5 感覚指向 - Startup - c

 少女は、ソーサーを目の前のガラステーブルに置いたまま、右手でカップを持ち上げて口をつけた。芳醇ほうじゅんなコーヒーの香りが部屋に漂っている。


 彼女の右隣には、年配の婦人が同じように革張りの椅子いすに腰かけて、コーヒーを飲んでいた。落ち着いた色合いのショールを巻き、白髪で眼鏡めがねを掛けている。ゆったりとした白いブラウスに、ベージュ色のロングスカート、そこに焦げ茶色のおしゃれな革靴を合わせている。藍色あいいろの花柄の描かれた陶器とうきのループタイをくびにしている。


 ガラステーブルの脇にはアルミ製のノートパソコンが開かれた状態で置かれており、りんごのマークが白色に輝いている。


「私はコーヒーは苦手なのですが、これはだいぶおいしいですね」


 少女は言う。


「そうですね、焙煎ばいせんしたてということもあって格別ですね」


 二人は、酸味のある本格的なコーヒーを味わっていた。


「教授は無類のコーヒー好きですからね。豆からいて出さないと飲んでくれないんです」


 二人のいる場所から、本棚となっているスチール製のシェルフを挟んだ奥のほうから、声が聞こえてきた。


「すみません、長らくお待たせしてしまいまして……」


 眼鏡を掛けた利発そうな男が奥から出てきて、この居室きょしつあるじである教授の不在を謝った。


「いいえ、教授は講義なのですから仕方ありませんよ。私たちこそ、お約束の時間より早く訪問してしまいましてごめんなさい」


滅相めっそうもないことですよ、こちらこそお呼び立てしてしまって……」


 男は慌てた。


 ――そのときだった。不意に部屋の照明が全て消えた。


 この部屋には窓があるため、照明が落ちたとしても真っ暗にはならない。


「おや? 電気系統の故障ですかね?」


 突然の事象に男は疑問の声を上げた。


 しかし、しばらくすると再び点灯した。


「ここはLEDを使用されていないのですね」


「あー、実は学長がLEDに懐疑的な立場でして。従来の照明よりもコストパフォーマンスが実は良くないだとか、人体に悪影響を及ぼすだとかおっしゃってるんですよ。所詮しょせんは電灯ですし、鶴の一声にわざわざ反対する人もいないわけです」


 大学の内情を滔々とうとうと語る。


「照明のスイッチはそこの壁に備え付けてあるものだけですか?」


 居室の出入口付近の壁を指して少女が質問した。


「え、ええ、基本的には。あとは守衛室でも集中的に管理しているかと。または職員証のアプリからでも、自分に関係のある部屋の明かりは操作できますね」


 それが何か?――と男は首をかしげていた。


「スマートフォンのアプリでも照明をオン・オフできるんですね?」


「ええ、まぁ。そこはLEDの件と違って学長も特にふれなかったようですので」


「――ということは、大学構内のんですね?」


「はい、おそらくは。詳しいことはIMCアイエムシーに確認してみる必要がありますが……」


 今度は曖昧にうなずいた。


「IMCというのは?」


「あ、すみません。この建物内にる情報メディアセンターの略称です」


「なるほど」


 少女は左手の人指しゆびを口元にあてて考える素振りをする。そして言う。


「――私をそのIMCに連れていってはくれませんか?」


「構いませんが……何かお気にかかることでも?」


「すこし、いまの停電が気になったので」


 ――この少女が言うのだから、電気系統にかかわるITインフラの障害か? 男は気になった。


「――と言うと、ネットワーク絡みで何か問題が?」


「すみません、そこまではっきりしたものではないのです。私の杞憂きゆうだと良いのですが……」


「分かりました、ご案内いたします」


 そのまま三人は部屋を出た。出て、右手に進む。


 少女は部屋のについて疑問をもった。


「木戸先生、部屋の鍵をかけられなかったようですが、よろしかったんですか?」


「ああ、自動ロック式の電子錠でんしじょうなんですよ。開閉のたびにロックがかかって、外側からは開けられなくなるんです。同じ要領で、先ほどお話ししました照明についても、天井に人感じんかんセンサーが搭載されていまして、時間がつと自動で消灯するんです」


