8 入門 - Register - b

 直下に列車が走る、横倒しの鉄製の網の上が彼女のオフィスだ――いや、ただの休憩場所であった。


 網は高架の端に向かって斜めに上昇しているため、座るにはちょうどよい場所だ。が、老朽化した網が破れて落下すれば確実に怪我を負うし、最悪いのちがない。


 梯亜の前には砂利じゃりが敷き詰められた、びついた線路が横たわっている。


 この線は、二〇二〇年の東京五輪までは旅客車両が通っていたが、その後経路が変更された。経路変更後は、夜間に貨物列車の専用路線として活用されていたが、維持費用の関係で廃止が決まった。


 網に座り、アルミ製のノートパソコンを広げて片手で打鍵だけんを繰り返す。


 れん梯亜てぃあの前にやって来た。


 網は斜面になっていてその上に梯亜がいるため、見下ろすかたちにはならない。真正面から少女の視線を捉えられる。


 梯亜はノートパソコンに視線を落としつつたずねる。


「新しい生徒さんですか?」


 開口一番に的の外れた質問を出した。


「いや、きみにスマホを破壊されそうになった学生だよ」


 ここで梯亜が顔をあげる。


「てか、ここ進入禁止でしょ」


生と死の天秤ストリートコンピューティングですよ」


 ……何かがおかしい。自分はサバイバーだとでも言うのか。


 ストリートコンピューティングという古語をもちだして、風流にキメる。まるで歩きスマホを正当化されたような感覚だった。


「いいから、教室に戻ろう」


 しかし、梯亜は視線を戻して片手でタイプを続けた。


 休憩だと思っていたが、何をそんなに頑張って入力しているのかと不思議に思って、近づいて画面をのぞいてみた。


「暇なので、のコードを書いているんです」


 確かにデスクトップ画面には、テキスト編集ソフトが展開されていて、ソースコードがカラフルに記述されている。


 が、そのが尋常ではなかった。


〈@1a3〉や〈@45z〉といった文字列を全角で入力して変換すると、パッと数百行にわたるコードが現れるのだ。それを的確な部分に配置する。コードをコピーアンドペーストするように、入力支援ツールに登録されたコードのチップを呼び出して書き加えているのである。


 梯亜は、既存のコーディング概念を逸脱――感覚指向ケノチラミックプログラミングがすでにそうではあるが――した方法でプログラミングしていた。


 ただし、このプログラミングスタイルは感覚指向プログラミングと違って、簡単には会得できない。おそらくこの少女にしか無理だ。


 四けたほどの入力で、数百行を書けるのだからかなりすごいことだ。が、頭のアットマークを除いた、三十六進数の三桁の値で、四万六千六百五十六通りだ。三パターンや四パターンならおぼえられるが、この数の意味のない文字の羅列られつと、ひもづいているコードを暗記するのは不可能に近い。


 これらを自在につかい分けるという妙技は、彼女が常人の域を脱しているとしかいいようがない。


 そして、設計書の存在しない膨大ぼうだいなデザインを、瞬く間にエディタに落とし込んでいくさまはまさに圧巻である。


 ――というか、作業の説明をされたが、蓮には言葉の意味と行動とが脳内でリンクしなかった。


 迎撃用?――どういうことだ? それよりも暇だって言ったな。


吉田梯亜よしだてぃあ、他のインストラクターさんに任せてていのかよ。そりゃあ『瞋怒しんどのバラル』で得た莫大ばくだいなお金があるだろうから、きみは働かなくてもいいんだろうけど」


 蓮は梯亜を呼び捨てにすることにした。本人も下の名前で呼ばれることを望んでいたし、間違ってはいないはずだ。


 しかし、パソコン教室の経営方針はオーナーである彼女が決めることだ。部外者の蓮が口出しするなど普通は言語道断である。それでも蓮は訴えられずにはいられなかった。


 ふふっと梯亜は口もとをほころばせた。


「何がおかしいんだよ――」


 蓮は憤慨ふんがいしかけたが、少女のあおく美しい瞳に見つめられてその声は弱々しくなってしまった。


「ごめんなさい、久しぶりに『梯亜』って呼ばれたので嬉しくてつい。みなさん、吉田さんとか吉田先生とかそんなのばっかりで」


 パソコン教室では一インストラクターなのだからそうだろう。社会的にもファーストネームで呼ばれる機会なんて皆無だ。それこそ友達でもないかぎり…… 友達……


「もしかして友達がいないとか……」


 この問にはムッとしたようだった。


「ええそうですよ! 日本に限定した話ですけど!」


「日本に? って、ことは海外にはいるってこと?」


「ジュニアハイスクールの頃からユニバーシティまでUSAにおりましたので」


 なるほどな。瞳の色といい、顔立ちといい、ハーフなのかもしれない。向こうに親の故郷がある可能性もある。――あれ? ユニバーシティって大学だよな。このいくつなんだ?


