第3話
足元が煙るほどの雨に足止めを食った孝明らは、渡る予定の川の傍にある宿場町に滞在をしていた。そこでは、多くの足止めを食らった人々がとどまり、不平顔をして酒を食らったり、天候に文句をつけたり、不安な顔をして空を眺めたりしていた。
雨で足止めを食らうものたちは、日に日に増えていく。宿の者は、客に相部屋を頼んだり、足止めを食らったことでの苛立ちを、些細な事で爆発させて喧嘩を始めたもの達の仲裁に奔走していた。
「あの、申し訳ございません」
孝明と汀が、飽きもせずに空から降り続けている雨を眺めていると、年若い――汀よりは二つか三つほど上であろう少女が、遠慮がちに孝明らの泊まっている部屋の襖から、顔を覗かせた。
「相部屋の、申し出か」
申し訳なさそうにしている少女に、先んじて孝明が声をかけると少女は恐縮したように身を縮め、頭を下げた。
「はい――もうしわけございません」
その様子に、孝明は目じりを下げて窓際から襖へと移動する。廊下で頭を下げている少女のそばに膝を着いた。
「これほどの雨だ。足止めを食う人も多いだろう。気にする必要は無い。遠慮なく、相部屋にすればいい」
孝明の言葉に、少女は勢いよく顔を上げる。安堵を滲ませる少女に頷けば、少女は「ありがとうございます」と頭を下げて、飛び上がるように立ち上がり去って行った。少女の勢いに、ぽかんとしている汀を振り向き、孝明が問う。
「かまわないだろう」
こくりと汀は頷きながらも、少女の去った方に不思議そうな目を向け続けている。
「気になるか?」
襖を開けたまま汀の傍に――窓際に孝明が戻ると、汀は与えられてから眠るときも離さずに持っているヒョウタンを抱きしめて、問うた。
「あんなに、怖がって聞かなくてもいいのに」
「相部屋を嫌がって、怒鳴る客もいるのさ」
「おれは、そんなことはしないぞ」
「そうだな――だが、誰が怒鳴るか怒鳴らないかは、あの子にはわからないだろう」
釈然としない様子の汀の頭に、孝明がぽんと軽く手を置く。そこに、再び少女が顔を覗かせて、声をかけてきた。
「あい、すみません。こちらの方との相部屋を、お願いいたします」
少女の背後に居たものは、胸を反らせてずいと部屋に入ってきた。一見して浪人者と分かる風体に、孝明が先に声をかける。
「雨が止むまで、よろしくたのみます」
じろりと男は孝明と汀を検分するように眺め、頭を下げたままの少女の背中を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らした。
「この雨で足止めを食らうものが多く、相部屋もまぁ仕方が無いと、納得をしてやる。だが、相部屋になったからといって、親しく言葉を交わすつもりなぞは、無い。そのつもりで、居るように」
居丈高な様子に、少女が顔を上げて泣き出しそうな目を孝明に向ける。大丈夫だと言うように、笑みを浮かべて頷いて見せた孝明が、男に向き直った。
「それでは、こちらもそうさせていただきましょう」
そう答えた孝明の目が、ほんのわずかに悪戯っぽく光った。その目の光を人好きのする雰囲気で隠し、孝明が少女に声をかける。
「こう雨続きであれば、気を紛らわせることが欲しくなるな」
そう言って、懐からいくらかを取り出し、少女の手に握らせる。
「おれと、汀の夕餉をよろしく頼むと、店主に伝えておいてくれ。いいね」
少女の手を両の手のひらで握りしめると、少女は真剣な顔で頷く。そっと手を離した孝明に、ぺこりと少女は頭を下げて襖を閉めると、軽い足音を立てて去って行った。
「さて、汀。夕餉の時間までは、することもない。焔の様子でも見に行こうか」
その言葉に、汀は顔を輝かせた。しっかりとヒョウタンを抱きしめて孝明の傍に寄る。そんな二人を、相部屋となった浪人者は顔を向けずに様子を伺っていた。その気配を感じながらも気付かぬふりで、孝明は汀と共に部屋を出て、階段を下りぎわに小さく唇をゆがめる。焔の様子を見に行くことに気を取られている汀は、それには気付かず草履を履いて、宿の裏手にある厩へ向かうため、編笠をかぶった。