 今どき珍しいものでもありませんが、という表情で解説した。


「うちはまだ、こんな鍵を使っているので珍しく思いまして――」


 少女は黒いドレスのポケットから、ピンタンブラー錠を取り出して見せた。


 木戸はしげしげとそれを観察した。凹凸が少なく平らに近い、五百円硬貨のような洋白ようはくの金属片だ。であれば、古民家や倉庫の鍵として使われていた有名な鍵のひとつだったが、もはやレトロな代物となっていて、小学校の教科書にも出てくるほどだ。


「これは…… こちらのほうが珍しいじゃないですか」


 そう言いながら、木戸はエレベーターの階上へのボタンを押す。


 鍵を眺めながら木戸は心配になった。ふるいタイプの鍵というのは、そのぶんだけ危険性が高い。ロジックがもろく、ピッキングの対象になりやすいからだ。強盗や空き巣の温床になりかねない。こんな少女が家の鍵とするにはあまり好ましくないのだ。


「この鍵は確かに珍しいですが、泥棒に入られる危険性がないともいえないのでは?」


 鍵を少女に返しながら注意を促す。


「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫ですよ、今まで侵入されたことはありませんし」


 ……そういう問題じゃない気がする。木戸は、はははと苦笑するしかなかった。


 エレベーターのかごがやってきて、静かに扉が開いた。


「あっ、ごめんなさい、階段はありますか?」


「えっ、あ、はい、こちらです」


 エレベーターを離れて脇の通路を進んだ。


「しかし、IMCは六階ですがエレベーターを使われたほうがよろしいかと思うのですが……」


 木戸は老婦人を見て気遣きづかった。


 ここは三階だが、高齢の人を階段で三階も上にのぼらせるのはどうにもひけた。


園屋そのやさんはここでお待ちください」


 少女は婦人に告げた。


「あ、でしたら、部屋のカギを今開けますので、そちらでお待ち頂いたほうが――」


「お気遣いありがとうございます。ですが、ここで……いえ、こちらのほうがですので。園屋さんも、いいですか?」


「私はのおっしゃるとおりに致します」


 園屋は頭をぺこりと下げた。


 少女は階段のステップに足をかけた。


 この建屋たてやの床は、部屋も廊下もすべてタイルカーペットになっている。足音は小さくなるし、転んでも平気だ。だが、階段は硬質な塩化ビニル樹脂で造られているため、あしに負担がかかりそうだった。


「よろしいのですか?」


 木戸が後からついてきて、心配そうにたずねてきた。


「ええ、園屋さんを階段でのぼらせるのは忍びないですからね……」


「ええっとぉ、そうではなく、あんなところに置き去りにしてしまって善かったのかなと――」


 少女は階段を上がりつつ答える。


「上にも下にも移動できないとなると、あそこが最善です」


「最善」というのは、なんとも妙な言葉だと思った。元いた部屋の椅子いすで待っていてもらったほうが最善なのではないだろうか。あんな腰かける場所もない廊下に待機させることが正しいのか。――いや、そもそも素直にエレベーターで六階まで上がれば良かったのでは?


「そういえば、先ほど『安全』がどうとか、おっしゃっておりましたが、あれはいったい?」


「あーそれはですね……ええっとこの階にIMCが?」


 壁に記された〈6F〉の文字を見てとり、少女は階下の木戸に問いかけた。


 木戸がうなずいたのを確認して、右手に折れて六階の通路に出た。


 右顧左眄うこさべんして辺りを見まわし、IMCを探した。左手にはエレベーター、右手には非常口だろうか、奥のほうにグレーの地味な扉があるだけだった。


「こちらですよ」


 後から出てきた木戸に促されて、左手に進んで左に折れて、さらに進んで左に折れた。


 すると、ガラスの扉が左右に開かれた施設が見えた。


 その奥には受付らしきカウンターがある。せわしなく動きまわる者や素早くキーボードをたたく者、受話器を手にしきりに何かをしゃべっている者らが詰めていた。


「ここがIMCですよ」


 少女はIMCにそそくさと入ってカウンターに手を着いた。早速願いを申し出る。


「あの、こちらの大学のサーバルームをせて頂けますか」


 この発言には吃驚きっきょうさせられた。


 入口付近に立っていた木戸は、慌てて歩み出た。


「えっと……業者の方ですか?」と案の定、受付の女の子は戸惑った。学生だろうか、隣の少女と同い年ぐらいにみえる。


 IMCでは、各種情報機器の扱い方や、持ち出し可能なタブレットや端末、スキャナーの貸し出し、大判プリンターの利用申請受付などを実施している。それらは職員がずからおこなわず、学生をアルバイターとして雇い、任せている。


