9 入門 - Register - c

「ただいま~」と言って、梯亜てぃあが教室に戻った。


 奥の自席に行こうとしていた梯亜を呼び止める。


「ほら、この人ですよ、梯亜の居場所を教えてくれたインストラクターさん」


 もう隠し立てすることはできないぞと言わんばかりに、れんは地図を送ってくれた老人を示した。


「いえ、私はインストラクターではありませんよ。生徒の一人です」


 ……えっ!?


「えっ、だって、そんなはず…… どこかの会社の脆弱性検査をされてましたよね?」


「はい、『』の授業の一環でして、これが終われば初級編が受けられるんですよ」


 蓮は途中から唖然あぜんとしていて老人の言葉など耳にまったく入っていなかった。


 どこの世界に、データベース管理システムの脆弱性を検査できるパソコン入門者がいるんだよ…… おかしいだろ…… あっ、そうか!


 蓮は自分の常識で解決できる筋道をひらめいた。


 ――きっと、「コンピュータ入門編」はこの教室で最高レベルの授業なんだろう。「入門編」などという名前に惑わされてはいけない。


「私は一週間前にパソコンを始めたばかりですので、周りの皆さんはもっと高度なことをしておいでです」


 残念ながら、蓮の常識は本日をもって瓦解がかいするのだった。


 梯亜に何か言いたかったが、結局なにも言えなかった。


三村みむらさん、あまり部外者の方にを伝えるのは……」


 梯亜が老人に懸念を示す。


 無関係な者に組織内部の情報をベラベラしゃべるのは、自分が設定したパスワードを公開するようなものだ。


 特に発言に注意を促すのは、何気ない会話の中から機密情報のヒントを得ようとする攻撃があるからだ。ひとのパソコンやスマホをのぞき見て情報を奪取するショルダーハッキングや、マルウェアというプレゼント入りのUSBメモリをわざと落として拾った者に使わせる、といった攻撃の仲間である。


 いずれも、相手の警戒の念が弱くなったすきを突いて成立させる、ソーシャルエンジニアリングという非常に厄介な手法だ。これには、手練てだれのエンジニアであっても五割以上がひっかかる場合がある。なぜなら、ITの専門家は心理学の専門家ではないからだ。


迂闊うかつでした、これはすみません」


 じゃないだろう――というツッコミすらできないほど、蓮はぼーっとしていた。


 梯亜は自席に着いた。


 手に持っていた十二オンスのクリアカップをデスクの上に置く。抹茶色まっちゃいろのドリンクの上に雪のようなクリームが乗っている。帰る途中で駅前のコーヒーショップに立ち寄って買ったものだ。


 最初からそこで作業していればよかったんじゃないかと思ったが、彼女には片腕しかない。帰りは蓮がパソコンを持ったので支障なかったが、そんな物を抱えたままでは店に入ったところで何も注文できずに終わってしまっていただろう。店員に言えば席まで運んでくれただろうが、そうしてもらうことを本人が良しとするかどうかは分からない。


 ハンディキャップをかかえるということは、それだけ多くの人に支援を求める必要があるということだ。誰にも迷惑をかけずに生きることは誰にも不可能だが、人一倍せわをかけてしまうという事実は、繰り返すごとに心に重くのしかかる。梯亜があんな危険な場所にいたのは、ひょっとするとしばらく一人になりたかったからなのかもしれない。


 人格と個性を尊重し合える、共生社会の実現というものはこの時代になっても課題のままなのである。


「先生、そろそろでは……」


 梯亜の近くに座っている老婦人が知らせる。


 うなずくと、デスクの抽斗ひきだしを開いて銀製の懐中時計を取り出した。いっけん古風な代物だが、文字盤の十二時の辺りでグリーンのLEDがチカッチカッと点滅している。古風なのはデザインだけで、中身は電波時計なのだろう。


霜山しもやまくん、PCを返してください」


「蓮でいいよ、オレも梯亜って呼んでるし」


 ノートパソコンを渡しながら言う。


「分かりました。蓮くん、ありがとうございます」


 自分で許可したものの、女の子に下の名前で呼ばれるというのはどことなく気恥ずかしさがある。


 ――突然、梯亜のデスク上にあるネットワーク警告灯けいこくとうの赤、黄、青のランプが明滅し、警報音アラームが鳴り響いた。


「では、始めます」


 ……!?