「どちらへ、おいでで」
店の主人が、揉み手をせんばかりの腰の低さで顔を出す。どうやら少女は、すぐに店主に孝明の用意した心づけを渡したらしい。この宿に泊まることに決めた時は、他の客の対応に追われ、最低限の接客に必要な笑みと挨拶を寄越しはしたが、こうして真っ直ぐに顔を向けての対応はされなかった。
「馬の様子を見に行こうかと思ってな。夕餉の頃までには、戻る」
「さようですか」
「膳の支度を、頼む」
「それは、もちろん。雨脚が強うございますので、お気をつけて」
「ああ」
軒先で、待ち遠しそうな顔をしている汀とともに、店主に見送られて宿の裏手に回る。地に落ちた雨が跳ねあがり、足だけでなく着物の裾まで、すぐに濡れて汚れた。それを気にする様子も無く、汀は小走りで厩に向かい、焔の傍に寄る。
「ほむらっ」
弾んだ声で汀が呼べば、焔がこちらに顔を向けた。ふんふんと鼻息荒く首を伸ばしてくるのに、汀は手を伸ばして鼻づらを撫でる。
「雨続きで、狭いところに押し込められて、退屈だろう」
それは、焔を心配しているというよりも、自分の気持ちを他人事のように口にした響きを持っていた。
「汀」
ぽん、と焔の首を軽く叩きながら、孝明が厩の中に入り編笠を外してしずくを落とす。汀もそれをまねて編笠を振って水を落とした。その傘に手を伸ばして受け取った孝明が、周囲に意識を向けて人の気配が無いことを確認し、汀と同じ目線になるよう膝を折る。
「ヒョウタンの水を、意識し続けてきているな」
「どんなときに、どんなふうに揺れるかは、わかってる」
「そうか――なら、今からは、水の動きを意識するんじゃなく、水に自分の意識を伝えるようにしてみろ」
言われた意味が分からなかったらしく、汀は目を瞬かせた。
「そうだな――たとえば…………」
孝明が目の前の水たまりに――屋根の内側にまで入ってきてしまった雨に、目を向ける。目に力を込めた孝明の様子に、汀も水たまりに目を向けた。すると、水はゆっくりと持ち上がり、浮かび上がって外へ飛び出し、雨に打たれて地に落ちた。
「どうだ」
自慢げな様子もなく軽い調子で言う孝明に、目をまんまるにした汀がぎこちなく首を回して顔を向け、餌をねだる鯉のように口を開閉させる。彼を支配している驚きが硬直を解くまで待つ孝明に、一番に告げられた言葉は「すごい」だった。
「水が、ひとりでに浮いて飛んだ!」
目を輝かせ、頬を興奮で赤く染める汀のヒョウタンに、孝明は手を伸ばす。するとヒョウタンは、カタカタと震えだし浮かび上がった。再び言葉を失った汀の顔の高さに浮いたヒョウタンは、ぽんと栓を外したかと思うと細石と共に水を吹き出す。水と細石を全て吹き出し終えたヒョウタンは、再び汀の首に垂れ下がった。ふわふわと浮く水と細石は、孝明が指を振ればくるりと回り、ひょいと指を下せばヒョウタンの中へ戻る。すべてが再びヒョウタンのなかに納まると、栓がひとりでに閉まり、何事も無かったかのようにすべてが終わった。
ぽかんとする汀に、やってみろと孝明が汀の手をヒョウタンの上に乗せる。呆然としたままの汀の手と共に、ヒョウタンを振った。
「動いているのが、わかるだろう」
口を開いたまま、汀が頷く。
「水が動いていることを、感じつづけてきただろう」
また、汀が頷いた。
「今度は、自分の意識を水に向けて動かしてみろ」
今度は、首は横に振られた。
「何故」
孝明の問いかけに、うつむいた汀が唇を尖らせる。しばらく待っても答えが出そうにないので、孝明は質問を変えた。
「出来るようになりたいとは、思うか」
こくり、と首が縦に動く。
「じゃあ、やってみればいい」
ぶんぶんと、首が横に動いた。
