7 入門 - Register - a
分解されたスマホは目立った支障もなく健在だった。
「ったく、なんだよあれ!」
自宅で独り
分解したスマホに何かあれば、こちらにご連絡くださいと、彼女は去り際に名刺を渡してきた。だが、そんなものをもらったところで、連絡する気などさらさらなかった。
しかし、そう決めていたというのに、なぜかイライラして仕方がなかった。あれ以来「
あの日、
ちょうどそんなときに、構内のネットワークにマルウェアが侵入するという事態が発生した。
原因は蓮のスマホに潜伏していたコンピュータウイルスによるものだった。
当該のスマホを、構内の無線LANに接続したことを契機に発病したようだ。
蓮は責任を感じつつも、ウイルスごときなぜ大学側で処置できるようになっていないのかと思った。
また、蓮は
システムに影響を与えたことに対するお
ふと、ベッドの近くにある折りたたみ式の丸テーブルに目がいった。
低いテーブルの上に、
蓮は名刺を手に取って住所を眺めた。大学の近くだ。
そこで蓮は思いついた。彼女はスマホに問題があれば連絡をするように言っていたが、何もない状態でいきなり押しかけたらどうなるだろうか。アポイントメントもとらずに行くのだ。あの
仕返しだとばかりに梯亜のパソコン教室に
蓮は淡いキャメル色のボディバッグを肩に掛けると、家の扉を開いた。
ガラス張りの簡素なたたずまいの教室だった。ガラスの上に青字で〈吉田パソコン教室〉とデカデカと書かれている。デザインとしてはとてもダサいが、ここが吉田パソコン教室であることは
右側にある自動ドアから中に入る。オーナーを知っているとはいえ初めて来る場所だ。若干緊張を覚えながら進んだ。
入ってすぐのところに受付があった。その受付のカウンターから奥に向けて直角になる壁の前は資料棚になっていて、バインダーやフォルダーをまとめるファイルボックス、情報処理に関する書籍が乱雑に並んでいた。
入口から左手奥には観葉植物の
カタカタカタカタッと小気味よいタイピング音が聞こえてきた。
どうやら、このパソコン教室ではメカニカルキーボードを採用しているようだ。キーの優れた反発力と高い耐久性を誇る高価なキーボードで、ヘビーユーザが好んで使う傾向にある代物だ。
このような教室で使われるパソコンのキーボードは、安価なメンブレン方式の物を採用するのが一般的だ。
生徒ひとり一人が分け隔てない環境で学べるように、それなりの台数のパソコンを購入もしくはリースする。パソコン一台一台はいうまでもなく高価なため、コストとして削れる部分は削るのがフツーである。
そこまで考慮したうえで、このキーボードを採用しているのだとしたら、この教室のオーナーはとんでもなく変態だ……まぁ、梯亜なのだが。
けれども、蓮の考えは残念ながらあまかった。
キーボードの配列が、清く正しく
一般的なキーボードは
この配列は
ただし、メリットに反してその知名度はあまりに低く、QWERTY配列が市場を独占していることもあり、このキーボードを購入すること自体がまず困難だ。ここに在るキーボードたちは確実に特注品だ。
梯亜が想定以上の変態だったと
そんな彼女に振り回される生徒たちの気持ちを推し量ると気の毒でならなかった。
教室を見わたすと、やはり高齢の人たちばかりだった。蓮は今日は講義のない日だったが、社会人がこんな平日の昼間から教室を訪れるのは難しい。
今や国の年金制度は撤廃され、終身の労働を国民は課せられている。
年金をもらいたい者は、民間の保険会社を利用するしかない。
ただ、働くしかないといっても、七十一歳以上の労働者の週間労働時間は二十五時間以下と厳しく定められている。つまり、週五日働く場合は、午後の早い時間には帰宅できる。もし、一日八時間働くならば週休四日だ。また、残業の一切を法律で禁じられている。
それで、新卒と同程度の給与が振り込まれるので、一概に悪い方向に進んだとも言い切れないが、政府の負担を企業に丸投げしたようにも見てとれる。
もしも自分がインストラクターになったら、こんなマニアックな機器や指導はやめさせようと決めた。パソコンに不慣れであるから教室に来ているのだ。
一般的なものから逸脱した教え方をされた結果、スキルがまったく身につくことなく脱落してゆくと思うと、生徒たちがあまりに
――自分は大学の情報学部に在籍しているし、高校時代から趣味で組んでいた経験もあり、
蓮は梯亜を探した。
しかし、見あたらない。奥にあるデスクは空席だった。
そして、そのデスクに対して縦に並ぶ生徒たちの席は、ところどころ空席がある。だいたい二十人ぐらいは収容できそうなのに、たった三人しか生徒がいない。
受付に人はいない。しかたがなく、蓮は一番近くにいた老人に尋ねることにした。
――そして後悔することになる。
「あのぉ、吉田梯亜さんはいらっしゃいますでしょうか?」
老人は言う。
「先生ならいつもの場所ですが――」
だが、蓮はそんな言葉には耳を傾けてはいなかった。もっと注目しなければならない点があったからだ。
発言した老人のデスクトップ画面には、背景色の黒いコンソールや、データベース言語のコマンドが何百行にも
老人は蓮の問いかけに素直に回答してくれた。
「某企業が開発した
老人の言葉の意味がさっぱり理解できなかった。
「NoSQL」はかろうじて知っていた。関係方式(表形式)ではないデータベース管理システムの総称だ。
大規模データベース向けの理論をつかさどったシステムである。
表にデータを格納してゆく
列のトップに項目名を定義して、下方に向かってデータを入れてゆく。表計算ソフトで行と列にデータを入れてゆくようなものだ。表計算ソフトのシートにあたるものをテーブル、ファイル自体はデータベースないしスキーマと呼べるか。
テーブルをもつデータベースをまとめているものが、SQLというデータベース管理システムだ。
NoSQLにはこの「表」がない。いくつかの方式があるが、ツリー構造のものが多い。
ツリー構造とは、樹形図で描けるかたちだ。「果物」の中に「みかん」と「りんご」があって、「みかん」の中に「ポンカン」「キンカン」「イヨカン」があって――と、どんどん分岐してゆく構造を指す。この構造を
「逆アセ」は、逆アセンブルというハッカーが用いる
「サイドチャネル」は、より正確にはサイドチャネル攻撃という。プログラムやシステムの処理時間、電力量や磁界などの物理的な現象を観察し、内部の仕様や機密情報を導出する攻撃である。
……とはいうものの、万人向けの解りやすい説明の困難な専門家の領域だ。もちろん、蓮の指導可能レベルなんてとっくに
……生徒だと思っていたが、この老人はインストラクターだったのか。おそらく隣にいる老婦人を教えているのだろう……
老人の話によると、梯亜はどうやら外出しているようだ。ただ、近所にいるらしい。老人は蓮のために地図をスマホに送ってくれた。
案内にしたがって、梯亜の居場所へと向かう。
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