 梯亜はノートパソコンを開いて、をつむいだ。ノートパソコンはさながら魔術書グリモワールといったところか。


「デーモンを封印!」


 広げた手を正面にかざして、まるで何かを放つかのような姿勢をとる。そして、Enterキーを押下おうかする。


聖炎せいえんの壁を展開!」


 翳した手を引いて握る。そして、またEnterキーを押す。


「エインヘリヤルからのリフレクション攻撃に備えよ!」


 手を伸ばして左から右に横一文字にスライドする。そして、再度Enterキーを押す。


「フレームバーーースト!」


 斜め上にもってきてから下にスライドして十字を切った。そして、四度目のEnterキー押下を実行した。


 一連の流れを止めずにやればキマっていたが、Enterキーの作業で一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくが分断されて、ぎこちないジェスチャーになっていた。いかんせん、腕がもう一本あれば、左手でEnterキーを押せただろうに。本人もそのことがもどかしかったのか、浮かない顔つきだった。


 とどのつまり、いったい何がしたかったのか、蓮には皆目かいもく見当がつかなかった。そのは本当に必要なのか、ただその一点か大きな疑問だった。


 呪文とはいうものの、三語はIT用語そのものをつかっている。他のことばについても表現をえているだけで、全て情報処理に関係している。なのに、まるで異世界の言葉に聞こえるから不思議だ。


「試合に勝って勝負に負けるとはまさにこのことですね……」


 梯亜が意味不明なことをぶつぶつつぶやく。


「まあ良いでしょう。里瓦さとがわらさん、をなさった方に警告を」


「はい、先生……」


 入口の端のほうの席に腰かけている老婆ろうばが頷く。


 梯亜の近くにいる園屋そのやよりもずっとけて見える。ほほくびまわりはよぼよぼで今にも倒れそうな感じだ。電車やバスに乗車してきたら、間違いなく席を譲られるだろう。


 こんな年寄りの方に梯亜は何を頼んだ? 老骨にむち打つような――これは一人称で遣うことばだが――ことでなければ良いが。


 老婆は受話器を取り上げる。


 そして、コール音を数回鳴らせたのち、流暢りゅうちょうで話し始めた。


Bonjourボンジュール, c'est la remplaçantセ・ラ・ランプラサン de la Yoshida・ドゥ・ラ・ヨシダ cours de PC・クール・ドゥ・ペセ. J'appelle du Japonジャペル・デュ・ジャポン


 ……えっ。


「里瓦さんはヨーロッパへ旅行にいくまえに何か語学を勉強したいとおっしゃっておいででしたので、半年前から『外国語話者養成講座』を受講してもらっています」


 なるほど、半年努力すれば言語のひとつぐらい身につけられるということか。――と、いまだに英語もおぼつかない自分がなんだか恥ずかしかった。


「とりあえず二十五言語、五十四ある国のだいたい半分ですか。あと半年あれば欧州どこの国へ行っても平気ですね」


 ファ!?


 梯亜がおかしなことをのたまわった。


「あのぉ、梯亜さん? 里瓦さんって外国語の教師とか教授だったとか?」


「いえ、半年前に初めて英語を学習したそうですよ」


 どこかお気にかかる点でもございましたか?――という表情だ。


「その一週間後にドイツ語、さらに一週間後にスペイン語、三週間後にカタルーニャ語……」


「待て待て待てぇい!」


 蓮は普段口にしないような突飛な言葉遣いを思わずしてしまった。


「……それは、それぞれの言語の……基礎までを……学習した……ということですよね?」


 り橋を踏み外さないように、一語一語、慎重に並べ立てる。


「ええっと……『外国語話者養成講座』は、その土地で二十年生きた者と同水準の文化と言語的理解力を身につけた、ネイティブスピーカーに仕上げることを目標にしています。確かに、二十歳はたちぐらいでは基礎かもしれません。人間の寿命はその四倍、五倍ですからね」


 蓮は吊り橋を踏み外して真下へまっさかさまに落ちていった。


「今度は、もう少しレベルの高い講座を考えてみます」


 これ以上レベルを上げると、古典研究や失われた言語体系の解析に大いに貢献しそうで、蓮は身震いした。


 ……すると、里瓦というあの老婆は二十五ヶ国語を修得済みだというのか? 半年間で!? おかしーだろ!?