「――おれは、出来ると思ったから汀を供にしたいと言ったんだがな」
その言葉に、ずっと足元を向いていた汀の目が疑いを浮かべながら持ち上がった。
「うそじゃない」
しっかりと告げれば下がっていた汀の顎が持ち上がる。ヒョウタンをしっかりと自分の意志で握った汀が目の高さまで持ち上げて、気合を入れるように、寄り目になってしまうほど真剣にヒョウタンを睨み付けた。
「んん……っ」
腹に力を込め、ヒョウタンを押しつぶすくらいの思いを込めて握りしめ、睨み付ける。けれども、ヒョウタンは何の反応も示さなかった。
息を止めて力を込めていた汀は、ぷはっと息を吐き出して頬を膨らませる。
「できない」
咎めるような拗ねたような汀の声を、ぽんと軽く彼の頭に手のひらを乗せた孝明が受け止める。
「どんなふうに動かしたいかを、きちんと浮かべて伝えたか」
「――動けとしか、思わなかった」
「それじゃあ、水はどんなふうに動けばいいのかが、わからないだろう。――どうなってほしいのか、きちんと伝えないと」
「わかった」
頷いた汀は、再び目に力を込め、息を止めてヒョウタンを睨み付ける。
「まわれ、まわれ」
小さな声が口から洩れた。
どのくらい、同じ言葉を繰り返しただろうか。ふる、と小さくヒョウタンの尻が動いたかと思うと、円を描くように――小さな動きではあるが、回り始めた。
「うごいたっ」
嬉しそうに汀が言ったとたん、ヒョウタンは動きを止める。
「ああ……」
「上出来だ」
落胆する汀をほめて、竜の根付に手を伸ばす。
「水の中にある細石と、この竜が汀の意志を伝える手助けをしてくれている。――夕餉の時間まで、疲れるだろうが繰り返してみるか」
「うん!」
わずかでも動いたことが、よほどに嬉しかったらしい。大きな声で答えた汀は、孝明がそろそろ止めようかと言っても、あと少しと繰り返すほどに熱中した。
足がすっかり汚れてしまったので、部屋に上がる前に湯で足をすすいでから宿に上がり、そのまま風呂に入ってはどうかと提案をされて、孝明と汀は体を温め宿が用意をした着物――無論、代金は後で支払うことになる――に着替えて、部屋へと戻った。部屋では浪人者がごろりと横になり、眠っているとも起きているともつかぬ様子で壁を向いている。
「失礼いたします」
孝明と汀が部屋に戻り、しばらくすれば声がかかった。返事を返すと女が二人、夕餉をお持ちしましたと言って部屋に入ってきた。女の手には、小さな土鍋と飯椀、焼き魚の皿が乗っている。
「どうぞ、あたたかいうちに」
女が土鍋のふたを開けると、磯の香りが部屋に広まった。
「わぁ」
汀が歯を見せて嬉しげにするのに、女二人はにこりと頭を下げて部屋を辞する。それに目礼を返した孝明の横で、さっそく箸を手にした汀が顔を上げた。
「これ、全部食べていいのか」
「やけどを、しないようにな」
いただきます、と手を合わせた汀はさっそく土鍋に箸を伸ばした。飯椀を手にし、土鍋の中に箸を入れて、ほくほくに煮られた貝を取り、湯気を追いやるように息を吹きかけ口に入れる。
「ふむぅっ」
熱かったらしく、天井に向けて口を開け、はふはふとせわしなく息を吐き出しながら目じりに涙を浮かべる汀に、はははと軽い声を上げた孝明も、貝を抓んで息を吹きかけ口に入れた。
「うん――」
土鍋は、さらりとした昆布の出汁と塩のみで仕上げられているらしい。貝の次に細切りにされたネギを口に入れた孝明は、良い味だと呟いた。
「あつい!」
ようやく貝を咀嚼し嚥下しおえた汀が、目を潤ませて孝明を見る。
「でも、うまいっ!」
「そうか――それは、良かったな」