 目の前の女の子もそういった用件を想定していたはずだ。それが裏切られたかたちとなったわけだ。年齢が同じぐらいなのだから誰でも勘違いしてしまうだろう。


 一重ひとえにこの少女がいけない。外見もそうだが、名乗りもせずに、いきなり大学のコアな部分に乗り込もうと言うのだ。はいどうぞと案内してくれる者などいやしない。


「せ、先生、お待ちくださいッ」


 木戸が少女を「先生」と呼ぶ。園屋の言った「先生」とはまた少し意味の異なる表現だ。


 受付の女子学生はいっそう目を白黒させていた。大学構内で「先生」と言えば、講師か教授に該当する。自分と同年代ぐらいだと思っていたのに、遠く突き放されたような感覚に捉われた。そして、さすがにそれはないだろうと、自分の考えを否定する。だが、それではなぜ「先生」なのだろうか。やはり講師か、もしかして教授なのでは? しかし、こんな先生はいただろうか。もしいたら、否応なしに目立つ。彼女は思考の深みにはまりかけていた。


「あっ、失礼いたしました。私、近所のパソコン教室でインストラクターをしております、吉田梯亜よしだてぃあと申します。こちらの課長さんいらっしゃいますか?」


 礼儀正しくお辞儀をして頼み込んだ。


 ……パソコン教室のインストラクターさんだから「先生」なのかぁ。受付の女の子は安堵していた。


 ――だが、それは園屋の言う「先生」だ。助教授の立場にある木戸が呼ぶ「先生」とは意味がまた違う。


「はい、少々お待ちくださいっ!」


 そこまで考えなかった女の子は、元気よく言った。


 反対に、梯亜てぃあのほうがそわそわと落ち着きなさげだった。


「どういったご用件でしょう?」


 すぐに男性職員が受付にやってきた。


 梯亜は挨拶あいさつを繰り返して、今度は〈吉田パソコン教室〉と書かれた名刺を渡した。肩書きは〈オーナー兼インストラクター〉とある。右上には、文書作成ソフトや表計算ソフト、プレゼンテーションソフトに関する認定資格のロゴが印刷されていた。


 そのロゴを見て男性職員はピンッときたのか、話し始めた。


「あ、集中講座の講師の方ですか、三年生は来年の就活を見据えて準備をする時期ですからね。説明会やインターンシップだけじゃ不安だっていう学生に、少しでも自信をもって就活に臨んでもらいたいですからね」


 職員の男は、梯亜が資格取得のために大学に呼ばれた特別講師だと勘違いした。


「……それにしてもずいぶんお若いですね? もう少し、ご年配の方とうかがっておりましたが」


 不思議に感じて思案した。


「あ、あの、サーバルームをみせて頂いてもいいですか?」


 男性職員の話を遮って、梯亜は自分の依頼を押し通そうとした。


 事のしだいを見まもっていた木戸が再び焦りだす。


「ん? サーバルームを使った演習ってありましたっけ?」


「……いえ、演習ではなく、本番です。すみません、一刻を争うんです、お願いします、案内してください!」


 一息に言ってから、梯亜は大声を出したことが恥ずかしくて赤くなった。


「え? どういうことですか?」


 梯亜が突然声を張ったので、男性職員は驚いていた。


 周りで働いている職員らも何事かと顔を向けてきた。


「すみません、なんでもありません。お騒がせ致しました」


 木戸が謝った。「……ほら、先生行きますよ」とささやいて、施設から出るように促した。


 IMCを出ると木戸は言った。


「保守業者でもなければ、サーバルームなんて見せてもらえませんよ…… いちおう、情報セキュリティがあるんですから、部外者にそうやすやすと急所をさらすようなマネはしないでしょう」