「どんだけ天才だよ!」と口にしかけて重要なことに思いいたる。


 ――三村老人もパソコン初心者だと言いつつ高度な技術をもっていた。さては全員で口裏を合わせているな。そうすると、今日オレが来ることをどうやって知ったかだが……いや、梯亜はオレに名刺を渡してきた。おそらくは、を契機にこの三文芝居さんもんしばいを始めたんだろう。「霜山蓮という男子大学生が来たらひとつ演技をしましょう」といった具合か。


 むろん、本当に完成度の極めて高い教材だという可能性も考えられる。しかし、そうであればもっと有名になっているはずだ。このパソコン教室だってテレビで放映されていてもいいぐらいだ。今日初めて自分が知ったということが逆にひどく怪しいと蓮は結論づけた。


 ここで、里瓦が電話を終えて梯亜に報告する。


「どうやら……学生のようです。こちら……からの電話に……かなり驚いた様子でした。ただの……悪戯いたずらだったようですが、もう神に誓って……攻撃はしないとのことです」


 里瓦は途切れ途切れにしゃべる。電話で話していたときとはまるで別人だ。


 彼女の話によると、どうやらフランス語圏ごけんの学生が、吉田パソコン教室に向けて何かしらの攻撃をさきほど実行していたようだ。


 ――攻撃を仕掛けた者の居場所ってリアルタイムに割り出せるのか? 映画やドラマやアニメだと、刑事が「犯人はプロキシをいくつも経由しているせいで送信元IPアドレスが特定できないッ! クソッ!」と言うシーンがよくあるがそういったことはないのか?


 一連の流れは芝居だと疑っているので、蓮はこの教室がサイバー攻撃を受けていたということも信じられなかった。


 そもそもサイバー攻撃自体が身近ではない。インターネットという茫洋ぼうようたる空間の先から自分にかかわりのある世界へと危険が及んだことをまだ目にしたことがないからだ。先日、大学でおこった件だって所詮しょせんはウイルスによるものだった。外部から自分たちをおびかそうとするものの存在を視認するまでには到っていない。


 そういった観念から一パソコン教室がハッカーの標的になるとは蓮にはとても考えられなった。


 ゆえに、梯亜が自分をからかうために、こんなまわりくどいことをしているに過ぎないと思えてならなかったのだ。


「里瓦さんの旅行先は確かサンマリノでしたか。そういえば、チザルピーナ語の教材はありませんでした。公用語ではないのでいいかと思っていましたが、必要でしたら追加しますよ」


 もうどのような発音かすらまったくイメージできない。


「……いたりあ語を教わりました……ので大丈夫です」


 ……サンマリノという国はイタリア語なのか。……というか、この問答いつまで続けるんだ?


 蓮はここで良い手を思いついた。


「そんな有益な講座ならオレも受けてみるよ」


 実際に体験してみれば分かるはずだ。というより、梯亜たちの行動が芝居だったと露呈するだけだ。


 案の定、梯亜は戸惑った様子だった。――やっぱり、オレをだまそうとしていたのか。


「あの蓮くん、けっこう高いですよ……」


 う……そうきたか。二十万や三十万円じゃないよ……な。最悪大学をやめても……


 蓮にとって負けられないたたいだった。勝ったからといって何のメリットがあるのかさっぱりだったが。


 これが梯亜の策略であるならば、試合に勝って勝負に負けるという言葉に蓮はまろうとしている。


「だ、大丈夫!」


「年間一千万円……」


 ――ぶぶっ!? はっ!?


「いやいや、おかしーでしょ、ボッタクリでしょ、どこにそんなお金払う人がいるの!?」


 叫んでから周囲のご老人方はその支払いをしているのだという事実に気づく。


 しかしこれは額がぶっ飛び過ぎだ。梯亜はどうしてもをやめたくないようだ。なら――


「そういえば、あのとき、オレのスマホからマルウェアが検出されたって言ってたけど、このスマホにはウイルス対策ソフトもインストールしてるし、アプリだってストアのものを使ってる。変なWebサイトにだってアクセスしてない」


 蓮はスマホを取り出し、指をさして説明した。


 ――これなら言い逃れはできないだろう。


 オレは充分なセキュリティ対策をしていた。マルウェアが検出されたということだったが、その結果を告げたのは梯亜だ。


 ……もしや徳長教授が結託けったくしていたり? 自習の時に遊んでいる者をらしめようと徳長が梯亜を連れてきた可能性もある。ゲームをしていたことは反省している。だからといって、こんなみじめな譴責けんせきを受ける覚えはない。


「マルウェアはインストールしたみたいですよ」


 ……へっ? 何言ってるんだろうこのは。マルウェアを自分でスマホに入れた? そんなわけがあるか。そんなバカなことをした記憶なんてない。断じてないッ!