にいっと歯を見せて笑った汀は、飯を口に入れ、焼き魚をほぐして食べると匙を取り、土鍋の汁を、こんどは慎重に冷ましてから口に入れた。舌に広がる滋味を堪能しているらしく、笑みに頬をゆるめて目を細め、鼻から満足そうな息を吐き出す汀の姿に孝明の目も細くなる。そうしてゆっくりと食事を楽しんでいると、顔こそ向けないものの、こちらの様子を探ろうとしている気配を孝明は感じた。浪人者らしい男の様子に口の端を意地悪く釣りあげながら、孝明は嬉しげに噛みしめながら食べ進む汀に声をかける。
「うまいか」
「こんなにうまいものは、初めて食べた」
「そうか、そうか」
部屋の中に広まる香りすらも味わうように、汀は箸を進め孝明も舌つづみを打つ。そうして食事も後半に差し掛かったころに、遠慮がちに襖の向こうから声がかけられた。
「失礼いたします」
そっと襖が開き、少女が顔を覗かせた。
「あの、旦那様がお酒は召し上がられるかどうか、聞いて来いって……」
おずおずと問うてくるのに、孝明は少し考えるそぶりを見せてから声をかけた。
「そうだな――では、いただこうか。ついでに、何か汀にも用意をしてくれ」
「はい」
少女が答え、再び襖が閉められる。不思議そうな顔で汀が見上げてくるのに、孝明は悪戯っぽい顔をした。
「こう雨続きでは、美味しいものを食べたりしないと、気がふさぐだろう」
ふうん、とわかったようなわからないような声を出した汀は、食事を再開させる。それに目じりを下げながら、孝明は男がこちらに全身の意識を向けていることを確信していた。
食事が終わるのを見計らっていたらしく、襖の向こうから声がかかり返答をすると、燗の用意が出来ましたと、女が部屋へ入ってきた。芳醇な酒の香りが部屋に残っていた磯の香りとまじりあい、なんとも言えぬ腹をくすぐる匂いとなる。
「ぼっちゃまには、これを」
孝明の前に銚子と杯、漬物を置いた女は汀の前に、とろりとした白濁の温かなものを置いた。椀の中には、米粒を炒ったものが入っている。
「葛湯か」
「はい」
嬉しげに答えた女は銚子を手に取り、孝明は杯を持ち上げ酌を受けた。
「よい、香りだ」
つぶやき、くいっと一気に飲み干せば、女が目じりを艶めかせる。
「ま。良い飲みっぷり」
どうぞ、と銚子を差し出され、再び受けた孝明は浪人者に声をかけた。
「一人で飲む酒も良いが、相手がいる方が、ずっと良い。こうして相部屋になったのも縁と思って、付き合ってもらえるか」
しばしの沈黙の後、むくりと起き上がった浪人者はしぶしぶといった態をつくろいながら、唇が緩むのを懸命に堪えつつ振り向いた。
「そういうことならば、付き合ってやらんでも無いな」
「有りがたい」
では、と孝明が杯と銚子の追加を告げて、懐から銭を取り出し握らせる。心得ましたと女は軽やかに立ち上がり、すぐに杯と銚子――それともう一人、酌をするための女を連れてやってきた。二人が浪人者と孝明の横に座り、酌をしようと手を伸ばすのを軽く上げた手で制した孝明が、ちらりと葛湯を食べる汀に目を向け、女たちに目配せをする。察した女二人は、用向きがあればお呼びくださいと言い置いて、さらりと去って行った。
「さ、どうぞ」
孝明が浪人者の杯に酒を満たせば、両手で杯を持ち上げた男が上品な仕草でそれを煽る。今度は自分がと銚子を手にし、孝明に注いだ。孝明もそれを、するりと飲み干す。
「良い、飲みっぷりだな」
「そちらこそ――遠慮なく、箸もつければいい」
「かたじけなく」
浪人者は遠慮をすることなく、孝明の勧めるままに箸を手にした。そうして杯を重ねていくと、目元を赤く染めた浪人者は気安い笑みを孝明に向け、問われるままに自らの身の上を語り始めた。
「某は、阿久津(あくつ)宗平(むねひら)と申すもの――阿久津家と言えば、御領主様の覚えもめでたき武門なれど、某は三男坊でなぁ……しかも、妾腹の子どもときた。家督は一の兄が継ぎ、家柄血筋を求める家には、二の兄が婿入りをした。俺に縁談が無かったわけでは無いが、元服をするまでは、妾腹の子ということで分けて育てられたゆえ、どうにもこうにもかみ合わなくてなぁ」