「……その情報セキュリティがおびやかされようとしていたとしても?」


「へっ?」


 梯亜はポケットからスマホを取り出して素早く操作して電話をかけた。


「もしもし、園屋さんですか? 持って来た端末を構内の無線LANに接続して、miaミアにネットワーク分析をお願いしてください」


「え、えっと、無線LAN接続用のパスワードってご存知でしたっけ?」


 木戸はたずねずにはいられなかった。


 梯亜は何をそんな当然のことをくんだという表情で首をかしげた。


「もちろん、知りませんよ。けど、すぐに不要になりますので。先に謝っておきます、ネットワークを一時的に不安定にさせてしまうかもしれません」


「それって…… どういう……」


 梯亜はスマホで怪しげなアプリを起動させていた。


 右掌みぎてのひらにスマホを乗せて正面に突き出す。


「大海に咲き誇れ! 証の征服者クレデンシャルペネトレーター!」


 迫力あるを唱えて、アプリのボタンをタップした。


 木戸はもはや梯亜についてゆけていなかった。サーバルームに入りたいと言っていたのに、アプリを起動して何をするというのか? あと、その儀式には何か意味があるのか?


「昨年、CVE-2036-24700として発表された脆弱性ぜいじゃくせいがどうやら残っているようですね」


 梯亜はスマホの画面を見ながらつぶやいた。


 脆弱性――いわゆるセキュリティホールとは、ハードウェア・ソフトウェアを問わず、各製品に潜り込んで存在する情報セキュリティ上の欠陥のことだ。


 CVEシーブイイーは発見されたそれらの脆弱性に識別コードを付与して網羅的に管理するデータベースをいう。コードには、「CVE-」に続いて発見された年の西暦、通し番号が割り当てられている。


 二〇一七年には、過去最大の一万四千七百件の脆弱性が登録されたようだが、その記録は年を追うごとに増えてゆき、およそ二十年経ってさらに一万追加された。


 脆弱性発掘技術の向上もあるだろうが、情報機器を誰もが扱う時代になったということが大きいだろう。ITにふれてリテラシーを深める者が多くなれば、技術の悪用を試みる者もまた多くなるということだ。


 また、ネットワークカメラやプリンタ、スマホで自在にオン・オフできるエアコンや扇風機、テレビや複合機といったIoTアイオーティーの普及により、未知の脆弱性が際限なく増えていることも一因だろう。


「さて――」


 テキスト編集アプリを起動する。ただのテキスト編集アプリではなく、下部に複数のボタンが並んでいる。


 梯亜は保存済みのファイルの中から特定のものを選んでコピーをとった。コピーしたファイル開いて、中身を編集し始めた。


 開いたソースコードは綺麗にカラーリングされている。最初に実行される関数の中身を消したり足したりして修正した。コードを下にたどって値を何個も変える。また、いくつかの条件式をコメントアウトし、必要なコードを加える。


 ……ここまでで十秒経っていたない。すさまじい速度のフリック入力だった。


 ――というよりも、あの速度に耐えられるスマホの性能と、コーディングをアシストするあのアプリがすごい。


 行番号のタップで行を削除し、軽いタッチで想定の文字列を瞬時にドラッグしてくれる。検索も置換も思いのままで、補完機能も素晴らしい。


 梯亜はソースコードを保存してビルドをかけた。人が入力した文字の羅列であるコードを、コンピュータが読解できる文字に変換する、コンパイルを実施した。


「――破滅と混沌こんとんかさどる有翼の化身よ、深淵より、あか天穹てんきゅうのいざないに呼応し、因果の律動を弱者の鼓動に併合せよ!」


 またもや厨二臭ちゅうにしゅうのするセリフを放ち、コンパイルしたプログラムを実行した。


「もしもし、園屋さん準備が整いましたのでよろしくお願いします。私は構内ネットワークの防衛に入りますので」


 電話で園屋に依頼する。


「ええっと……いったい何をなさったんですか?」


「無線LANコントローラの穴を破りました。今なら誰でもつなぎ放題です」


 梯亜は振り返って、微笑みながら言った。


「そ、そんな……」


 まさかと疑って木戸は自分のスマホを操作してみた。


 そしてふるえた。パスワードなしで構内無線LANに接続できてしまったからだ。


「ちょっと、これはマズイのでは……」


 大学構内のネットワークを第三者に不正に利用される可能性があるからだ。


 というより、梯亜のおこない自体、いわゆる不正アクセス禁止法に抵触するのではないか。


 脆弱性による微細な穴が空いていたとはいえ、それを大きく広げて善いわけがない。本来アクセス制限をかけている場所を意図的に開通させるのはご法度はっとだ。


ですよ」


 人指しゆびを軽く振りながら言う。


 ……うん、捕まったな、この娘。


「とにもかくにも、システムが完全にのっとられるか破壊させられる前に対処します!」


「えっ、それって……」


「――おそらく、構内ネットワークにマルウェアが侵入しています。先ほどの停電はその負荷による事象か、何かしらの攻撃の結果でしょう」


 マルウェアとは有害ソフトウェアの総称である。「mal-マル」という接頭辞が「悪い」を意味する。総称なので、ウイルスも、トロイの木馬も、ワームもすべてマルウェアだ。