「この世界は、目に見えるものばかりが正解ではないのですよ」


 梯亜が哲学を語り始めた。


「気づかないうちに、みずから引き起こす。情報セキュリティってそういう分野なんですよ」


 抹茶のドリンクを手に取って一口飲む。


 どういうことだ……


「スマホ、見せてくださいね」


 梯亜がサッと蓮の手から奪い取る。


 あっ……と勝手にスマホを持っていかれたことに腹を立てかけた。が、奪われるときに梯亜と接触し、しばらく触れた自分の手を見つめるのだった。


「蓮くんは公衆無線LANを契約しているんですか?」


 あかくなっていた蓮は不意に問われて慌てる。


「えぇっ? 公衆無線の契約? えっとそれ有料サービスでしょ? オレお金ないから――って、ああ、それ、フリーWi-Fiだよ」


 スマホの画面に出ている無線通信のロゴマークを指して言った。


「無料だし、いつでもどこでも接続できるし、かなりつかえるんだよ」


「蓮くん、これはフリーWi-FiではなくWi-Fiとして分類されるものですよ」


 梯亜が衝撃的な一言を放った。だが、蓮はあまり理解できていなかった。


「え? でも無料で使えるんでしょ?」


「そうですが、そうではなくて…… まず、ネットワークというのは、ただつないだだけでは使えません。これはいいですね?」


 蓮はうなずいた。


 無線でも有線でも、何も設定していなければインターネットを利用することはおろか、どのようなネットワークも使えない。無線LANに接続して、もしくはLANケーブルをつないだだけでインターネットが使える場合は、あらかじめそういった設定がされているからだ。蓮も漠然とそういったイメージをもっていたので肯定した。


「通常、無線LANに接続すると、ネットワークに関するいくつかの情報が接続した機器に提供されます。この情報提供によって、インターネットがすぐに使えるのです」


 梯亜はひと呼吸おいてから続ける。


「そして、提供される情報の中にはDNSディーエヌエスサーバがあります。ドメイン名をIPアドレスに解決するサーバです」


 ネットワークの世界では、数値をドットによって四つのフィールドに区切ったIPアドレスが用いられている。各くらいはオクテットと呼ばれ、ゼロから二百五十五までの数値があてがわれる。


 だが、こんな数値の並びよりも「layer_0.com」といった名前のほうが人間にとっては解釈しやすい。しかし、情報機器にとってはこの名前を扱うのは得意ではない。


 そこで登場したのがDNSサーバだ。人間にとって解りやすい名前から機械にとって解りやすいIPアドレスに変換する機能をもつサーバだ。


 ちなみにこの時代ではもう、「192.0.2.1」といったIPアドレス方式は廃止された。この方式では約四十三億の機器に対してIPアドレスを振ることができるが、一人一台以上の情報機器を持つようになった今ではそれでは足りないのだ。三十二ビット四フィールドではIPアドレスが世界的に払底ふっていしてしまった。


 現在では、一九九九年に導入が開始されたバージョン六のアドレス方式が主流となっている。こちらは約三百四十かん個のIPアドレスを提供できる。澗は数字の位だ。一、十、百、千、万、億、兆、京、がい𥝱じょじょうこうの次にくる。莫大なアドレス量のためまず枯渇こかつすることはない。前バージョンとの互換性がなかったため敬遠され、主流のアドレス体系として世間に浸透するまでかなり時間がかかってしまった経緯がある。


「この名前を解決するというプロセスを逆手にとる悪行があるのです。つまり、正規のドメイン名をにせのIPアドレスに変換して教えるのです。IPアドレスが安全か不審かを判断できない機器は教わったとおりの宛先にアクセスします。野良Wi-Fiが提供するのは、こうした毒されたDNSサーバである可能性が高いのです」


「……ってことは、オレが接続してたストアはニセモノだったってこと? そこからマルウェアを自分の手で入れた……」


 嘘だろ!?