そこで、剣の修行に出るからという理由を無理やりにつけて、二年ほど前に家出をしたのだと言う。
「出る時に、不自由のない金銭を与えられた。ゆえに世間でよく見かける浪人者とくらべれば、ずっと楽な旅をしてきている。無茶を言って追い出されたわけでも、飛び出してきたわけでもないから、戻る家もある。某のことを道楽の浪人ごっこだと言う輩もいた。屋敷の外に出て、さまざまなものを見ている間に、そう言われる事にも納得をしてしまえるようになった。――某は、まことに恵まれた状態で旅をしておる」
ふうっと息をついた後で、宗平はにやりとしながら孝明殿ほどでは無いがなと、付け加えた。
「まあ――貴殿がどのような生活をしてきたかは知らんから、現状を見ての感想だが」
そこに、葛湯を食べ終えた汀が口を挟む。
「孝明は、ボロボロのモサモサの格好で、雨漏りだらけの寺に住んでいたんだぞ」
「へぇ――ぼうずもか」
「おれは、その寺の近くの百姓の出だ」
ふうんと好奇心を目に光らせ、無言で身の上を明かせと宗平が孝明を見る。苦笑めいた微笑を浮かべた孝明が、そっと杯の酒を吐息で揺らした。
「故あって、汀の村そばにある荒寺に住まう事にした。下手に口をきいて村の者たちと親しくなれば、いずれどこかへ流れなければならなくなるときに、別れがたくなるだろうと最低限の交流のみでとどめておき、流れる時を見計らっていた折に、汀の村に隣村の男が血相を変えて走ってきた」
孝明の口を軽くしようというのか、空の杯に宗平が銚子を傾ける。それを受け、唇を湿らせてから孝明は続きを話した。
「大名が領主の元へ参る折に、もてなすための準備と献上をする品を用意しろとの達しがあったと男は言った。それは村の者たちに飢えて死ねと言っているようなものだと、聞いてな。それならば、なんとかしようと思って身ぎれいにして旅を始めた」
話しはすんだとばかりに、残りの酒を煽る。はぁん、と感心したような呆れたような声を出した宗平が、孝明と汀の姿を無遠慮に眺める。
「その話は、某も耳にした。――一年ほど前に先の領主様が引退し、跡を継いだ息子は泉のように民から租税を湧きあがらせることが出来ると、思い違いをしているらしいな。旅の間に、連れて行かれる娘や、過酷な労働に駆り出される男たちを見た。無法者も増えた。そのせいで、某は旅を始めた頃に騙され、金品を奪われた」
だから今はこんなナリをしているのだと、部屋に通されたときにあんな態度を取ったのだと、美味なものの中に砂粒が混じっていたような顔をして、宗平は吐息と共に首を振る。
「今回の、大名の訪問もその噂を聞いての事だろう。このままでは民も黙っていないはずだ。所領の一つで一揆や暴動でも起こったら、面倒だろうからな――――しかし、孝明殿。貴殿は、楽や舞に精通しているのか」
孝明が疑念を顔に上せると、座る足を組み替えた宗平が杯で孝明と汀を差す。
「村の租税の代わりに領主様の元へ、行くんだろう。見目はそこらの娘よりも良いし、物腰も落ち着いている。女たちを下がらせる所作にも無理が無い。というか、手慣れているように見えた。その風貌で、荒れた寺に住んでいたというのなら、舞でも楽でも披露をしているうちに、貴殿にのぼせてしまった姫君から逃げたか、良い仲になったはいいが姫君の親か何かに邪魔に思われ逃げ隠れていた……と、考えた」
どうだ、と自分の推測を試すように身を乗り出した宗平に、残念ながらと孝明が応じる。
「荒寺に住まうことにした経緯は、今は詳しくは語れないが、おれは楽も舞も生業(なりわい)とはしていない」
「孝明は、法師なんだ。だから、寺にいたんだ」
孝明の言葉を追いかけるように、胸を張って汀が言う。
「法師?」
意外な言葉が出て来たと、宗平が頓狂な声を上げた。それでも汀は自慢げな様子を崩さず、ヒョウタンを持ち上げて見せる。