 ……さて、もう後手にまわっていますし、情報が漏洩ろうえいしている可能性は大きいでしょうね。


 ウイルス対策ソフトによって侵入したマルウェアが検出されていれば、IMCは騒ぎになっていたはず。検出されなかったということは、個体を知るものシグネチャ行動を知るものアノマリーのあずかり知らぬ新種なのかもしれません。


 次善の策としては、さらなる漏洩を未然に防ぐことだ。また、マルウェアがあらたな脅威をインターネットからしてこないようにしなくてはならない。


 ――と考えると、手段は旗幟鮮明きしせんめいになってくる。


「構内からインターネットに接続する際はプロキシサーバを使っていますか?」


「いえ、プロキシは使っていませんね」


 まぁ、構内の無線LANに接続した自身のスマホが、プロキシなしでインターネットに出られているので、梯亜としては念のための確認だったが。


 プロキシサーバは、アクセス先に代理接続するコンピュータだ。


 Webコンテンツをキャッシュすることができるので、わざわざインターネットへ取得しにゆく必要がなくなる。この仕組みによりWebページを高速で表示することができる。が、これはひと昔前の話で、一般家庭において毎秒十ギガビットの超高速回線があたりまえになったこんにちでは、もっぱらセキュリティ対策として用いられることが多い。


 プロキシサーバではほとんどの場合、通信ログを保存している。内側から外側への通信に対してプロキシサーバを利用していれば、構内から外部へのアクセス先がわかる。


 そのうち、不正なサーバに接続しようとする通信だけを遮断することも可能である。必要な通信と不要な通信を選別してフィルタリングすることができる。


 緊急時ゆえ、インターネットとつながる回線を全て断ち切ってしまえば善いと思われるかもしれないが、外部との通信が途絶えたことを知ったマルウェアが、破壊活動におよぶケースもあるのだ。それに、そんなことをすれば、研究や講義に影響を及ぼすうえ、大学のWebサイトも閲覧えつらんできなくなってしまう。


 プロキシサーバを使ってアクセスを峻別しゅんべつしようかと考えていたが、別の案を検討することを余儀なくされた。そもそもこの手法は無謀だし、フツーは選択肢にすら挙がらない。


 しかしながら、直接の人為が介在しない、プログラムの挙動を瞬時に防ぐことは困難だ。よって、サイバーせんなどを繰り広げてもあまり意味はない。ハードウェアの処理速度が早すぎて、人間のほうが出しぬかれてしまう。命令や打鍵だけん速度が物理的に追いつかない。ハードウェアに負荷をあたえて処理速度を下げれば、サイバー戦にもちこむことができるかもしれないが、スマートなやり方とは言いがたいし、こちらとしても時間的ロスが大きい。


 ちょうどそんなとき、梯亜のスマホが鳴った。


 着信音はリヒャルト・ワーグナーの『ワルキューレの騎行きこう』だった。曲調が心拍数を上げるため運転中に聴いてはいけない曲らしいが、木戸も何かの警報かと勘違いして少々驚いてしまった。


「はい、梯亜です。――そうですか、分かりました。申し訳ありませんが、一階上にあがって頂けませんか? はい、はい、よろしくお願い致します」


 どうやら園屋からの電話のようだ。


「miaの解析結果が出たようです。四〇六教室らしいです」


「さあ、先生も」と言って梯亜は階段に向かって駆け出した。


「ええっと、なんですか?」


 意図が不明な木戸は慌てて少女の後を追った。


 先ほどから階段を使っているのは、むろん、エレベーターの制御装置が構内ネットワークと連携していることを懸念しているからだ。マルウェアによってエレベーターが停止させられ、中に閉じ込められてしまうことは避けなくてはならない。


 同様に自動でロックが掛かる居室も、それが機能しなくなってしまえば、分厚い扉に隔てられて出られなくなってしまう。園屋をあんな場所で待機させていたのはそういった事情か。



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