 聞かされた事実はあまりにも衝撃的だった。


 ――とすると、インストール済みのウイルス対策ソフトも…… Webブラウザも信用できない…… SNSにだって何度かログインしてるし、すでにパスワードが抜き取られてるんじゃ…… インターネットバンキングには……スマホからはつないでないから大丈夫なはず……


 考えれば考えるほど恐ろしくなった。


 蓮はうつむいていた顔を上げた。そして、梯亜に訴える。


「でも、でもさぁ、こんなのフツー気づかないよね? ムリでしょ! 仕方ないよ!」


「そうですね――」と梯亜が立ち上がり、ガラス扉の向こうで、日を屈折させて光る遠くのビルを指した。


「あのビルからスナイパーがあなたの後頭部を狙っていたとしましょう。でも、蓮くんは私と話していてそのことに気がつかない。そして次の瞬間には帰らぬ人に…… これって仕方がないと思いますか?」


 気づけないのだからせんないこと……だとは片づけにくいたとえだった。自分が死ぬということを仕方がないという言葉で表わすのは軽すぎると思えてならなかったからだ。


 事実はあまりにも重かった。なぜ気づかなかったのかと。その矛先は梯亜に向く。


「こ、この前、オレの端末からマルウェアを駆除してたよね? そのときなんで教えくれなかったんだよ」


 梯亜は椅子に座り直した。右腕をデスクについて握った手の平にほほを乗せる。


「教えていれば、また野良Wi-Fiに接続することはなかった、ということですか?」


「あたりまえじゃないか!」


 蓮は叫んでいた。


「本当に? 無料で、しかも通信速度が安定している。また使いたくはなりませんか?」


「バカにするなよ! 二度とつなぐわけないだろ! あと、こんなところ二度とくるか!」


 梯亜にたぶらかされていたということが悔しくて、逃げるようにパソコン教室を後にした。実際は蓮の勘違いにすぎないのだが。


 バカげた周辺機器に、バカげた梯亜の呪文、一介の老人を英才にしてしまうという講座もそうだ。そういったひとつ一つが自分をさげすんでいるように思えて苛立いらだった。


 帰宅したときの道のりは全然覚えていない。


 アパートに戻ってきて、自宅の扉を開け、肩に掛けていたボディバッグを外して投げた。


 何もかも腹立たしくて、ベッドに突っした。


 オレが危険なWi-Fiにまたつなぐ? 火中のくりを自分で拾いに行くわけがないだろう。


 蓮はポケットからスマホを取り出した。当該無線LANに接続されっぱなしになっていたのですぐに無線機能をオフにした。それからスマホを折りたたみ式の丸テーブルの上に投げた。


 梯亜のパソコン教室に行けば、自分の中のモヤモヤを解決してくれるだろうと頭の隅で考えていた。しかし、帰ってきてみれば全く逆だった。彼女のもとに行ったこと自体が間違いだったと後悔していた。


 ――夕暮れ時に差しかかり、オレンジ色の西日が部屋を染める。


 うつぶせになっていた蓮はそのまま眠ってしまった。


 蓮が起きたのは空がかなり暗くなってからだった。


 暗い中、時間を確かめようとテーブルの上にあるスマホに手を伸ばした。


 電源ボタンを押すと画面が光り、時刻が表示された。午後九時だった。だいぶ寝過ごしてしまった。


 腹の虫が鳴る。


 コンビニ行くか飯をつくるか迷ったが、昨日きのう買い物に行ったらカレーのルーが安かったので大量に購入したことを思い出した。タマネギ、ニンジン、ジャガイモといった野菜はあるし、豚肉は冷凍保存してある。どうせなら、手軽で少し変わったカレーをつくってみようと思いついた。


 スマホを手に取って、レシピを検索しようとWebブラウザを開く。


 無線機能がオフになっていることに気がついて、オンにしようと――して、サッと手を引いた。


《また使いたくはなりませんか?》


 梯亜の言葉が虚空に響いた。無意識だったとはいえ、自分は確かに野良Wi-Fiを使おうとしてしまった。


 もし、大学で梯亜に指摘されていたら、今頃忘れてつないでいたかもしれない。恐悸きょうきして憤怒ふんぬして、やっと寸前で自覚できたのだ。梯亜の言ったとおりだった。また使おうとしてしまった。



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