「この竜を作ったじじさまの手を、昔みたいに動くようにも出来るんだ」
「老人の手を昔のように――」
疑念を浮かべながら竜の根付に手を伸ばした宗平が、真剣な面持ちで細工を眺める。
「これは、良い品だな」
「だろう。――でも、じじさまは昔はもっと、いいものが作れたのにって言っていたんだ。こいつも、捨てられるところだったんだ」
「それは、もったいないな」
うん、と頷く汀はいつの間にか宗平の真横に座っている。どうやら宗平は子どもの警戒心を解くらしい。ぴったりと寄り添うように座る汀は、もっと幼ければ宗平の膝の上に座っていたのではないかと思うほどに、身を寄せていた。
「でも、じじさまは孝明にいらないって言ったんだ」
「手が動くようになるのを、か? そりゃまた、どうしてだろうなぁ」
同じように二人が首をかしげるのを眺めながら、孝明はゆるゆると酒を飲み進める。
「孝明は、出来ることが出来るようになって、出来ないことが出来るようになったからだって、言ってた」
「なんだそりゃあ――坊主の謎かけみたいだな。ああ、だから法師か」
宗平は孝明が法師だと言った汀の言葉を、信じていないらしい。そうかそうかと一人で納得している宗平を、汀が見上げる。そうしてそこから話が逸れて、宗平が今まで出会ったさまざまなことを、身振り手振りを交えて語りだし、きゃあきゃあと汀がはしゃぎながら受け止めた。そうしてはしゃいでいるうちに、汀がうつらうつらと舟をこぎ始める。
「そろそろ眠るか、汀」
眠気を懸命にこらえながら、汀が宗平の服を掴んで首を振る。
「また、起きたら話をしてやるから、もう休め」
とん、と自分の身に汀の体を引き寄せるように宗平が小さな肩を叩けば、そのまま横になった汀は寝息を立て始めた。
「ずいぶんと、懐いてしまったな」
しみじみと孝明が言うのに、子どもにはどうにも好かれる性分らしいと照れくさそうに宗平が言う。
「野放しに育てられたからな。近隣の悪ガキどもが集まっては、木登りだなんだと誘いに来るんだよ。三男坊は、暇だけはたっぷりとあるからな」
「このまま、旅を続けるつもりなのか」
「――そうだなぁ。帰る場所がある旅は、そういう場所を持たない者からすれば物見遊山のように思えるほどに、うらやましいのだろうな」
どこか遠くに置き去りにされたような宗平の様子に、孝明はあるかなしかの笑みを浮かべて、沈黙を作った。部屋の中には酒の残り香と汀の寝息だけが漂い、外界は雨で遮断され、宿内の人の声や足音なども静まっていた。
どれほどの間、雨音に耳を傾けていたのか。思い出したように、宗平が口を開く。
「法師なら、迷いの言葉を聞いてくれるか」
眠る汀を見たままの宗平の言葉に、孝明は黙して返答とした。
「あそこは、本当におれの帰る場所なのだろうか」
ぽつり、と溜まった雨粒が落ちるように、宗平は心根を漏らす。それは、孝明に聞いてもらうためでは無く、自分の心根をそのまま音にしたものだった。
「おれは、あそこに居場所があったのだろうか」
静かに、汀の体が呼吸に合わせてゆったりと上下している。
「妾腹の子として、けれど阿久津家の三男坊として生まれたおれは、どちらでもあり、どちらでもないままだ」
雨音が、規則正しく響いてくる。
「おれは、どちらに行けば良いのか――」
悩ましい息を漏らし、宗平が口をつぐむ。酒の香りも落ち着いて、部屋はひんやりとした雨音に包まれた。
銚子はすでに空になり、次を頼む気にはなれないくらい、酔いは冷めていた。
「つまらん話を、してしまったな」
湿度のある空気を追い払うように、少し声音を上げた宗平が汀を抱き上げる。無言で立った孝明が布団を敷き、そっと宗平が汀を下す。そうしてそれぞれが汀を挟んで並び寝て、雨音に耳を傾けながら静々と夢の世界へと歩を進めた。