「ええっと、梯亜って何歳なの?」


 蓮はかなり直截的ちょくせつてきき方をした。女性に年齢をたずねるのはなんとやら――だが、まぁ、若い者どうしなので、シビアに考えて婉曲的えんきょくてきになる必要もないだろう。


「十八です」


 これには少々驚いた。蓮と同い年だったからだ。


「えっ、でも、大学出てるんだよね?」


 中退したか、国内の大学に転学したのかと蓮は考えたが――


「ええ、通っていましたよ。二年前に卒業しましたが」


「えっそれって……」


 ……飛び級!?


「それと、『瞋怒のバラル』で得たお金は先月の電気料金に消えてゆきました」


 梯亜はノートパソコンをパタンっと閉じると、網の上からりてきた。


 ――えっ、えっ!? アプリの開発報酬ってそんなに少ないものなのか!? それとも、パソコン教室の電力使用量ってそんなに多いのか!?


 蓮は混乱していた。飛び級の話もそうだが、今後、この少女に質問するたびに自分の中の常識がき乱される予感がした。


「さて、休憩はこのくらいにして、あなたの言うとおりそろそろ帰りますよ」


 本当に少し息抜きをしていただけだったようだ。それなのに早く戻れと言ってしまったのは、ちょっとひどかったかと蓮は反省した。


「インストラクターが一人もいないという状況はあまり良くないですからね」


 ――それはそう。……はっ!?


 今までの認識が総崩れになって蓮は周章狼狽しゅうしょうろうばいした。


 右手でパソコンを抱えて、てくてくと梯亜は線路をまたぐ。その様子をほうけながら蓮は見送る。


「――まって、まって」


「はい?」と梯亜が振り返る。


「いや、いや、いるでしょ! インストラクター、あのすごいおじいさんがッ」


「すみません、どの方かはわかりませんが、インストラクターはずっと私一人ですよ」


 まるで言葉がみ合わない。


 蓮は苛立いらだった。そこまで知らないと言うなら――もしくは、しらばくれているのかもしれないが――教室に戻ってから指摘してやると心に決めた。


 砂利の道が続いているが、しばらくすると、脇のほうに古びた鉄製の階段が見えてくる。


 さすがに、身体に障碍しょうがいのある者にパソコンを持たせたままというのは忍びなかったので、蓮は「それ、持つよ」と言った。少女は「ありがとうございます」と微笑ほほえんで礼を述べる。


 梯亜がもう少しひねくれていたら、蓮もまっすぐに反感をいだいていただろうが、こう素直に対応されると、苛立ちを覚える自分のほうが悪いような気がしてなんともやりづらかった。


 目の前を歩く少女の頭を見つめる。小さなシルクハットが揺れている。足にはヒールのある黒い靴をいているので、階段で転倒しやしないかと蓮ははらはらしながら見守った。


 黒い階段を降りると、両開きになるグリーンのフェンスの扉がある。


 扉の前――梯亜たちのいる側ではなく反対側――には〈関係者以外立入禁止〉の文言が表記されていて、扉の上に登りでもしないかぎり、こちらに進入することは通常できない。


 しかし、扉どうしのあいだに隙間ができていて、うまく身を滑り込ませられれば通れなくもなかった。が、に見つかればただでは済まないだろう。


 蓮としてはこんなところ早く出たかった。そもそも、入るときだってだいぶ躊躇した。


 居場所を教えてもらったとはいえ、半信半疑だった。もし梯亜がいなかったとしたら今頃は、意味もなく不法侵入したバカな大学生という不名誉な称号レッテルを授かっていたことだろう。


 梯亜を見つけて安堵したことは言うまでもない。梯亜がいれば、最悪、進入について問いただされたとしても、「この子がどうやら迷い込んでしまったようで――」とかろうじて言い訳ができる。この少女であれば、中学生だと主張しても受けれてもらえ――そうにはないが、あるていど緩衝材かんしょうざいにはなってくれるだろう。


 いったいなぜこんなところで休憩していたのか。駅前に行けばカフェや喫茶店があるだろうに。ストリートコンピューティングをしたかったのなら、公園だっていい。禁止されている場所にわざわざ入る必要はない。


 また、彼女自身、入ってはいけないということを判断できないわけでもないし、スリルをあじわいたいなどという冒険を楽しむ年齢でもないはずだ。


 元から行動の理解しがたい少女だったが、今日は余計に解らなくなった。


 梯亜をフェンスの隙間から押し出して、自分も抜け出る。


 左右を見まわして誰にも見られていないことを確認する。


 フェンスの先は駐輪場になっていた。自転車はたくさんめられているものの、幸い人の姿は見あたらなかった。


 高架下の壁には、色々なスプレーによる落書きがある。夜は暗く治安の悪そうな所だが、昼間は比較的静かな場所だ。


 ブーンと監視カメラと目が合った。今はドローンにカメラを取り付けた飛行型監視カメラが普及している。


 線路上にいたときに撮影されてはいまいかと少々心配になったが、梯亜いわく「それなら大丈夫ですよ」とのことだった。何を根拠に大丈夫なのかは不明だった。……本当に平気なのか?



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