと、心配になったのか? 安心しろよ。寂しい思いは、させねぇからさ」


「なんだ、それは」


「ん? おれが居なくなったら、寂しいだろう。汀も、アンタもさ――」


「馬鹿を言え」


「照れるなって。素直になれよ」


「照れてなど――」


「おう、帰ったぞ汀! たっぷり山菜を採ってきたからなぁ」


「あっ――孝明、宗平! さっき、変な大人がやってきて…………」


 男二人に襲われたことを説明する汀に、そうかそうかと笑みを浮かべて頭を撫で、話を聞きながら共に井戸端へ行き山菜を洗い、鍋の支度を手際よくしていく宗平の様子に目を細め、思うよりも良い拾い物をしたものだと、じゃれあう汀と宗平を見つめる孝明の目には、ほんの少しの痛みが鈍く疼いていた。

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