翌朝は、窓から差し込む光のまぶしさで目が覚めた。瞼の裏が赤く染まり、早く起きろと言ってくる。伸びをした孝明は、まだ眠っている汀の薄く空いた唇から、心地よさそうな息が出ては入るのに目を細め、その隣に居るはずの宗平の姿が無いことに目を閉じた。
ふうっと息を吐いてから目を開けなおして起き上がり、窓を開け、襖を開けて通りがかった宿の者に声をかける。
「川の水は、どのような具合だ」
雨が止んだとしても、水かさが多いままでは舟は出ない。問うた孝明に、宿の者は首だけで頷いた。
「舟は、一刻ほど前から走っております。お早い方は、もうすでに出立なされていますよ」
「そうか――。この部屋に居た男は、もう出立をしているのか」
「ああ――あのお侍さまでしたら、井戸端で体を拭っておいでですよ」
にこりとした宿の者に、朝餉と出立の時刻はどうするのかと問われ、部屋に三人分を運んでくれと頼み、出立は食後に腹が落ち着いてからにすると告げた。そうして少しの銭を握らせると、眠る汀を確認し、孝明は宗平の居る井戸端へと向かった。
もろ肌脱ぎとなり、手ぬぐいで乱暴に体を拭いている宗平の体躯は、みっしりとした無駄の無い筋肉に包まれた見事なもので、孝明は感心したような息を漏らした。孝明が物陰から眺めているのを見止めた宗平が、歯を見せて笑う。
「なんだ。そんなところから、男の肌を盗み見て楽しいか」
「そういう趣味に、見えるか」
「人は、見かけだけでは判断が難しいんでな」
ゆったりと近づいてくる孝明に、からかう目を向けた宗平は手ぬぐいを肩にかけて袖を通した。
「昨日は、つまらぬことを聞かせてしまったな」
「いや、なかなかに興味深い話だった。――急がないのなら、朝餉をごちそうさせてはくれないか。汀も、喜ぶ」
「そうか――断る理由は、某にはかけらもござらぬなぁ」
袖に腕を通した宗平が、人懐こい笑みを孝明に見せる。連れだって二人が部屋に戻るころには、汀も目を覚まして身を起し、ぼんやりとしていた。
「汀、顔を洗ってこい」
こく、と首を縦に動かした汀が目を擦りながら立ち上がり、ふらふらと廊下に出ていく。
「大丈夫なのか」
「大丈夫だ」
心配げな顔を廊下に向ける宗平に、さらりと孝明は答えながら少ない荷物を整え始める。それを見ながら宗平は腕を組み、胡坐をかいて壁に背をもたせ掛けた。荷物の中に長剣があるのを見て、口を開く。
「それは、貴殿が使うのか」
「汀では、持つだけでも手一杯だろう」
「貴殿でも、同じように思うがな」
侮蔑するわけでも、揶揄するわけでもなく正直な感想として口に上せる宗平に、ゆっくりと孝明が体を向ける。
「ためして、見せようか」
両手で剣を捧げるように持ち上げると、宗平が鼻で笑った。口を開きかけたところに、失礼いたしますという声がかかり、朝餉を運んできた女と共に汀が戻って来た。
「おはよう」
顔を洗ってすっきりしたらしい汀が、挨拶をする。それに孝明と宗平が答えて、朝食がはじまった。そして、その途中
「そうだ。汀――宗平が、旅の仲間に加わることになったから、よろしく頼むぞ」
「えっ」
汀と宗平が、質の違う同じ音を発する。喜びを浮かべて汀が宗平を見上げ、宗平は困惑を浮かべて孝明を見た。
「行くあてのない旅ならば、用心棒として雇われてみたら、どうだ」
まるで他人が雇い主であるように言う孝明に、困惑と共に呆れも浮かばせた宗平へ、にやりとしてみせる。
「断る理由は、かけらも無いだろう」
むう、と言葉に詰まった宗平は期待をいっぱいに浮かべている汀の様子に、頬を掻きながら不承不承という態で言った。
「まあ、用心棒として雇われるのも、また面白い旅になるだろうな」
わあっと喜ぶ汀に、宗平が笑みかける。そうしてひとり仲間を増やした一行は、宿の客が全て出立し終えてから、のんびりと渡しの舟に乗って対岸へと移動した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます